第二章・世界を巡る狼
まだそこにいる
海の上の悲劇
人生には試練がつきものだ。
今、現在進行型でヴラスターリは人生最大の試練を味わっていた。
「う、ぷ、ぇ」
胃からせりあがってくる吐き気から漏れる小さな声にさっと横からたらいが差し出される。
思わずそれを両手で持って顔をつっこむ。
幸いにも喉に激しい胃酸の味がしただけだ。それでも胃が自分のなかのものを出そうと激しく振動するのでひどい苦痛が全身を痙攣させる。
それが止まるまで約一分間をただひたすら耐える。
永遠に近い地獄の時間。
なんで、こんなに辛いのしら。
この苦痛をヴラスターリが知ったのはつい一時間ほど前のことだ。
吐き気がおさまり、すっきりしたが口のなかいっぱいにしょっぱい味が残る。
胃酸って本当に黄色をしてるんだ、ということも、さんざん吐き続けて知った。
たらいの底を睨みつけていると、そっと奪われた。
横にいるヴァシリオスが当たり前みたいに、タオルで口を拭ってくれる。
「つらいわ」
ぽろぽろと泣きながら訴える。
「私、死ぬのかしら?」
「この程度で人間は死なない」
呆れ半分ほど、残りは真剣に心配している顔でヴァシリオスは告げる。
この程度、と口にされるが一時間でヴラスターリが受けた精神的、肉体的苦痛は言葉に出来ないほどだ。
ぶっちゃける、しんどいし、つらいし、苦しい。
ことのおこりは二時間前と少し前。
アッシュに呼ばれ、彼のいるイギリスに向けて豪華客船で移動をすることになった。
なぜ飛行機ではなく、船なのか――移動としては船よりも飛行機のほうが比較的に早くて済むのだが、一部の地位のあるオーヴァードたちは襲撃を恐れて飛行機を避けての移動する。
ヴラスターリにたいした地位なんてないが、世界中に名の知れたアッシュお抱えの懐刀のエージェントのせいであっちこっちで買わなくてもいいし、買った覚えもないご主人様の恨み、つらみのため狙われることは多々ある。が、特別移動手段――バロールまたはブラックドック能力者による移動支援を行ってもらえる立場でもない。
そして今回はアッシュからの指示で豪華客船【エリザベス】に乗ることになったのだ。
日本の港に佇む、真っ白で、大きな豪華客船は乗りこめばそこが一つの豊かな王国かと思えるほどの立派な作りをしていた。
赤絨毯が敷き詰められ、客人を長期でもてなすための娯楽、食事など素晴らしい贅が凝らされ、飽きることの楽園。
しかし。
「船、きもち、わるい」
足が地面についていないという精神的な不安定さにくわえ一般人なら感じないだろうが、五感に優れたオーヴァードゆえに足元から伝わる小さな振動に胃がせりあがってくる感覚。
はじめて船に乗るということではしゃいでいたヴラスターリは困惑した。今までいつも新幹線や車を移動手段にしていたのは、そっちのほうが楽だったからだが――あ、船ってこんなにも不安定なんだ。
それを押し殺して、なんとか昼には豪華ビッフェをいただいたまではよかった――その三十分後に嘔吐祭りになるとは思わなかった。
食事を終えて部屋に入るとトイレに駆け込んで吐いた。さらに二度続けて吐いて、ヴァシリオスに無言でベッドに寝かせられてしまった。そのあとは彼が用意したたらいに吐いては口をゆすいで寝ての繰り返しだ。
「う、ううっ、なぜなの」
「生牡蠣を食べるからだ」
呆れた顔でヴァシリオスは咎めた。
確かにビッフェには生牡蠣があった。
ぷるぷるの灰色と黒のそれは檸檬をしたたらせて皿になっている貝に口をつけると、つるっと口腔のなかにはいってきておいしかった。
ヴァシリオスはやめたほうがいいと二度ほど口にしたが、人が食べているおいしそうなものはぜひとも食べたい。
最近、食べることに目覚めたヴラスターリは忠告を無視したのだが、あれが原因?
「けど、他の人たちも食べてたわよ?」
「それは彼らと君の環境が違うからだ。この時期の生牡蠣はうまいが、あたる可能性もある」
「あたる?」
知らない単語をヴラスターリは繰り返す。
「つまり、君のような状態になる」
「……ど、どうして」
「食中毒だ」
またしても理解が追い付かない。
食中毒とはなんだ。
「……食べ物のなかにある有害な菌に肉体が激しい拒否反応を起こして嘔吐するんだ。下痢にもなる、高熱を出す」
つらつらとあげられるそれらの現象にヴラスターリは青白い顔をさらに青くさせた。
まだ試練が残っている?
「……死んじゃうわ」
ベッドから白い天井を見上げてヴラスターリは情けなく泣いた。それくらい辛い。
「場合によっては死ぬだろうが、この程度で人は死なない」
この程度と口にするが、今の状態ははたしてこの程度と言えるのか?
「……なんか薬は?」
「ない」
「ないの! ……うっ」
きっぱりとヴァシリオスは断言するのにぎょっとしてヴラスターリは言い返し、気持ち悪さに呻いた。
「吐き気止めなんかはあるが……それを飲むと吐き気が止まって、逆に悪化させることがある」
「……うっ」
安易にらくな道を選べばそれ相当の思いをすると、口にされているのにヴラスターリは唇を閉ざす。
だったらこの状態をなんとかする方法……一番容易い方法を思いついた。
「いっそ、一度死ねば」
「……死んで再生した場合、この状態で再生することになると思うが」
「あ」
オーヴァードの自己再生能力はすさまじい。死んだとしても生き返れるが、それは死んだ直後の状態に戻るだけだ。つまりはこの苦しみに悶えた状態での再生となる。
オーヴァードなんだから、この程度の食中毒、どうにかならないのかと怒り狂いたいのだがその元気もない。
「どうして、こんなにも苦しいの?」
「それは……君が食べ慣れていないからだろう」
食べ慣れていないという単語に目をぱちぱちさせる。
「君は今まで食べてこなかっただろう」
「う、ん」
食べ始めたのは、ヴァシリオスと共に生活するようになってからのことだ。彼が作るものを食べて、おいしくて感動し、そのあと食べることに目覚めてしまった。
今までの栄養食――無味のゼリーを飲んで過ごしていた人生がみじめでもったいないとすら思うレベルで食改革されてしまった。さすがギリシャ人。
ヴァシリオスに教えられてフォークとナイフ、ついでにお箸だってきれいに使えるようになった。
おかげさまで食に貪欲に――がめつくなった。
だからつい気持ち悪くても、ビッフェを食べまくった。
「食べ慣れていないなら抗体や免疫もない君が生ものにあたるのは当たり前のことだ」
「日本で、おすし、たべたわよ」
お寿司。生魚とごはんをちょっとずつ食べるそれは一度だけ、高見に連れていかれた回転寿司というところで食べたが、ぷりぷりの触感にぴりっとした辛さが癖になった。
「あれはお酢なんかで消毒しているからだ」
「お酢?」
「調味料だ。それで菌を排除しているんだ。だが生牡蠣はそうはいかない。味と安全のための檸檬も気持ち程度の効果しかないだろう」
なんだかよくわからないが自分は食べ慣れていないのについうっかり危険なものを食べて自爆したらしい。
だからヴァシリオスは生牡蠣を食べるのにいい顔をしなかったのか。
「じゃあ、みんながみんなこうなっているわけではないのね?」
「君くらいだろうな」
「……そう。辛いわ」
超人のオーヴァードだって知らない苦痛は耐えられない。
経験がなければ強くなれない。それは一般人でも、オーヴァードでも差はない。
生憎とヴラスターリは船と生ものへの耐久性は一般人以下だったらしい。
もっと日本で生ものを食べておけばよかったとヴラスターリは心から後悔した。そうして食べ慣れておけば胃も強くなってくれたはずだ。だが仕方ない、日本で大事件が発生し、半死半生状態で病院のお世話になって退院したと思ったらすぐに任務を仰せつかったのだ。日本のおいしいものを食べている暇はなかった。
おのれ、アッシュ! 次に会ったときは、その自慢のスーツに吐いてやる。
心のなかでアッシュへの罵言をあげながらヴラスターリはヴァシリオスに希望を託して見つめた。
「そのうち落ち着くから大丈夫だ」
ヴラスターリの言いたいことをくみ取ってすぐに返事をくれる。なんて素敵な旦那様だろう。
「いつごろ?」
「だいたい二日か、三日ぐらいか」
簡潔に地獄にも叩き落してくる素敵な旦那様だ。
それまでこの地獄が続くのか。死んでしまう。いや死なないと言われたたらきっと死なないのだろう。
「うう。トイレ行ってくる」
「手伝おうか?」
ぶんぶんと首を横に振ってヴラスターリは肉体に残る渾身の力を使い、立ち上がる。
手足がぷるぷると震えるがそこはご愛敬だ。ここでヴァシリオスに助けられたら彼のことだから最後トイレの始末までやってくれそうだが、それはさすがにいやだ。
トイレに籠って、なんとか自分ですべてを終えて戻ってくるとぐったりとベッドに倒れる。
「きもちわるい」
「船酔いもあるんだな」
「う、うう」
つい涙が出てくるが、それを必死に手で拭う。
「船酔いも慣れるしかない。しばらくは気持ち悪いだろうが」
「胃がぐるぐるしてるわ、え、まって、この酔った状態だとごはんもまとも食べられないと思うんだけど」
「そう、なるな」
ひどく悲しい顔をするヴラスターリにヴァシリオスは哀れみをこめた目を向けた。むしろ、お前はこの状態になってもまだ懲りずに食べるつもりかと問うているようにも思えたが、そんなことはないはずだ。たぶん。きっと。
「つまり、食べれないと」
「吐くだけだ」
「うっそんなぁ」
ヴラスターリの顔が悲壮に歪む。
「……二日経てば落ち着いて、水分はとれるようになるだろうが」
問題は船酔いもくわわているヴラスターリがまともに食べれるようになるのはいつか、ということだ。
「ヴァシリオス」
真剣な声でヴラスターリはヴァシリオスに呼びかける。
「私が死んでも、あなたは暴れちゃだめよ? いくらなんでも生牡蠣をすべて根絶やしにするなんてもっとだめよ? ひどいめにあってるけどおいしかったから、根絶やしにしないでほしいわ」
「……君は俺をなんだと思ってるんだ」
胡乱なまなざしにヴラスターリは強気に微笑んだ。
「私のことが大好きな旦那さん」
「……それは」
照れたのか視線をさ迷わせているヴァシリオスを可愛いと思った直後にまた吐き気に見舞われた。
素早い動きで嘔吐物をたらいで受け止め、顔をきれいにしてくれる。
これが愛以外のなんだというのだろう。
胃酸と唾液、ついでに鼻水で顔をぐちゃぐちゃに汚したヴラスターリは親愛をこめてヴァシリオスを見つめる。こんな自分でも彼は変わらず当たり前みたいに世話してくれる。その優しさに感動して洟を啜る。
「こんな状態じゃなきゃキスしてるわ」
「してもいいのか」
「え、だめよ。こんなんだし、それに移したら大変」
「君のは移るようなものではない」
やんわりと反論されてもヴラスターリはかたくに否定した。
「だめ。こんなのでキスしたら胃酸味のキスになっちゃう!」
「俺は気にしないが」
「私がいやなのっ」
思わず身構えて叫ぶヴラスターリにヴァシリオスは面白がるようにすりよってくる。思わず、逃げ腰になるが動けない。ヴァシリオスの腕がヴラスターリの頭の横に添えて逃げ場を塞いでから顔を覗き込み、額をぴとりとあてる。
視線が合う。
互いの目の色が伺える。
見惚れると、鼻先にキスされた。
すぐに離れてにやにやとヴァシリオスが笑うのにからかわれたと理解したヴラスターリはむっとした顔をする。
「ひどい」
「弱った君も魅力的だ。キスしたらそのまま襲ってしまうから自粛しよう」
優しく言われてヴラスターリはふぅと大きなため息をついた。
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