カルナバル ローザ・玉野・矢野
その日もローザ・バスカヴィルにとってはいつもとかわり映えのない日々の一つにすぎないものだった。
リヴァイアサンが珍しく仕事を残して、パンドラ・アクターと検査に赴くのがどんな意味か――慎重に人を観察することに長けたローザにとってはさして特別なことはなかった。
が
「なんなのこの仕事量は! リヴァイアサンは働き過ぎだわ」
玉野椿は違うらしい。
最長チルドレンとして任務もこなすが、現在は主に訓練教官として教えている立場にいる彼女は今日リヴァイアサンが定期検査に向かうというので一時、この支部を――日本支部の本部を守ることを仰せつかったのだ。ちょうどチルドレンたちの訓練も午後にまわしているので午前中だけならばと引き受けた彼女を書類の山が襲う。そんなものほっておいてもいいのだが真面目な彼女はリヴァイアサンの仕事を少しでもこなすつもりでいたが五分とたたずに悲鳴をあげた。
「こっちは誤字だらけ却下。この請求はなんなのよ! ビル破壊って! うう、こんなものを彼はすべてこなしていたの?」
「……ある程度のチェックはすませてますが、全部霧谷の承認が必要なんです」
ローザが冷静に玉野に言い返す。
「地獄だわ」
うんざりとした顔で玉野が呟きを漏らすのに確かにとローザは思う。だが、組織のトップというものはそういうものなのだ。
「そうだ。今朝の船についてのことはどうなったんですか」
「朝一で霧谷が処理をしました。そのあとの報告はまだ来ていません。緊急の場合現場から霧谷のところに繋がるようになっていますが」
「過労でレネゲイド値があがりそうね」
玉野が天を仰いで、ぼやいた。
「ローザさぁん、ケーキを、あ、これは玉野さんっ……いたんですかっ」
ドアをノックなしに開けるマナー違反を犯してはいってきた矢野優斗はあきらかに玉野がいたことに動揺している。
霧谷の直接の部下であり、ローザの補佐役をかって出ている矢野がローザに惚れているのはみんな知っている。そしていくらモーションをかけても、冷たくあしらわれていることも。
黒髪、黒目の典型的な日本人で優し気な雰囲気の矢野は、しかしキュマイラと言われる変身能力を持つ攻撃力、防御力と大変有能なエージェントだ。
素直すぎるのが玉に瑕だが
「いちゃ悪いかしら」
むすっと不機嫌な玉野に睨まれて矢野は大いに慌てた。
「いや、いやいや! ケーキあるんで、食べませんか? 紅茶いれますね」
取り繕うように笑う矢野がいそいそと右手に持つ白い箱を抱えて部屋の奥の給湯室に向かうのを玉野は冷たい眼で見つめたが、この書類地獄のなかケーキと紅茶の誘惑には勝てそうにない。
「……矢野くんって、いつもこの時間帯に?」
「ええ」
いつものこと、という顔をするローザの返答に手で口元を隠した玉野はくすっと笑った。感情論に興味はないというローザだが、こういう無駄は許すとは矢野の片思いは決して不毛ではないのかもしれない。
そのとき携帯電話が鳴ったのにローザは懐から取り出した。
「はい、リヴァイアサン」
か、チ――りぃ。
その音に気が付いた玉野は急いで立ち上がった。
ほぼ本能と反射神経のなせる業でローザの肩をつかんで自分へと引き寄せ、細い糸を生み出して繭のように包み込む。
爆破音、
熱風、
激しい炎が部屋を嘗めていく。
「っ」
玉野は奥歯を食いしばり、ローザが険しい顔を作る。
糸で作った繭がちりちりと燃えて、溶けていく。
糸壁の隙間から見えた今までいた部屋が燃えあがっている光景に玉野は混乱した。
この本部は襲撃を警戒し、通常よりもずっとハイレベルな防衛をしているのに。
「矢野くんは」
玉野が視線を向けるが、矢野の姿はどこにもない。今の爆発で死ぬようなことはないだろうが、下手に死ねないほうがオーヴァードには辛いことがある。急いで助けなくては
「玉野」
ローザが緊張した声で、ひっそりと呼びかけてくる。
まだくすぶる火のなかに二つの影があった――一人は筋肉むき出しにした上半身全裸の大男、傍らには小柄な金髪に碧眼のまるで美しい人形のような少女が立っている。
「あらぁん、リヴァイアサンは?」
「い、いない?」
大男がきょろきょろと周囲を見回し、少女が顔をしかめた。
「やぁね、いい男に会えると思ったのに、ねぇドゥアエ」
「……わ、わたし、どっちでも、トリアは……いい男、好き?」
「好きに決まってるじゃないのぉ、もうあんたって子供ねぇ」
玉野とローザに気が付いていない様子でこの爆発の原因たちが呑気におしゃべりをしている。
だったらすることは一つだ。
玉野の指先から蜘蛛の糸を放たれるが――それが敵に届く前に溶けた。
「てき、てきですよぉ、生きてます~」
「やだ、ほんと」
見つかったタイミングでローザが太ももに隠した拳銃を引き抜いて撃つ。迷いのない発砲――トリアが後ろに下がるのに、ドゥアエが顔を強張らせる。恐怖した少女の肉体からあふれ出る金色の鱗粉――。
「こいつ、ソラリス!」
玉野が叫ぶ。
鱗粉に触れる瞬間に溶けていく弾丸を見てもローザは攻撃を緩めない。
「うっざーい」
嘲笑う声とともにトリアの両手に持つ――円の鉄のチャクラム。
インドの投擲武器のひとつで、中央の穴に指をいれて回転させ投げるそれが大男の太い指先にあったと思えば、目にも止まらぬ速さで空中へ、ローザに牙を剥く。
玉野が糸を紡ぎ、壁を作るよりもはやい。
「っ! ローザ!」
玉野が焦った声をあげる。
ローザを守ったのは飛び出した――くすぶる黒煙のなかから現れた矢野だ。
ローザを胸に抱え、背中にチャクラムを受けて血を流しながら地面に転がる。
幸いにチャクラムの一撃は掠れただけだが、彼の背中の肉はごっそりと切れて落ちる。痛々しい傷を意に介さず矢野は腕に抱えるローザを見下ろして声をあげた。
「ローザさん、無事ッスかっ!」
「……矢野くん、生きていたの」
煤だらけの矢野はローザの無事を確認してようやく痛みに顔をしかめて、えへへっと気の抜けた声で笑う。
「生きてますよ、だってローザさんを守らないと」
「……よかった」
ローザから安堵の声が漏れるのに玉野が戦いの緊張を一瞬だけ忘れた。効率のみを見るローザが好戦的になった理由がようやくわかった。
「ローザさん、よかったわね。矢野くんはあとで反省してよね」
「自分ですかっ!」矢野がすっとんきょんな声をあげる。
「そうよ。君のせいでローザさん、取り乱したんだから」
「違いますっ!」
茶化す玉野の言葉にまるで骨をもらった子犬のように喜ぶ矢野にたいしてローザからは鋭い睨みを受けてしまった。
「とにかく、今はあれをなんとかしないとね。二人ともいい?」
「っ、了解ッス。……お前ら何者だ!」
矢野が噛みつくように怒鳴りながら立ち上がる。すでに傷は再生している。
「あら、生きてたのぉ、坊や」
矢野が低く構える。その片腕が獣のように変化する――キュマイラの獣化だ。
矢野の腕は鱗が生え、その爪は鋭く尖った武器となる。
「ローザさん、援護を」
「ええ」
矢野の声にローザが応える。
「行くわよ、反撃を!」
ようやくいつもの調子を戻した玉野が声をあげる。手のなかに糸を作り出し、編み込むと盾にして走り出す。
「ひゃあ~、近づいて、き、きます」
「アンタの鱗粉で溶かしちゃいましょう」
ドゥアエの声に宙に漂う鱗粉が増す――糸が溶けていくが玉野は加速を止めない、完全に糸の盾が溶けたとき、チャクラムが襲い掛かってきた。肩、脇腹、足に突き刺さる。痛みに声をあげそうになるのを玉野は必死に奥歯を噛みしめて耐える。
「いまよ!」
玉野の後ろに隠れていた矢野が飛び出す。
玉野の細い肩を足場にして飛躍、空中で回転をくわえた飛び蹴りがトリアの顔面に命中する。
ごきり、骨の砕ける音。
「いゃああああああ、トリアさん!」
悲鳴をあげたドゥアエの怒りが空中の物質を刺激する。
ソラリスの恐ろしいところは感情による物質の強化だ。先ほど、恐怖によって鱗粉が増していたが、それと同じく、仲間を傷つけられた怒りは彼女の力を増幅させている。
ちり、と矢野の足が鱗粉に纏われて溶ける。
「っ!」
地面に着地した矢野が態勢を崩して倒れると、隙をついてさらに鱗粉が襲うの――を防いだのは壁だ。
砂から生まれた完璧な盾が鱗粉を防ぎ、溶けて消える。
「うおおおおおっ!」
溶けた盾のタイミングで矢野がドゥアエの腹を狙い獣の拳を打ち込む。
「ぐはっ」
柔らかな肉を抉れ、吐瀉物を吐き散らし、ドゥアエは地面に転がった。
特殊な能力に特化したものは肉体的な強化をほぼ行わない者がいるが、ドゥアエは典型的なそのタイプだったらしく、哀れな位に弱弱しい姿をさらしている。
いくつもの化学物質によって敵が近づく前に殺している。だから肉体をわざわざ強化する必要がないためだろう。
う、え、あと声を漏らすドゥアエに矢野は多少の罪悪感を覚えたが、勝てたという安堵に力を抜いた瞬間
「矢野くん!」
ローザが声を荒らげた。
背後から刺された――矢野は血を吐き出す。
「やだもう一回死んだじゃない」
のんきな声を漏らすトリアが首をさすりながら矢野の肩を掴んで、引き寄せる。
ぐしゃ、と肉の裂ける音。
チャクラムの丸い刃が矢野の肉体から顔を出している――心臓を貫いているそれが肉体に収まって、矢野が痙攣しながら片手を動かそうと――ぐちゃり、とまた肉の音がした。
チャクラムが矢野の片腕を叩き落したのだ。
「っあああああああ」
激痛に耐え切れず矢野が叫ぶ。
「矢野くんっ!」
玉野よりも早くローザが動いた。
床に手をあてて、その場にある物質を砂に変えてら構成した鋭い槍を投げると、トリアは腕を振り、それを弾き飛ばした。
「悪いけど、その程度の攻撃は」
トリアの首に糸が巻き付き、締め付ける。ローザが槍を投げ、それをトリアが防いだとき、玉野は糸の一本を投げていた。その糸がトリアの首を絞めあげていく。
あとは力と力の戦いになる。
糸が切れないように、常に糸の強度を増しながら締め付ける。
恐ろしいほどの抵抗に玉野は、両足に力をこめて、踏ん張る。そのせいで己が作った糸だというのに皮膚が切れて、血が溢れるが玉野は奥歯を食いしばって耐えた。
トリアが口の端から泡を吹きはじめ、血を流し、ローザを睨んだ。
「っ、このアマっ」
「生憎ですが、私は感情論に興味はありません」
淡々とローザは言い返す。
その手に再びの槍が構成される。
「絶対に倒す方法をとらせていただきました」
まっすぐな槍がためらいもなくトリアの心臓を貫く。
「いたたっ、矢野くんは」
玉野はきょろきょろと見ると、ローザが駆け寄って、抱き起こしている。ローザはためらいもなくチャクラムを引きずりだし、血まみれになりながら矢野の顔を覗き込む。
「しっかりしてください。矢野さん」
「……ごふ、ごふ……いたぁ、……ローザさん。俺、お役に立てました?」
「十分です」
二人のやりとりを見た玉野は苦笑いする。なによ、あのやりとり。
完全に自分がお邪魔虫なかんじがして、ちゃちゃをいれてやりたい、そう思ったときだ。
矢野が一番はじめに気が付いた。だからこそ、ローザを突き飛ばした。
矢野の首が飛ぶ。
胴体と首、それが別々に崩れる。
玉野はぎくりとした。
いけない、このまま再生したら――!
ローザも同じだったらしい、慌てて矢野に腕を伸ばす――根本からばっさりと切断される。
「っ」
勢いよく出る血。
ローザは悲鳴を奥歯の底で噛み殺して、矢野を胸の中に抱え込み、必死の形相で胴体と首をくっつけにかかった。
「いたいじゃなぁい」
笑う声。
玉野はぞっとしてそちらを見た。
トリアが心臓を貫かれたのにもかかわらず、笑って立っている。
どうして。
玉野は気が付いた。
血まみれの巨体に隠れてドゥアエが口元に三日月の哄笑を作っている。
ああ、そうだ。
ソラリスは化学物質を作り出す。それはときとして痛みも、死すらも忘れさせる。
心臓を貫かれても、脳を無理やり活動させているのだ。たかだか五分、十分程度のことかもしれないが、油断していただけにその威力は絶大だ。矢野は動けない、ローザも無理だ。
だがその代償として、トリアは脳にただいなる負担――たぶん、十分後には脳が負荷に耐え切れず、完全に活動を停止して死ぬだろう。
「あなた、なんてことをするの」
「なぁにがですかぁ~」
歌うように、軽やかに、玲瓏に、不気味に声は響く。
「あなたたちがいけいなんですよ、わたしに、こんな力を使わせて、そうですよ、あなたたちがわるい、私にトリアさんを動かさせて、殺させる。ほんと、みんなひどい、ひどい、だから、死んでよ。さっさと」
笑いながら告げるその言葉に悪意はなく、ただ当たり前のように――決定的に何かが壊れている。
ジャームよりも悪質なオーヴァード。
玉野ははっと息を大きく吐く。
よりにもよって仲間に、感覚麻痺の――自分が死んだとわからなくさせるような危険なものをいれるような狂人と戦う羽目になるとは思わなかった。
「あなたが死になさいっ」
糸を強く握りしめ、引く。
ほぼ同時にトリアのチャクラムが玉野の首を狙う。がら空きの首筋に、深々と刺さる刃を受け止める。
「ぎゃあああああああああああああ」
ほぼ同時に玉野が操った糸が、床に落ちたチャクラムの一つをすくいあげ、幼い少女の背を突き刺したのだ。
「いたい、いたい、いたい、いたぁあああい」
みっともなく悲鳴をあげてドゥアエは泣きわめき、怒りのまなざしを向ける。
人を射殺さんばかりの目。
「みんな、死ねぇ」
憎悪の声とともにドゥアエは手から何かを投げ捨てる。
玉野の目が捕らえたのはライター。
空気が揺らめく。
あ、あああ――倒れる玉野は薄れゆく意識のなかで声をあげる。
再びの爆発
紅が世界を満たしていく。
「みぃんな、死んじゃえええええええええええええええええ」
響くのは憎悪。
なにか大切なものが壊れてしまった悲鳴が轟いた。
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