歌姫

 ヴラスターリが体力の限界から眠りについたのを見届けたヴァシリオスは部屋から出た。

 贅を凝らした幾何学模様の入った赤絨毯が隙間なく敷かれた明るい廊下を通り、客人たちは自由にどこでも行ける。

  船は小さな動く島として機能している。

地下にはスポーツジム、プール、ついでに大きな風呂場……水を常に消費して平気かと心配になるが、一度使ったものを洗浄し、使いまわすための機械がこの船には取り付けられているようだ。

 地下二階は大人たちが遊ぶためのカジノとバー。

 船の一階は誰もが行き来するラウンジで、その奥には好きに食事できるテーブルとソファの並ぶ食堂。

 ここは客であれば使用は自由となっており、退屈を和らげるために音楽家たちが昼と夜に日々違う音楽を奏でてくれる。またこのフロアにはいくつもののショップが軒を連ね、客人たちは好きに買い物も楽しめる。

 上の階は展望台、図書館、休憩スペース。三階は操作室となっていて立ち入り禁止となっているが、これだけの娯楽を揃えている船はそうそうないだろう。

 それだけの地位と富を持った選ばれた者だけが乗れる船だ。

 揺れも、ヴラスターリは感じていたようだがヴァシリオスはまったく感じない。外に出れば海の匂いはするだろうが室内にいるうちはここが地上だと言われても信じてしまいそうなくらい安定している。

 アッシュから送られてきた地図は改良する前のものだ。残念なことに改良後のものは手に入れなかったそうだ。

 船の見取り図は公開されたものだけが送られてきていた。

 だったらまずはこの船の構成を理解し、可能性を潰していくしかない。

 地図を手に入れ、一か所ずつ確認するとなれば十日でぎりぎりいけるか、いけないくらいだ。その間に死者が出る可能性は高い。

 遺産は持っていれば、狂う。

 それが遺産としての性なのか、レネゲイドウィルスの力なのか、はたまた力というものが人を狂わせていくのか。

 一度だけ遺産を手にしたことのあるヴァシリオスから言わせれば――本能としか言えない。

 狂ってしまうのも

 破滅していくのも

 遺産と、それを手にしたものの本能

 どれだけ強靭な精神を持っていても、仲間がいようとも、どうしても避けようがない。

 はじめからエンディングは決まっていて、それへとただひたすらに歩いていくしかできなくなる。

 だから遺産は厄介だ。

 ヴァシリオスはラウンジの人気のないところに身を隠し、右腕の袖をまくしあげ、肌に爪をたてた。皮膚に引っかき傷を与えて、絨毯の上に血を落とす。

 オーヴァード能力として、ブラム・ストーカーを得たヴァシリオスは血を操ることができる。

 血を武器に変えたり、他者に流し込むことで操ったもできる。戦場ではこの力を使い幾多の修羅場を乗り越えてきた。

 血に五感をシンクロさせて、操ることでその目を借りて情報を得られることも可能だが、それでは肉体ががらあきになってしまう。

 操る人形がいくつあってもそれを処理する脳が一つである以上はどうしても出来ることは限られるし、複数の目を使うと混乱が生じる。それにたかだか血の塊一つでは情報は集まりづらい。こういうとき電流を操れるブラックドックであれば機械も思うままに扱えるため羨ましさがあるが、ないものねだりしていてはいけない。

 ヴァシリオスはいくつもの血の塊を生み出したあと、それらを操り、統一するリーダーを作ることにした。そのリーダー格に仮初の意思を与えて情報処理の負担を任せれば探索はずいぶんと楽になる。

 かなり乱暴な手段で地図を手に入れる方法はあるが、地図よりも、この船のどこになにがあるかを把握するほうが大切だ。

 小さな五センチにも満たない血の塊――赤いスライムたち。リーダー格にはすぐにわかるように大目に血を滴らせて構成する。

「あ」

 自分でもつい間抜けな声が出てしまった。

 スライムみたいな特徴がないよりは少し形を与えよう――と考えたのが悪かったのだろう。

 五センチのヴラスターリが出来た。

 小さなそれは腰に手をあてて、威張っている。リーダーだぞと自分が偉いのだと言いたげだ。

 まさかこんな個性が出るとは――今までこんなことは一度もなかった。たぶん、彼女が恋しいという気持ちとイメージのせいだろう。

 小さなヴラスターリはスライムたちに命令を下し――手でなにか指図している、スライムたちは躾の行き届いた兵士――レギオンらしく規制正しく動いて小さな通気口のなかに消えていった。

 それを見届けた小さなヴラスターリは笑顔で両手を広げてくるのは、褒めてほしそうでつい噴出してしまった。

 よく彼女の血を飲んでいるから人格が色濃く出てしまっている。

 ヴァシリオスは手を伸ばして抱え上げると嬉しそうににこにこと笑うちびヴラスターリを胸ポケットのなかにいれることにした。これで何か情報を得れば彼女が教えてくれることだろう。

「あとは自分の足で調べるしかあるまい」

 隠された場所以外を、まずは自分の足でしらみつぶしに調べていく。それが今の自分に出来ることだ。

 出来ることをひとつ、ひとつ。

 ヴァシリオスはそういう頑なな我慢は出来るほうだ。根性がなければ戦場では生き残ることは出来ない。

 今の時刻はすでに夜。時間は二十三時をまわりそうだ。この船は二十四時には一度すべての階の電気が切れて就寝時間となる。朝の六時には電気がつくようになるが、本来ならばみな眠りにつく時刻だ。あまりうろうろしていては悪目立ちしてしまう。

 ラウンジは人の姿が、まばらに見えた。

 あるテーブルではまだ遊び足りないとばかりにポーカーをしているらしく、男たちが楽しそうにカードを投げている。

「オーナー、もっと話してくださいよ、この船について」

 男たちの一人が媚びるような声をあげる。

 通り過ぎようとしたヴァシリオスは思わず足を止めた。

 この船のオーナー。この男が――と視線を向ける。蜂蜜色の金髪を整え、落ち着いたスーツ、洒落たネクタイの伊達男。

 不躾な視線に彼は気が付いて片目を眇めた。

 青い、空色の瞳だ。

「あなたも混ざる?」

「いや、私は」

 丁寧にお断りをいれようとしたが、すでにオーナーと言われる青年はヴァシリオスにゲームを強制するつもりらしく、片手をあげた。

「ここの席に」

 好奇心をむき出しの視線が投げかけられ、誘われてヴァシリオスは黙って座った。

「一人船酔いで抜けてね、カードを」

 配られたカードを手にとり、ヴァシリオスは視線を向ける。

「あなたは一人?」

「妻と二人で」

「夫婦なのか、ハネムーン?」

 青年は物おじせずに聞いてくる。

「……いや、ハネムーンはすでに終わらせた。今は彼女の故郷に」

「それはいい。僕がこの船を買い取った話、ああ、先、ねだられていたんだ」

 話を聞かない上流階級らしい傲慢さが透けて見えた。それが許されるだけの立場にいたのだろう。

「僕は幼いときにこれに乗ったんだが、そのとき船の乗客が全員消えたんだ」

 誰かが笑う。まるでジョークを聞いたときのように。

「そのとき人魚を見たんだ。その人魚が僕を助けてくれた。僕は独りぼっちだったが寂しくなかった人魚がいたから」

「その初恋の人魚に会うためにこの船のオーナーに?」

「そうだ」

 茶々をいれる周りに青年は嬉しそうに答える。

「恋とは人を狂わせる。そうだろう。ええっと」

「ヴァシリオス、ヴァシリオス・ガウラス」

 冷たく名乗ると青年はにこりと笑った。酒に酔った顔だ。

「フランシス・ユグルド」

 その名前を脳裏にヴァシリオスは刻む。

 とフランシスが両手を開いた。

「僕の勝ちだ」

 カードに出されたストレートフラッシュ。誰も何も言わない。

「あのときからひどくついているんだ、僕は。きっといなくなった人たちの運をもらったんだろうな」

 そう口にしたときだけ、フランシスの瞳はひどく冷めていた。なにもかも、諦めたような瞳だ。


 ゲームを切り上げたヴァシリオスは時間も差し迫っているので部屋に帰ることにした。きっと今頃、ヴラスターリは眠っているころだろう。彼女の寝顔を見ながら一晩を過ごすのも悪くはない。

 陰気な闇のなかに歌声がした。

 ぞくりと自分のなかの本能が動く。

 これを捕まえなくはいけない。

 なぜ、どうして、そんな些細なことを気にしている暇はない。

 ヴァシリオスは速足でそちらに向かった。

 たどり着いたのは二階のデッキだった。深夜で灯が絞られ、暗闇が広がる。海の上はなにもない。ただの闇、闇、闇。

 響く潮騒。

 そして

 ヴァシリオスはその女に手を伸ばしていた。

 海を見つめて、ただただひたすらに歌う女はデッキの中央でぼんやりと立ち尽くしていた。その女だけが輝いている、ようにすら思えた。

 手をとると、触れることができたことが奇跡に思えた。

「あ」

 女はぼんやりとヴァシリオスを見つめる。

「……お前は」

 女は青い瞳をしていた。

 髪の毛は茶色で目立つことはないが、それでもひどく人の目をひく美しさがあった。

 女は微笑む。どこか媚びるような顔は見覚えがあった。

 自分が過去に手にいれた遺産と同じだ。

 ぞくりと寒さではない嫌悪が背筋に走った。

 殺したいと本能が思うのを必死に押さえつける。でなければこの場で後先考えずに自分はこの女を殺してしまうとヴァシリオスは確信した。

「何してるのよ、アンタ」

 鋭い声が飛んできたのに見ると、黒髪の女――日本人だろうか。駆け寄ってきて、彼女の間に割って入り、彼女の肩を掴んだ。

「変なことしないでちょうだい、彼女は友達なのよ」

「お前はそれがなんなのかわかっているのか」

「なんのことよ」

 女は吐き捨て立ち去るのにヴァシリオスは胸を抑えて、何もできず、ただ見つめるしかできなかった。

 一人置いていかれたヴァシリオスに胸ポケットから出てきたヴラスターリがすり寄ってきた。

 よすがにするように、そっとヴラスターリを強く手のなかに抱えていた。

「なにをしているんだ」

 凛とした声にヴァシリオスは振り返った。そこに立つフランシスは怪訝な顔をして、そのあと微笑みを浮かべた。

「なんだ。酔い覚ましか」

「……ああ。君は」

「ここには思い出があるんだ」

 つかつかとフランシスは歩みを進める。どこにいくのか見ていると、彼は立ち止まって、とびっきりの秘密を教えるようにウィンクを一つ投げ寄越し、手招きして奥に進む。

 暗くてよく見えなかったが、そこに白い扉がある。

 彼はためらいもなくその扉を開けてなかにはいる。ヴァシリオスも後に続くと、そこは小さな教会だった。

 木造の長いすが左右に二つ、マリア像と、その後ろには美しいステンドグラス。

 本来信仰をモチーフにしたものを飾られるだろう、そこには一匹の人魚が絵描かれていた。美しく揺蕩う女の人魚は慈愛深く暗闇のなか佇んでいる。

「この船は結婚式も出来るんだ。まぁ予約制だけど」

「……すばらしい作りだな」

 世辞ではない、本心でヴァシリオスはそっけなく賞賛した。

「この船を買いとったとき、いくつか部品を新しくしたのさ。僕が幼いときからすでに二十年、この船はほぼ朽ち果てていた。他の同じような船を買い取って直したんだ。……美しいだろう。このステンドグラスはもともとあったものを移動させたんだ。母が好きで、いつも……船にいるとき祈ってた」

 切実な、どこか懺悔のようにフランシスは口にして首にかけてあったネックレスを取り出すと握りしめる。

「それは?」

「握っていたらしい。それ以外のことは覚えていない」

 暗闇のなかでも淡い輝きを秘めた青い石はチェーンに無造作につけられていて、かなり安物のように思えるが、まるで命よりも大切なもののようにフランシスは手に握りしめている。

 月光を浴びて鈍く輝くステンドグラスにヴァシリオスはなぜか知らずに違和感を覚えて後ろに下がっていた。

「ふふ、このステンドクラスだけは僕の罪を本当に知っているんだ」

 子供のように笑うフランシスにヴァシリオスは黙っていた。

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遺産を追う狼 北野かほり @3tl

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