国が悪いか、男が悪いか、コロナが悪いか――日本的なテロ情緒

 読者がこの物語を読んだ上で最も考えさせられるのは、憎むべき悪しき相手は誰だったのか?という答えのない問いだろう。悪と思われる相手は三者だ。男が憎んだ国(この場合は日本国政府)、憎んでいる男、COB0(便宜上コロナと略)である。

 物語の主人公というのは、わりと読者から同情を向けられ易いという特性によって、善側に居るものである。主人公が居る世界から見て善側か悪側か、というのは関係ない。従って、庶民でもある男はそれゆえに弱者であり、弱者が強者である国政府に立ち向かうという構図は勧善懲悪を催す効果があるので、男に余計に正義を見てしまい易くなりうる。
 では、だからこそ国は、悪として倒されても仕方ない正当な大義の立つ相手になるのだろうか。しかし、巧拙評価のし甲斐はあるとはいえ、国は何もせず国民を確実に見殺しにかかった訳ではない。それは、まず国は国民と予算がなければ成立できない以上、通常支配者は主な資金源である国民を絶滅させようとはできないので、人命救助活動は合理的といえるのが一つの理由だ。それに、犯罪学者サザーランドが『ホワイト・カラーの犯罪』にて説明するに、犯罪は犯罪者個人の心理・性格・遺伝的素質によって起きるのではなく、人々の社会的相互作用の過程で学習される行動だと考えた。これを分化的接触理論という。男が「事実上の見殺し・自然淘汰」と云って犯罪的に見た国の行動は、その状況に即した組織にとってある意味正常な日常行動であり、学習されるべき大人の知恵の発露であり、罪悪感のない確信犯だと見做されるのである。例えばスウェーデンはCOVID-19対策として、国民を徐々にウイルスに晒して人口全体が病原体への抵抗力を獲得できるようにする集団免疫作戦を行っていた。そもそもスウェーデンは法的に公衆衛生局などの国家機関が高い独立性を持つようにされているので、医療従事者からの警告があっても長い間方針を変えることはなかった。結局それによる経済的利益は薄く、隣国からは国境封鎖される事態に至っている。こうなったスウェーデンは、男にすれば国家ぐるみで凶悪的犯罪をなした体たらくに見えただろう。翻って日本国政府を考えるに、少なくともスウェーデンよりは放任にしてはいなかったし、それを措いても国の行動は残酷ながらある意味正常な日常行動をとった。男はその法的妥当性を裁判で問わず怨恨をつのらせてしまった点で、国を完全な悪として公に指弾できる立場ではなくなった。

 それでは今度は、悪としての男を考えよう。
 先ほど述べたように、物語的には善側として同情できる余地があるとしても、それでも男は全てにおいて妥当な行動をしていたかというと、やはり犯罪的形質を認めざるを得ない。男は序盤で明確に「世界が、人類が、この国が、政治が、全てが憎かった」と独白している。男が具体的なターゲットとして日本国を選んだのは、妻を見殺しにしたと感じている日本国の崩壊を最初の踏み台にしたかったからだ。そして人類にウイルスを拡散させるという目的を果たすための、手段の最適化に過ぎない。男は一国革命家ではなく世界テロリストなのである。
 犯罪学者レヴィンとフォックスは『殺し過ぎた人々』にて、無差別大量殺人を引き起こす6つの要因を紹介した。その中から、他責的傾向と社会的・心理的孤立を取り上げよう。大量殺人者は、長期の欲求不満の中で他の誰かが失望の原因だと感じ憎悪の念を抱き、それを正す他者が独身あるいは離婚していて存在しない形質があるという。男も妻という他者が不在で、かつ強い自己愛と現在の自分のありようとの乖離を受け入れられていない様子が見られる。この上で、男の内部にある衝動・欲望などのいわば内なる悪を、しかし男自身の自己愛の強さゆえに引き受けに耐えられず、外部に投げ捨て他者に転嫁させてしまう投影を起こしている。世の中の大概の人が他責的でも無差別殺人を犯さないことと男との違いは、やはり強すぎた自己愛だといえる。耐え難い自分の悪を持って国に安心して恨みの対象として甘えられるという心性が、男をいっそう同情させがたく救いがたいものにしている。義憤の人に見えて実は子供おじさんの奇なる私怨を、読者は読んでいるのだ。ハードボイルドとは言い難い。

 だが男は、なぜか全ての元凶であるコロナについては、遂に本文中明確に「憎い」と宣言することはなかった。それどころか、コロナを受け入れ自殺を図っている。男が憎悪するのは、皆コロナに右往左往された側の存在、言うなればコロナの被害者の方なのだ。男は、コロナの被害者に更に暴力を入れようとしている、その思想を貫いていることに気を付けなければならない。
 何故、男はコロナを憎いとは言わなかったのか。それは、男が(明言は無いが)日本人であることに理由の一端があるのだろう。日本は風土的に災害が起こり易いが、災害を乗り越える協力の妨げになる問題が発生するのは望ましくなく、従い日本人に問題の発生自体を嫌う心性が育まれた。ただ、起こった問題というのが災害のようにあまりにも社会で受け止めるには大きすぎるものだと、これを仕方がないことだとして受け流す傾向にある。そうした感覚が、コロナという災害に怒りの手を付けずコロナ関連で発生した問題を許さない思考の源泉だと思われる。いくらコロナが悪い・コロナが憎いと思おうとしたところで、誰もコロナを刑法で断罪することができない。男の甘えにとって、コロナは対象になりえなかった。男は自分の境遇の悪しさに自己愛でもって復讐したいのであって、コロナの撲滅を目指したい訳ではないからだ。
 妻をコロナで亡くすことが無ければ、男は自己愛を拗らせることなく何気ない動物医で居られたかもしれない。だがそうはならなかった。様々なものが永遠にある訳ではない無常の世界を、仏教は苦とし、日本はこの無常に「憂き世」という言葉をあてた。ところが日本は後世になると、徒につらむのではなく浮き漂うようにいっそ無常を楽しむ「浮き世」の人生観に変容する。落語『地獄八景亡者戯』では、地獄に落ちても釜茹でを適温な温泉にして針山を物見遊山の場にさせるなどアトラクション観光をするように楽しんしまう感覚が語られる。男も、前世や来世での積徳の拘りなんか持たないし、転々と居場所を変えるなかでこの世や生きる自分自身に絶対的な実在感を持つ感覚を薄らがせた。だから男は出国の際に「観光」と宣言したのだ。男は、これから楽しい地獄巡りをするのである。

 話はコロナ禍があった2020年の10年後から描かれる。きっと、「コロナを忘れない」という美辞麗句なスローガンのもと、各マスコミが記念特集を組み出している頃である。そうは言っても、一般的にコロナを日常で常に忘れない人間はどれほど居るだろうか。いわんや、日々の話題に真っ先に忙殺されやすいマスコミをや。かといって、男のように拗らせることが後世の良き教訓になり得るわけでもない。誰しもが、コロナに右往左往されてしまった。男は結局、コロナに包まれた世界を憎むという姿勢で、コロナに踊らされている一人の可哀相な人間の姿をそこに映し出しただけだったのだ。

 物語について、身元が不確かな男が、まず身分証明が必要な大学でどうして授業を受けられるのか。またウイルスという危険物をどう拡散させないで置けたのか(防護施設でラットを飼っているならなぜそんな所に出入り出来るのか、個人宅で飼っているなら他者への漏洩と感染をなぜ防ぎきれたのか)、など疑問を生む描写がある。とはいえ、全体は短くて読みやすい。タイムリーな話題を扱った物語を読んでみようと思い立ったならとっつきやすい作品だ。

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