夜に、
祈りの夜
目覚めたとき、知らない世界に思わずここは地獄か、天国のどっちだろうとヴラスターリは考えて、体中が痛くて、不愉快な寒さがひどいのに前者だと察した。
ふと、手が動かないのに視線を向けて、あ、とため息のような声が漏れた。
ヴァシリオス。
白いカーテンのなかには彼だけがいた。椅子に座っているらしく不自然に体を折った状態で自分の手を握りしめて眠っている、疲れた顔を見て胸が痛んだ。
つながった手を、そっと握り返す。すると、びくりと、あたたかな指先が動いて、薄目が開いた。
「ヴァシリオス」
「……ヴラスターリ」
呼ばれた名にここは地獄だと理解する。
「互いに生き残ったわね」
「……ああ」
ジョークのつもりなのに疲れた笑いを浮かべたヴァシリオスを見てヴラスターリは眉を寄せた。そういえば、高見たちはどうしたのだろう。それに――ユキサキ。
胸がざわついて、つい視線が巡る。
「目覚めましたか」
凛とした声にぎくりと大きく震えながら反射的に体を起こすと、ひどく悲しげな顔をした霧谷がカーテンを開いて立っていた。
「簡潔にいうと、こちらの全敗です。戦えるオーヴァードたちは全員戦闘不能まで追い込められ、彼らは全員、集中治療を受けている最中です」
霧谷は淡々と絶望を口にする。
オーヴァードは人よりもずっと強い。けれど弱い。
それは心の在り方に能力が影響を受けるからだ。
ユキサキという恐ろしい敵、そして奪われた自分たちの心のよりどころの有無が能力と精神、さらには肉体にも影響を及ぼしはじめている。
「彼が暴れているとき、ネット上でいくつかのハッキングを受けました。ブラックドック数名が対応しましたが、敵はあらかじめ何重にもしかけられた情報回収ツールを使用して情報を盗まれました。
ユキサキが持ちだしたデータはジャームの冷凍保管庫の場所です」
霧谷が沈痛な面持ちで口にする言葉をヴラスターリは静かに聞いていた。殺される前にユキサキは口にしていた。
ジャームを放つ、と。
それがどれだけの人間を殺すことになるのか、この日本を地獄に変えることになるのか彼はよくわかっているはずだ。
ジャーム冷凍保管の場所は確かに重要情報であるが、オーヴァードたちの個人情報よりもランクは一つ下になる。
理由は至極簡単だ。
ジャームをわざわざ解放しようという狂人はジャームだっていない。それは保管庫が深い海の底で、おいそれと手を出すことはできないからだ。
「海の底で冷凍保存されているジャームをどうこうすることはできませんが、現在任務でとらえた数名のジャームはまだ冷凍されただけで、地下の無限牢には入っていません。海へと送られていないジャーム百体、ある場所にいます。そして彼はその場所を入手したと思われます」
ユキサキはきっとそこを狙う。
「集団戦は無意味、ストレンジャー、UGN、そしてFHも多大なる被害を受けました」
絶望を広げて、遊んで、笑っている。
「けれど最後の砦だけは守らねばなりません。なにを犠牲にしても……奴をそこで私が待ち構えて、必ず殺します」
「リヴァイアサン、それはやつの思うツボです」
確かにこの場でリヴァイアサンが出れば勝てる可能性はあるかもしれないが、それでも戦闘経験はユキサキのほうが上手だ。
いくらリヴァイアサンが対集団戦闘を一人でこなすだけの力はあっても危険なことに変わりはない。
「あなたも、相当に力を使い続けたんじゃないんですか?」
「……そう、ですね。傷ついたものを癒すのは傷つけるよりもずっと大変です。あなたは二十四時間、死んでいたんですよ」
ヴラスターリは目をぱちぱちさせた。
ユキサキの持つ遺産によって刺されて――アリオンが必死に庇ってくれたおかげで心臓は逸れた、だけだ。
だが心臓が停止し、大量の出血が続いたのを井草が僅かに効果のある治癒の力を、高見や住原、他にも多くの傷ついた仲間たちが血を輸血してくれて繋ぎ止めた。
本当は絶望して諦めてしまってもおかしくない時間を誰も諦めずにいたから今ここで生きているのだ。
ヴラスターリはそっとアリオンに触れる。
「アリオン」
「いきてますよ」
弱弱しい声でも返事があってほっと安堵が胸に広がった。
「……しばらくまともに動けませんー。あの遺産に力のほとんどとられちゃって」
「ありがとう」
アリオンがきらりと輝いて返事をくれたが、再び、沈黙--眠ってしまったようだ。
「二十四時間後、あなたのなかのレネゲイドウィルスは活性化し、自己治癒にはいりました。
このことから察してユキサキの持つ遺産、ヨルムンガンドは他者のレネゲイドウィルスを二十四時間無効化するようです」
オーヴァードにとっては相当に厄介だ。
ヴラスターリは絶望にあがいてくれた仲間たちがいたが、次もそうとも限らない。
「私は、みなの希望を繋いで生きたあなたに戦えとは言えません。けれどここでもし戦えるとしたら、あなたしかいない
あなたは彼を知っているようですし」
霧谷が責めなかったことが、逆にひどく心に沈んだ。
ヴァシリオスと二人きりになるとヴラスターリはこのあと、どうするべきかもう決めていた。
「頼むから、止めないで」
ああ、とてもずるい言葉を口にしていると、ヴラスターリは自覚した。こんな言い方をしたらヴァシリオスは自分を止めないだろう。たとえ死んだとしても、それが君なら、と口にしてくれるはずだ。そう思っていた。
「絶対にいやです」
低く、怒気を孕んだその声にヴラスターリは目を見開いた。
「まさか俺があなたをみすみす行かせると思ってるんですか、そんな有様のあなたを」
いつもと違う、丁重な言い方は軍人としての上官に対するそれだ。
今、目の前にいるのはヴラスターリだが、ヴァシリオスの目にはイクソスが見えているのだろう。
「ヴァシリオス」
「死ぬかもしれないのに」
吐き出す声は震えていた。それは怖かったと明白に語っている。
自分が死んでしまったら、とずっとずっと恐怖してくれていたのだ。
それは、ヴラスターリの知らないものだ。
命は誰でも一つしか持っていない。
オーヴァードは死にづらいが、それでもいつかは死ぬ。
誰かの思惑で作られたクローン体というものは果たして、ただの人やオーヴァードのような価値があるのだろうか? ――いつもそう思っていた。
こんな自分でも誰か一人くらい救えたらと願いヴァシリオスが――いた。
汚い。
ああ、自分は汚い。
自分は彼がいくら二人で生きたいと口にしても、いつも大切なときに戦うことを選んでしまう。
生きるよりも死を望んでしまう。かわりなんていくらでもいるからと。
自分は自分が嫌いだ。
クローン体であることを差し引いても、オリジナルから得た知識――オリジナルが持つ人を殺してもなんとも思わない共感能力の欠如。
これはオーヴァードの衝動とは違う。生まれ持った異常。オリジナルの戦いを愛し、そのときだけ生きていると自覚する感覚を、受け継いでしまった。
こんなのは普通じゃない。
オリジナルは割り切っていたが、ヴラスターリは割り切れるほどに利口じゃない。
こんな生き物はこの世に生きていてはいけない。
だって
こんなときも自分は彼を置いてユキサキとの闘いを望み、それを妨げるヴァシリオスに苛立ちを覚えている。
「本当に死んでしまう」
「それが」
どうした。
その程度のこと。
「ユキサキは私が殺さなくちゃいけない、それは誰にもできない。ここにいるオーヴァードたちはみんなもう満身創痍で、私はみんなに生かしてもらった。それは戦えってことじゃ」
「あなたに生きてほしいから生かしたんだ。俺も」
いきなりそんなことを言われてヴラスターリは驚いた。ヴァシリオスの疲れた顔は、血を失い過ぎたせいだ。
彼が自分の命をくれたことがわかる。
「あなたでなくてはいけない理由はない」
「……私はあいつの手の内を知ってる。だから」
「そうやって、言い訳を作って理由にしないでほしい」
まっすぐな言葉にヴラスターリは唇を閉ざした。
傷ついた瞳が自分の汚さを非難している。
「……ええ、ええ、そうよ。私はあいつと戦いたい。戦っているとき楽しいって、あいつは私の獲物だと思った」
そこまで口にしてヴラスターリは俯いた。
「止めないでほしい」
「……いやだ」
駄々っ子の平行線。
こんな言い合いに意味なんてない。
理解も、共生も自分たちは出来ない。
「止めてもあなたはいくんでしょう」
「ええ」
「だったら」
一瞬なにをするのかと思っていると覆いかぶさるヴァシリオスの顔を、まっすぐな瞳を、強い力で腕をねじ伏せられて、はじめて出会った時のような恐怖感が心に広がった。
理性的で紳士であろうとする彼がこんな行動をとるとは思わなかった。
口を開いて、首筋にゆっくりと吸いつかれた。
「っ、う、あ、ああっ」
血が吸われていく。
あがくこともできない。
甘美で、優しく、ぞっとするくらい気持ちのいいと思ってしまう――衝動。
「っ、死なないぎりぎりまであなたの血を吸いつくして、動けなくすればいい。俺の今の衝動はあなたを生かしたいというものだ。あなたの血を吸うことをずっと我慢してきた。けれどもしあなたが行くというなら俺はためらわない、ジャームだと言われても」
泣きながら切実と訴える声に馬鹿だな、そこまでしなくていいのに。
いいや、そこまでして生きてほしいのだ。
手を伸ばして頬に触れる。手を重ねて、優しい口づけが落とされる。
「俺はやろうと思えばあなたをこうして動けなくさせてどこまでも甘やかすことだってできる。赤ん坊のように世話することだって」
こんなことをきっとヴァシリオスは言いたくないのに口にしている。それだけ追いつめられている。
自分が彼を追いつめている。
「けど、あなたがそれを望んでいなかったから今までしなかっただけだ」
「……こんな私でも好き?」
微睡む視界でヴラスターリは尋ねる。
「愛してる……あなたを、心から愛してる」
零れ落ちる涙はにわか雨のように優しいくせに、濡れると冷たくて心苦しい。腕を伸ばしてゆっくりと胸のなかに引き寄せて撫でる。ふわふわとした癖のある髪の毛が肌に触れていると心地がよい。
「私は、イクソスのクローンで過去なんてない。すっからかんの人生だ」
生まれ落ちた試験管の映像を覚えている。私がたくさんいた。出来そこないの私と私以外。
「クローンとして遺伝子マップを好き勝手にいじって、栄養剤と成長進剤でここまで無理やり成長させた目的のためだけの道具だと科学者は言っていたよ、普通の生き物のように成長させていないし、オーヴァードとしての適用を高めた私は本当に道具だって、いつ死んでもおかしくない」
だから誰も名をつけなかった。
それ
エージェント
と、しか呼ばなかった。道具だから、すぐに死ぬかもしれないから。
「私は、いつ死ぬかもわからない」
「いつか死ぬ、そんなのはみんなそうだ」
強く言い返される。
「……子ども産めないかもしれないのよ? クローン体で遺伝子操作されたものだから、だから」
「それがどうした」
「ヴァシリオス」
じっと見つめあい、視線が絡み合う。何か、言葉を紡ごうとして結局なにも発することのできないヴラスターリは陸にあげられた魚のように口をぱくぱくさせてばかりだ。
「俺は君に子を産んでほしいから君を抱いたわけじゃない。子を残すだけが、男女が共に生きる目的なのか? 目的のためだけに生きているのか? 俺は……ジャームだ。今すぐに君の血を吸いつくして殺してしまいたいと思うような男だ。それをしないのは生きている君といたいからだ。
俺が二人で、といったのは君がいればいいからだ」
「私で、いいの?」
絞り出すように震えた声で問い返す。何度でも。だって
「俺が選んだのは君だ。ヴラスターリ、そう名をつけ、愛していると口にしたのも、このあとの人生をすべて捧げるのも」
真剣に、切実に、何度でも答えをくれる。
嗚咽を漏らし、喉をならして、洟をすすっても溢れる涙をとめられない。
たまたま生き残ってアリオンを手にいれて、ドックタグだけを携え赴いた任務で、ヴァシリオスに会い、自分に向けた憎悪にはじめて恐ろしさを知った。
戦って、生きたいという本能を知った。
敵を殺す快楽を知った。
はっきりとヴァシリオスを追いかけたいと明白な目的を知った。
ヴァシリオスを追いかける理由を他のUGNの者たちから聞かれても、彼を殺したいのか救いたいのかはっきりと口に出来なかった。
彼と最後だと思う戦場で出会ったとき、何もかも差し出してもいいから助けたいと切実に祈った。
恋をして愚かさを知った。
彼とともに戦場から逃げて、自分の幼稚さを、自分は自分が嫌いであることを知った。
そんな自分を彼が受け止めて、ともにいたいと口にされてから自分の強さを知った。
今、自分のどうしようもない弱さと向き合っている。
ヴァシリオス、私の生涯はあなたを通してこうして自分を知っていくこと、積み重ね、日常を作ることだと今更理解した。
私はイクソスじゃない。
「私のなかで、亡霊が囁く。ユキサキは、私が殺さなくちゃいけないんだって思った……戦争帰りの兵士として」
戦争帰りの兵士の絆は恐ろしく強い。肉親だってそれに触れることは出来ない。だがそれとは違う。
ユキサキはイクソスを裏切り殺した亡霊だ。
過去が優しげな笑みと纏って自分を戦場に引きずり込もうとする。
ああ、けど自分はイクソスじゃない。
ヴラスターリ。
ヴァシリオスがくれた名前がある。
私は私になるんだと決めたのに。過去はいつも足をひっぱって、自分のことを傷つけてくる。
そんなものに飲まれてしまった自分はまだまだ幼い。
私は私を知るために生きている。知り続けるために彼とともに生きているのだ。
「ここまでしてくれるなら戦わなくてもいいのかと思えてくる」
「……ヴラスターリ?」
「面倒事を全部他人に押し付けて、あなたの腕のなかにいる。守られる女の子も悪くない」
悪戯ぽく笑ってヴラスターリは触れるキスを交わす。血の味がする。
「あなたのそばにいる、もうどこにもいかない」
「……彼を救いたいから動くんじゃないのか?」
少しだけ不安げなヴァシリオスの問いにヴラスターリは首を横に振った。
「そんなのじゃない……過去の、清算……違う。私はあなたとの未来を守りたい。あなたと生きる日常を守りたい、そうだ、そのために戦ってきたんだ。こんな戦うことばかり好きな女だけど、私はね、本当にあなたと生きたい、この日常を守りたい。それだけ。けどあなたが戦うなって言うなら……どんなことになってもあなたと二人なら生きていけると思う」
そうだ。ここまで自分を思ってくれる相手がいるなら、自分はイクソスではない。彼の持つ人を殺したいという欲も、すべての怨嗟を振り払ってこの腕のなかにいよう。
過去も、己の欲もすべてを捨てて構わない。
ヴァシリオスがジャームでありながら、一度はすべてを投げ捨てて自分のことだけを抱えて逃げてくれたように。
「守ってくれるかい? ハニー」
「どんなものからも」
嬉しそうに、強い決意をにじませた声で告げられる。
「それは心強い。うん。だからあなたの傍にいる」
泣き出すような沈黙を、肌に痛いほどに感じられる。
「ほら、もっとキスをして、感じさせて。目がもうあまり見えなくて」
触れるキスのあとなまあたたかい液体が流れてきた。ああ、命の味だ。交わした口づけは甘い。そしてとても恋しい。
そっと残った右手を繋ぐ。指を絡めて。強く。
どこにも行かない。
あなたといる。
あなたに守られる。
私は私だから。
過去の亡霊が叫んでいる、それを振りほどいて私は前に進む。
私の名、私の生、人生、それは私だけもの。過去なんて関係ない。
ようやくそう思えた。
「あなたを、心から愛してる、出会えたことをすべてに感謝しよう。たとえジャームであっても、絶望しても、苦しくても、この世界が地獄でも……ヴァシリオス、あなたがいるから私はいるのよ」
優しい口づけに蕩けていると、いきなり耳の裏を噛まれて驚いた。
「ひゃ、ちょ、な……やだ、ヴァシリオス、あなた、いつの間に私の感じるところ見つけたの」
「……」
何か怒らせてしまったらしい、暗い眼が見つめてくる。あ、これは
「俺もあなたの知らないところがまだまだあるようだ」
ヴラスターリは苦笑いを一つして、身を任せた。
翌朝、目覚めたときに互いに顔を合わせて照れ笑いを交わしたが、すぐに医者やナースの訪問を恐れて慌てて衣服を身に着けた。
タイミングを狙ったようにノックとともに霧谷が入ってきた。
「昨日の返答を聞きに来ました」
疲れ果てた霧谷を見れば、申し訳なさを一ミリも感じないわけではないが、ちらりとヴラスターリはヴァシリオスを見る。もう結論は昨日出した。
視線をゆっくりと霧谷に戻した。
「申し訳ないが私は協力を」
「協力するには条件がある」
ヴラスターリの言葉をヴァシリオスが遮った。
「その場には俺も行く」
「……あなたが」
霧谷が顔を険しくさせた。無理もないユキサキ相手にヴァシリオスはぎりぎりの戦闘を行った。
ヴラスターリはヴァシリオスを見つめた。
つないだ手の、指だけが離れない。そこから伝う熱でわかる。オーヴァードとしての能力を使用しなくても。
二人で。
彼が口にしたように。
「私も」
ヴラスターリは言葉を選んだ。
「ヴァシリオスが一緒じゃないと協力はしない。彼は私を守ってくれる。もしジャームとなったら私が彼を殺すし、逆に私がジャームになったら彼が私を殺してくれる」
霧谷は静かに唇を結び、頷いた。
「では準備はすぐにお願いします。余裕はありません」
それだけ口にして出ていった霧谷の背を見送って二人きりになるとヴラスターリはたまらずヴァシリオスに声をかけた。
「いいの」
「なにが?」
「私が、戦いにいくの」
「……あなたが戦うことをやめれないのはわかっている。いまの、この日常を俺も守りたい。ただ一人で行くのはナシだ」
「二人ならいいの?」
「それならどんなことになっても二人一緒だ」
「……ヴァシリオス」
「ん?」
「あなた、天才だわ」
ふふっと唇が緩む。死ぬかもしれない、それでも日常を守りたい。もし守り損ねたら一緒に死ねばいい。なんてわかりやすい答えだろう。
きっとそれは一般人にしてみれば壊れた思考だ。どちらかが生きれば、記憶し、それを伝え、受け継ぎ生きていけるのに、自分も彼も生憎と未来になにかを託し、思い出を大切にして生きていくなんて出来ない。
いつウィルスによって心が食われてしまい、思い出すら奪われてしまうかもしれない。もう失うだけ失い続けて生きてきた。
「そういえばいい加減にコードネームを考えろと言われていたのよね」
「……そういえば……」
そもそもヴァシリオスはコードネームを持っていなかった。敵からハティ(敵)やリュカリオンと呼ばれていたそうだが
「ハティ?」
じっと見つめあて問いかけるように呼び掛ける。
「君に敵と呼ばれるのはあまり気分がいいものじゃないな」
「……じゃあ、リュカリオン!」
ヴァシリオスは納得したように微笑む。
その顔を見ると、なんだか胸がときめいてしまう。群れを成す狼たちの王を意味する名前がコードネームは彼に似合っている。それに合わせて実は一つ考えていたことがあるのだ。
ヴラスターリはとびっきりの秘密を打ち明けるようにして告げた。
「私ね、考えたの。あなたが狼なら、私は……ボロのブランカ」
「ボロ……ああ、狼王の」
誰よりも賢く、美しい狼のつがい。そのつがいをなくしたボロは狂ってしまい、最後には餓死してしまった。
自分と彼にぴったりだ。
「私の狼さん」
甘ったるく呼ぶと、今から死ぬかもしれない戦場に行くのに不思議と恐怖を感じないのは命よりも大切なものをすでに手に入れているからだ。
「俺の、ブランカ」
愛しげに口にしたコードネームとともにゆっくりと腕のなかに抱きしめられ、頭を撫でられたヴラスターリは得意げに笑った。
自然とヴァシリオスの手が首を伸びて、いつも持っている――ドックタグを潰した指輪を外す。
戦うとき、手の重みが変わると戦いづらいからネックレスにしていたが、それを当たり前みたいに左手の薬指に嵌められる。
ヴァシリオスも自分の指輪を外して差し出してきたのに、ヴラスターリも受け取って左手の薬指につけた。
「あなたが死んだら私も死ぬ。私が死んだらあなたも死ぬ。だから私は死なない、あなたも死なない。生き残って二人でもっと喧嘩をして、仲直りをして、おいしいものを食べて、そんな日常を作るの。もう戦わなくてもいいように」
「ああ」
力強い声に包まれて、今死んでも後悔はしないと思った。いいや、死ぬなら今がいいとすら思う。
「あなたの血を飲んでもいい? あと、まだ準備に十五分ももらった、その間にいろいろといいことができる」
そんな誘い文句にヴァシリオスは言葉ではなく、笑って首筋を差し出すことで応じてくれた。
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