ジャーム

 オーヴァードがジャーム化するのはいくつかパターンがある。

 方法によってはオーヴァードはただの人よりも脆く死ぬ――もうこの世への未練も希望もない、ただの絶望した状態へと落とせばいい。生きる望みを捨て、死んで、ジャームとなり果てる。

 絶対にこうすることでジャームになるという保証はない。

 ジャームとはオーヴァードが完全にウィルスに乗っ取られている状態。または人でいう発狂状態に陥ってしまった姿のことを意味する。

 誰かが何を口にしても、ジャームは同じ言葉を繰り返し、同じ行動しかとれない。それがジャームだ。

 一般的にはウィルスが完全に肉体を侵蝕し、その状態で死亡、または精神的ショックを受け続けた結果、理性を完全に食われて【個】を保てなくなったと言われている。

 そのためジャーム化すると理性を失くし、見た目もバケモノとなってただ暴れまわる者もいる。

 が

 なかには生前の姿のまま、ある程度の思考力を残し、行動を起こす者もいる。

 ジャームは己のなかにある衝動――ヴラスターリが人の血を求める吸血があるように、オーヴァードは誰もが持つ逆らえない行為――のなかに自分の個を残す者もいる。

 ジャームだが、それでも組織に属し、行動することもある。

 ヴァシリオスがその例だ。彼は間違いなくジャームだ。

 使い捨てられる同胞を救いたい、オーヴァードと人の平等化の理想を抱き、手段を択ばず暴れまわった彼を止めたのは、全てのきっかけであるイクソスのクローンであるヴラスターリの存在を知って正気に戻った――否。彼の狂いをただヴラスターリが引き受けただけだ。

 ヴラスターリがしたのは、武力によってヴァシリオスを打ち負かし、自分が何者か告げた。

 自分を置いて死んだ一番はじめの大切な――隊長であるイクソスのクローンの存在によってヴァシリオスの願いは揺らいだ。

 武力で負けたことでの無力さに打ちひしがれ、何を信じ、なにを成そうとしたのか自分自身がわからなくなったタイミングで卑怯にも自分の気持ちを告げて彼の中に自分の居場所を作った。

 高見たちに彼を救いたいと言われてもわからなかった。では、殺したい? それも違うとずっとヴラスターリも迷っていた。


 あなたはもう何も諦めなくていいのよ

 あなたがもし世界への恨みを忘れれないなら私もジャームになる。全部を捨ててあなたといる。

 けど、もし許されるなら

 あなたにここでおかえり、と言いたい。日常に、戦場から帰ってきたあなたをただ受け止めたい

 おかえり、ヴァシリオス

 私はね、あなたが好きなの、心から愛している


 つたない言葉だ。けれどそれを証明するため、ヴラスターリはヴァシリオスに襲い掛かるバケモノから身を呈して守り、片腕も失った。

 なにもかも壊されたヴァシリオスが生きるという最後の本能、レネゲイドウィルスの生存判断が、そこまでぼろぼろになって自分のことを守り通そうとした者をこの世に生きるためのよすがに選ばないはずがなかった。

 計算してやったことではないとは言い切れない。どうしたら生きてくれるのか、懸命に考え、彼をなんとかとどめようとした、その結果が今の現実だ。

 ずっと、ずっとヴラスターリも迷っていた。自分は彼をどうしたいのか――生きてほしい。間違えても、いいから。ジャームでもいいから。自分は彼が好きなんだと、高見や井草、住原と話して、ただの日常を生きる仲間たちを見てわかったのだ。

 生きるということ。

 日常を守るという意味。

 自分のたった一つの気持ち。どうして彼をここまで追いかけてきたのか。

 彼が好き。

 だから全部あげたかった。

 自分の子供みたいな、たった一つの心を、彼に知ってほしかった。それだけ。


 ヴァシリオス・ガウラスはジャームだ。

 その狂いも、暴走も、絶望も、希望もなにもかも生涯かけてヴラスターリは受け止める。

 それが人でいう愛や希望とは違うと言われても、それでもヴラスターリは後悔しないと決めのだ。

 血に染まった絶望したバケモノの彼を愛しいと思った。

 このたった一つだけ見つけた、自分の本当の気持ちを貫くためならどんな過ちでも、世界の人々から非難されても、構わないと覚悟した。


 だから


 ユキサキが立ち上がり、恐ろしいスピードで瞬く間に自分を囲むストレンジャーをナイフ一本で血祭りにあげたのを見た瞬間、狂ってしまいたいほどの衝動に駆られた。

 高らかに笑いあげるユキサキは壊れていた。

「ユキサキ!」

 ヴラスターリは声をあげた。

 ユキサキが振り返り、見つめてきた。

 ナイフが飛んできたのに咄嗟に地面に転がり避け、ヴラスターリは作り出した剣銃を構えて弾丸を放つ。ユキサキがバックステップを踏み、ふぅーと息を吐いて低く構える。

「っ、ユキサキぃ」

 声をあげる。

 理性をなくし、ただ衝動に飲まれたバケモノへ

 駆けだして飛び掛かる。

 普段のユキサキなら避けられるだろう、それを彼は受け止めた。銃剣を盾のように構え、押し倒したヴラスターリは膝に力をいれて、内臓とあばら骨を折る。

「っ!」

 血を吐き出すユキサキ。

「ユキサキっ!」

 ユキサキの手が伸びて、首を掴まれる。指が皮膚を潰すように締められる。

 苦しい。とても苦しい。

「ゆき、っさ」

 腹を力任せに蹴られてヴラスターリは地面に転がされた。それでも立ち上がる。血を吐きながら、肉が抉れても。

「ユキサキっ!」

 声をあげる。

 届かなくてもいい。絶望してもいい。それでも叫ばずにはいられない。彼を止めるために動かずにはいられない。

 ユキサキと目が合う。

 ヴラスターリが間合いをつめる。横から殴りつけて首の骨を折って一時動きを止めようと、思ったとき。

「……かるたご」

 ユキサキが唇が動いて、その灰色の瞳にふっと理性の光が揺らいで、滲む。動きを止めて、見つめあう。視線に全身を愛撫されるヴラスターリは力のない女のように、ただ茫然と立ち尽くしていた。

 ユキサキがゆっくりと唇をつり上げて、嬉しそうに笑った。

「っ……あははは。いやー、気持ちよくてちょっと頭いってたよ。ありがとう。イクソス。うんうん、こりゃあ、衝動に飲まれるよねぇ。あれはちょっときつかった。なかなか面白い体験だったよ」

 まるで少しばかり散歩してきたかのように笑って口にする言葉にヴラスターリは顔を歪めた。

「理性を失くしかけたけど、戻ってきたよ。まぁ賭けだったけど」

「大馬鹿野郎」

 ヴラスターリは苦しみの果てに吐き捨てる。

「そんな僕に挑む君も大馬鹿野郎だよ。イクソス」

「……私は」

 口を開こうとしたとき、ユキサキが乱暴にヴラスターリの手首を掴んで地面に叩きつけられる。すぐにユキサキが地面に伏せたとたんに銃弾の雨が降り始めた。

 まだ生き残ったストレンジャーが三人。諦めず、戦う姿勢はあっぱれだが、あれでは勝てない。

「戦場を思い出すねぇ。イクソス。ほら、きれいなフォームだ。よく訓練されてる」

「ユキサキ、ま」

「待てない、ジャームになったからねちょっと融通がきかないよ。君みたいに」

 当たり前のように会話する。けれどどこかズレている。わかる。ユキサキはただのオーヴァードのように振舞える。けれど決定的になにかが壊れている。もとから彼は壊れていたからただ目立たないだけだ。それでもわかる。ユキサキはジャームになったとヴラスターリだけはわかる。

 ユキサキが手に持つ銃弾を構え、ゆっくりと引き金をひく。

 一人、

 一人、

 一人。

 脳漿をまき散らし、あっさりと片がついた。

「さてと、僕は自分のするべきことをしなきゃね」

 ゆっくりとした動きでユキサキは埃を払い、立ち上がる。

「すること?」

 血の匂いに酔いながら、ぼんやりとヴラスターリは問いかける。

「盗むんだよ。情報を」

「なんの」

「あ、そっか言ってなかったね。じゃあ、いまネタ晴らしだ。ジャームだよ。ジャームを保管している場所の情報だ」

 ユキサキの言葉に理解が追い付かないヴラスターリは必死に考える。そして

「まさか、ジャームを解放するつもりなの」

「正解。さすがイクソスだな。僕の考えがわかっちゃうよねぇ~。僕が依頼されたのは霧谷雄吾の暗殺、けど、手段については言われていない。

 日本支部が今まで捕獲して、冷凍保存したジャームたちを一気に解放する、楽しそうだと思わないかい?」

 ヴラスターリは無意識に自分の手で作った銃剣を強く握りしめていた。

 勝負は一度きり。

「あなた、たった一人を殺すためにこの日本を崩壊させるつもりなの」

「どうせ霧谷が死ねば、中国、ロシアは黙っちゃいない。ここは戦場になる。ただそれが表に出るか、出ないかだ。

 戦場となれば僕たちも昔みたいに殺しまわることになる」

「ユキサキっ!」

 声をあげ、構える。

 撃ち殺す。このバケモノを、今ここで。

 引き金をひいた。

 その動きをユキサキも予想していたのだろう。足元に落ちているナイフを靴のつま先で蹴りあげ、手のなかに収め、投げてきた。

 銃弾とナイフがぶつかり、ころりと落ちる。

 信じがたい、尋常離れした技をあっさりと使われたヴラスターリは焦りを覚えて、身を低くして前に出る。

「っ!」

 互いの呼吸も、技も、力もわかっている。否、そんなことはない。

 イクソスがずっとユキサキの能力を知らなかったように

 ユキサキはヴラスターリの能力を知らない。

 出来たら、ずっと知らないままでいたかった。

 心からそう思う。

 知らないままで、過ごしてしまえたらどんなによかっただろう――引き金を再び引く。重いそれを指でひっぱるときの一瞬の隙をユキサキは見逃さず、片足をあげる。

 え? ――ヴラスターリは目を見開き、その痛みを受け止めた。

 目を瞬かせる刹那。

 腹から首まで斬られた――見れば特殊ブーツの端にナイフが――隠しナイフはよく使う手なのに考慮しなかった。ただの一般人なら薄皮一枚切れる程度で済んだがオーヴァードの持つスピード、技のミックスされたそれは骨を砕き、肉を裂くほどの破壊力を産んだ。

 引き裂かれてヴラスターリは血を吐きながら後ろに倒れる。

 ああ、また

 届かない。

 笑っている影に手を伸ばす。まだ、まだ自分はここにいて、手を伸ばしている。

 ユキサキ。


「ヴラスターリっ!」

 高見が走りながら槍を目にも止まらぬスピードで繰り出す。

 ユキサキが構えるが、そのタイミングで地面が揺らいだ――住原が両腕を地上に叩きつけてわざと破壊したのだ。バランスを奪われたユキサキは一方的に槍の攻撃に追いつめられた。

「もらったぁ!」

 高見が槍をしならせ、伸ばす。

 そのタイミングでユキサキは前に躍り出る。

 自らの腹に槍に突き刺し、高見を捕らえる。

「つかまえた」

 高見がしまったと思ったとき、下腹に二発の弾丸が撃ち込まれる。ただの人の作った武器は殺すほどの威力を持たず、かといってすぐに動ける程度に軽いダメージではない。

「支部長!」

 住原が動揺して駆けだすのと

「だめ、危ない」

 井草が悲鳴をあげる。

 ほぼ同時。

 まだ残っていた弾丸をユキサキは躊躇わずお見舞いする。高見のことで動揺した住原と井草の腕、足を撃ち抜く。

 二人が痛みに動きを止めた一瞬の隙をついてユキサキは槍の矛先で腹を刺されたまま井草の距離を縮めて、力をこめた平手打ちを繰り出す。華奢な少女の肉体は軽々と吹き飛び、地面に転がった。

「っ、あ」

 内臓が燃えるような痛みに井草は血反吐を零し、逃げようとする。その足をさらに撃つ。

「あああああああああああああっ」

「こういうとき、後方を潰すのは鉄則だよねぇ」

 腕、足、そして腹を続いて撃つ。

 は、は、は、井草は虫の息て、泣きながらじっとユキサキを見つめる。

「私の友達になにするんだぁ!」

 噛みつく勢いで住原が飛び蹴りを放つ。顔にヒットすれば確実に骨を折れるそれは大技なだけ隙だらけだ。

 ひょいとユキサキは一歩前へと身をすべらせて避け、容赦なく蹴り返す。

「ひゃ、あ、あ、が」

 攻撃に転じ、反撃に受け身ひとつとれなかった住原は向きだしのアスファルトに全身をしたたか打つ。そのときにあばらの骨が折れて、肺に突き刺さり、体は苦しみから小刻みに痙攣を繰り返す。それにとどめをさすほどユキサキは優しくはない。

「内臓が骨に突き刺さると痛いから、がんばってさっさと自力で死ぬんだね。で、今度は本物のバケモノかー」

 ユキサキの視線の先にいるパンドラ・アクターの身は人のそれではない。巨大な蛇の下半身、上半身を女の身。ぎらつく瞳には殺意しかない。

「こわいこわい。けど、能力特化のやつってのはねぇ」

 ゆっくりと歩き出す。そのとき槍を腹から抜き取り、筋肉に意識を集中して血を止める。これくらいの荒業もオーヴァードであれば不可能ではない。

「能力に頼りすぎて、ためが大きいんだよねぇ」

 蛇が尻尾を伸ばしてユキサキを捕らえるよりも早く、ユキサキの持つナイフがパンドラ・アクターの首を突き刺す。

「力が大きければ大きいほど、ウィルスを活性化させ、そのエネルギーを転換する。それはなかなかに時間がかかる。これは先のストレンジャーが持っていた対オーヴァード用の薬を塗ったやつだ。いやー、君みたいな完璧なバケモノだとさぞかし痛いだろうね」

 大蛇がのたうち暴れて瓦礫や地面を叩き割るのをゆるやかな動きでかわしながらユキサキはさらにもう一本のナイフを柔らかな胸に突き刺す。その刺された皮膚からレネゲイドウィルスの抗体が――水ぶくれのように血管が膨れ上がり、燃える痛みに蛇が悲鳴をあげる。

「ほんと、化け物のくせにわりと弱点多いと思わないかい、なぁイクソス」

 ユキサキの視線の先にヴラスターリは立ち尽くす。

 自分でもよく立てていると感心する。

 内臓が傷つき、立っているだけで眩暈がする。呼吸一つまともにできない。

 けど

「ユキサキ!」

「なんだい!」

 血を弾丸に変えて撃つ。ユキサキが動く。動きを読まれないように素早く、一定方向に定めないじぐざぐな動き。弾丸を無駄に消費するわけにはいかない。一撃で仕留める。だったら

 間合いを詰める。

 腕を伸ばせば届く距離。

 撃つ――銃口の先を手で弾かれる。外れ。

「弱いな」

「っ」

 武器を捨ててすぐに息を整える。

 ヴラスターリの取得している体術はロシア軍の殺人拳法であるシステマ。呼吸によって極限まで痛みを無効化し、合気道の要領で相手の力を利用しての絡み技だ。痛みと血を失くし過ぎて視界がぼやけた。と、左頬に強烈な一撃が見舞われた。

「っう」

「君の技、動き、僕はよく知ってる」

 息を整える暇もなく更に腹に一撃が見回され、血と一緒に吐瀉物を吐きながらヴラスターリは千鳥足で後ろに下がる。

「君がそうであるように」

「っ」

 犬のように息を乱して、繰り返し、整えようとして出来なくなった。これでは戦えない。

 ユキサキがステップを踏む。踊るようなそれは無駄もなく、隙もない。彼が身を低くした瞬間、左足が伸びた。--踵を使った強烈なキックが胸に突き刺さる。そのあと顔に掌打がくわわり、頭のなかで火花が散った。

 地面に情けなく倒れて、鼻から溢れる血と喉に焼け付く痛みにヴラスターリは呻いた。

「弱いなぁ」

 嘲笑う。

「守る者なんて作るから弱くなるんだ」

「だ、ま」

 ひしゃげた声が出てきた。

 血塗られた手を伸ばす。

「ゆき、さき」

 届かなくてもいい。彼を殺せるなら。

 滴り落ちる自分の血を細く長い刃に変える。ユキサキが目を見開いたとき、命を燃やした渾身の力で地面を蹴って飛び出していた。

 ユキサキの心臓を突き刺す。

「あ、ははは。すごいな。君って昔から器用だったけど」

「っ、う、か」

「今はもっと器用だな」

 刺さったと思った赤い刃を――ユキサキの手によって止められている。滴り落ちるのは彼の掌の薄皮を切った薄い赤色。

 燃えるような怒りで睨みつける。

「ゆき、さ」

「なぁに」

「ころ」

「君じゃあ、僕を殺せない。今の君じゃあね。弱すぎるから、ほら、もういちどニューゲームだ。イクソス」

 違う。私の名前は

 そう叫びたいのに出来なかった。

 後ろから深く突き刺さった感覚――視線を向けて気が付いた。

 自分の背後に空間の暗い色をした裂け目が出来、そこから伸びる蛇の尾のような刃。それが自分の心臓に突き刺さっている。

 あれは――口のなかに血が溢れるのにヴラスターリは、自分のなかのレネゲイドウィルスが停止するのを感じた。

 溢れてた力、命がすべて奪われていくのを。

 ああ、ただの人間にされる。

「君たちからもらった遺産だよ。みんな裏切って、手に入れたあの遺産

 ヨルムンガンドだよ、イクソス」

 優しい囁きにヴラスターリは誘われてそのまま意識を、命を手放す。

 なにもかも、奪われていく。


 裏切者のユキサキ。お前のせいで、みんな人殺しだ。

 脳裏に浮かぶ声。


 ごめん、ヴァシリオス――名前を呼びたいのにそれすら叶わず、ただ闇に落ちながらヴラスターリは謝っていた。

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