サイトシーイング

江戸川台ルーペ

トロント・ピアソン国際空港にて

 空港の朝は清潔でどこまでも青い。

 離着陸を繰り返す飛行機は、かつての災厄を忘れたかのように楽しげな観光客と悲しげなビジネスマンを運ぶ。2030年、夏。俺は日本行きの出発を待っている。カナダの国際空港で。


 ◆


 俺の妻は十年前の2020年に【コブ・オーCOB0】で死んだ。


 COB0は変容を繰り返し、決定的な抗体を残さないタイプのウィルスで、それは人類が免疫を獲得できないことを意味していた。あらゆる医療機関がワクチンの製造に躍起になったが、どうやら現在の科学力では絶望的だと判明すると、人類のCOB0に対する対抗措置は他人がいない場所に引き篭もり、自己の免疫力によってCOB0を殲滅するか、あるいはウィルスに感染した遺体ごと火葬場で焼き尽くす以外に手段を持たなかった。


 妻が発熱し、咳の症状が三日ほど続いたので、俺は病院に掛かる事を勧めたが、「あたしはまだ軽症だから。お年寄りじゃないし」と弱々しく微笑んで拒んだ。当時は医療破綻を回避するという名目で「軽症者は自宅で療養して下さい」という厚生省からのお願いに似た事実上の見殺し・自然淘汰を目的とした要請が掛けられており、妻は馬鹿正直にそれを受け止めた結果、夜中に症状が悪化し、死んだ。ベッドで苦しそうに息をし、40度以上の熱に浮かされ、うわ言を繰り返す妻を何とか助けて欲しいと、何度も何度も救急に電話をしたが、受け入れてもらえなかった。憎かった。世界が、人類が、この国が、政治が、全てが憎かった。


 俺は仕事道具の注射器を使って妻の亡骸から血液を採取し、自分の腕に注入した。妻とは血液型が違っていた。それでも全然構わなかった。俺はそのまま死んでしまおうと思ったのだ。死にたかったのだ。


 次に目を覚ました時、俺はベッドの上だった。

「ご愁傷様です、奥様は亡くなりました」

 インカム越しに乾いた声が聞こえた。

「知ってる」

 俺は答えた。ひどく熱っぽく、息が苦しい。

「あなたも罹患しているようです。家庭内感染の疑いがあります」

「だろうな」

 俺はコンコンと咳をして答えた。妻の血液を注射した事は言わなかった。

「このまま隔離し、経過を見ます。およそ二週間の覚悟をしてください」

「構わんよ」


 そうして、俺は激しい頭痛と咳、呼吸困難を経験した。死んだ方がマシっていうくらいの酷さだった。だが、死ななかった。生き延びて、自己治癒力のみで妻を殺したCOB0に打ち勝ったのだ。ざまあみろ!


「●(俺の名前)さん、すみません」

 完治したにも関わらず、未だ退院出来なかった俺は、医師と面談した。

「●さんは、奥様と何かその、ありましたか?」

「『何か』って何ですか。普通だよ、至って普通の夫婦だ」

「実は●さんの体内にCOB0の変容性抗体らしきものが検出されたのです。あなたの血清さえあればCOB0のワクチンが作れますし、人類は免疫を獲得出来るでしょう。信じられない事です。今まで科学で解明できなかった何かを、あなたは簡単に成し遂げたのです」

 俺は妻の血液を自分に注射した事を思い出した。妻の血液型はBで、俺はAだ。そこら辺に何かがあったのかも知れない。

「どうか研究にご協力頂きたい。恐らく、あなたは世界でたった一人のCOB0に対する免疫の持ち主なのです。まさに、人類の宝です!」

 医師は熱っぽい視線を俺に向け、力説した。

「良いですよ、明日から是非」

 俺は快諾した。


 その日の夜、俺は病院から脱走した。

 家に帰るとまずはたっぷりと湯を張り、久しぶりの風呂を満喫した。冷蔵庫を漁ったが、三週間も留守にするとほとんどの食材が腐っていたので、冷凍ラザニアを電子レンジに放り込んで食べた。冷たいビールも一緒に飲んだ。腹を満たすと着替え、簡単な荷造りをして家を出た。コンビニのATMから現金を全て下ろし、タクシーを捕まえた。

 病院からの通報を受けた警察が乗り込んで来るのは明白だった。国が絡めば俺の血清からワクチンを生成する事はもちろん、再びCOB0の病原菌を作り出すことだって可能だろう。それはつまり、世界のパワーバランスを崩壊させ、新たな世界を牛耳る可能性さえ秘めている。冗談じゃない。俺は妻を見殺しにしたこの国を心から憎んでいた。滅べば良い。俺は羽田へ向かい、数便しか飛ばない国際線に飛び乗った。行き先はどこでも良かった。


 そうしてしばらく転々と居場所を変えている間に、人類はようやくCOB0に対する勝利宣言を発した。結局、人類は新種ウィルスの完全制圧に二年もの歳月を費やした。あのまま俺が協力し、隅々まで中古車の査定のように検品され、COB0に対する免疫をあっさりと国に渡していたら、恐らくもっと早く終息していたはずだ。俺はカナダの安いパブでビールを啜りながら、WHOによる勝利宣言のテレビ実況を感慨もなく眺めていた。祖国に対する怒りが沸々と煮えたぎる感覚を、俺は1秒たりとも忘れた事はなかった。


 カナダで日銭を稼ぐ清掃の仕事をしながら、地元の大学に潜り込んで授業を受けた。小さなラットを数匹飼った。元々動物病院の医師だったから、どのように扱えばウィルスを保持させる事が出来るかは分かっていた。ラットに俺の血を注入し、生き残った者同士を交配させ、8年間掛けてゆっくりとCOB0が取り出せる血を濃くさせていった。平穏な日常を享受しているあいつらを、再び地獄へ突き落とす為に。ラットがキィと鳴いた。


 ◆


 俺は荷物を肩に掛けると、ベンチを立った。

「目的は?」

 とっぷりと太った出国審査官の制服を着た女性が壇上から俺に声を掛けた。

観光サイトシーイング

「良い夏の休暇を」

 感じの良いウインク。

 ありがとう、と礼を言って、俺は小さく咳払いをした。




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