エデン
玄関を出ると、隣に住む若い女性と出会った。彼女もこれから《仕事》に赴くのだった。僕らはあいさつを交わした。僕の部屋は202号室で、彼女の部屋は203号室だった。昔は――それこそ200年前は――様々な外観の家と間取りがあったそうだが、現在僕らが一般に住んでいる家々はすべて同一の広さと間取りで統一されていた。一人暮らしの人が住むのか、二人暮らしあるいは家族で住むのかという違いから住人の人数によって間取りに変化が生まれるが、それだけだった。そのため僕と彼女の部屋を区別しているものは部屋の扉に付けられたナンバープレートとそれぞれがその部屋で過ごした年数の中で溜まっていった物のみだった。それだけで問題はなかった。世界は問題なく周り、誰も特に困ることはなかった。自分だけ人より大きな家に住みたいとも思わない。仮に僕の家がほかの人々の家よりも二個分大きくなれば、その分、家が小さくなってしまう人がいるからだ。そのようなことをして、僕の家を大きくする理由はとても見当たらなかった。
僕はアパートメントのエントランスを出ると、大通りに向かった。きれいに整備された道路を車が何台も走っていた。が、車内に人影が見えるのはそのうちの数台だけだった。その他はすべてAIによる自動運転で、プログラムされた通りに街中を周回しているのだ。僕は走ってきた無人の車を手をかざして止めた。EVの車は実に静かに僕の前で減速すると、ゆるやかに止まった。ドアが自動で開かれ、僕が乗り込むと閉められた。AIに仕事場の住所を伝えると、車は発進した。道路わきには蒼い清流が流れていた。それを眺めていると、時折太陽の光が水面に反射した。そのたびにまぶしさに目を細めた。しばらくすると車は森林におおわれた区間に入った。川は変わらず横を流れていたが、太陽の光は木の葉に遮られ、もうまぶしくはなくなった。森林は街のいたるところに配置されていた。が、そこには無理矢理に都市の中に押し込められているという印象はなく、初めからそうあることが自然であるという風だった。風が吹けば花々が揺れ、花の蜜にミツバチが引き寄せられるように! すべてが調和の上に成り立っていた。僕はこの街が大好きだったし、誇りに思っていた。いったいどれだけの人がこの街の偉大さを承知しているのかは知らなかったが、僕はこの思いを多くの人と共有したいと思っていた。僕は仕事場に着くまでの間、背もたれに寄りかかり瞼を閉じてこの街を築き上げるために科学に貢献してきた偉大な先人たちに思いを馳せた。
やがて車は止まった。車を降りると、AIは再び車を発進させて、プログラム通りに街を周回するコースに戻っていった。僕の目の前には螺旋状の、美しい建物があった。見上げるほどに大きなそれは、上に行くほどに狭まっていて、円錐型をしていた。女性のドレスのようにも見えるこの建物こそがこの街を管理する
《エデン》の周りは広場になっていて、芝生と噴水、そして薔薇の咲き誇る花壇があった。《エデン》は昼夜を問わず常に稼働しており、エントランスへと続く道には僕と同様にこれから仕事に赴く人々と仕事を終え、これから自分自身の時間を楽しむ人々で入り乱れていた。僕らは例外なくすれ違う時に挨拶をした。エントランスの中には透明な筒状のパイプが何本も設置されていて、その中をエレベーターが運行していた。人々はそれに乗って自分が仕事を行うフロアへと向かうのだった。実働部隊の主な仕事先は《エデン》の中ではなく外にあったが、実働部隊に仕事が任されるときは大抵が街で何かトラブルが起きた時や、研究機関から雑用の手伝いを依頼されたときで(雑用の中には時に危険な仕事もあり、そういうものが実働部隊にまわされるのだ)、そのような仕事が無い間は《エデン》に設けられた待機所で待っていることが仕事になるのだった。待機所は二十三階にあった。
待機所の自動ドアを潜ると、すでに何名かの同業者がいた。その中に僕がチームを組む仲間の姿を見つけた。一人は細身の好男子で、名前をダフニスと言い、もう一人は服の上からでも鍛え上げられた筋肉の盛り上がりが見える、巨漢の男で、名前をエーギルと言った。二人は丸テーブルを挟んで談笑に盛り上がっていた。僕が近寄ると彼らもぼくに気が付いてあいさつを交わした。二人はコーヒーを飲んでいた。僕は近くにあるサーバーから紅茶の注ぎ、二人と同じテーブルに着いた。ダフニスはにやにやとしていて、エーギルは気恥ずかしそうにして、落ち着かない様子だった。それで僕が来るまでの間に何か面白い話題があって――それはエーギルに起因する何かなのだろう――それをダフニスがイジっていたんだな、と思った。
「一足遅かったな。ちょうど今面白い話をしてたところだったんだよ」ダフニスが言った。
「そいつは残念だな」僕は言った。「何があったんだい?」
「聞いたらきっと驚くぜ」
「もったいぶらずに教えてくれよ」
「じゃあ教えてやろう」ダフニスはエーギルを示して言った。「こいつ、彼女と同棲するらしいのさ」
「へえ」僕は言った。エーギルにガールフレンドがいることは知っていたし、交際期間がもうずいぶんと長くなっていることも承知の上だった。僕らの間に知らないことなど何一つとしてありはしなかった。二人のことであればどんなに些細な変化でも気が付けた。だから彼が同棲をすると聞いてもそれほど驚きはしなかった。むしろそれは当然の帰結に思えた。「でも、めでたい話だとは思うけど、そこまで面白い話ではないんじゃないかい?」
「そりゃ、同棲自体はそこに何の面白みもないけどさ。重要なのはエーギルが彼女と同棲するってことなんだよ」
「どういうことだい」
「忘れたのか? この男ときたら彼女と付き合い始めてからデートで初めて自分から手をつなぐのに一か月以上かけた体たらくなんだぜ。そんな男が同棲なんかしたらどうなると思う?」
「ああ。あの時は大変だったからね。イオちゃんから相談されて、エーギルをけしかけるのに確かに苦労したよ」僕は言った。「なるほど。つまりダフニスはエーギルがあの時みたいに積極性を失うところを想像して、それが面白いっていうんだな。でも残念だけど、さすがにそうはならないと思うけれどね」
「どうしてだい」
「だって、エーギルだってあの頃より成長しているんだから。確かに昔は大変だったけど、あれは付き合い始めてお互いに照れていたからさ。エーギルだって、いまさらイオちゃんと二人きりで暮らすことになったって何の問題もないはずだよ」
「なるほど、お前さんのエーギルに対する評価が意外に高かったことにおれは驚きだよ」ダフニスは言った。彼が横目にエーギルを見やったから、僕もその視線を追った。するとエーギルはその巨躯に似つかわしくないたたずまいで、肩を縮こめていた。エーギルは僕に対して申し訳なさそうにしていた。それで僕はすべてを正しく理解した。エーギルはすでに同棲に先立ってもろもろの相談をダフニスにしていたのだ。「こいつは二十四時間彼女と一緒にいたらおかしくなっちゃうなんって抜かしてるやつだぞ」つまるところ、それが今回、エーギルがダフニスに持ち掛けた相談だった。なるほど、確かにダフニス好みの話だった。彼は見た目が厳めしいエーギルの内気な気質をとにかく面白がっている節があったのだ。
「あきれたな。これは」僕は言った。「エーギル、きみ本気で言ってるのかい?」
「冗談でこんなこと言わないよ」エーギルはコーヒーを一気に飲み干すと、開き直って言った。「第一、二人はイオの魅力に気が付いていないからそんな風におれのことをバカにできるんだよ。彼女の真の魅力に気が付いたら、きっと誰だって彼女と言葉を交わすのをためらうはずだ!」
「ふはは、今の言葉、彼女が聞いたらさぞかし喜ぶだろうな」ダフニスが言った。「今度言ってやったらどうだい」
「そんな恥ずかしいことできないよ」
「どうして恥ずかしいんだい」
「きみと一緒にしないでほしいなぁ。そりゃ、きみはそういうのが得意だろうけど」エーギルが言った。「知ってるかい? きみって巷じゃプレイボーイで通ってるんだぞ」
「うれしい限りじゃないか」
「ともかく、おれはきみみたいな真似は出来ないよ。恥ずかしいったらないね」
「ひとを恥ずかしい人間みたいに言ってくれちゃってまあ」ダフニスが言った。けれどその口調はどこか楽しげで、気分を害しているという風ではなかった。「まあいいさ。なんにしても、お前はまるっきり女ってものを理解してないんだな。いいか、女っていうのは花と一緒なんだよ。常に気にかけて、愛の言葉をささやいていればいつまでも美しく咲き誇っていてくれるんだ。だが、ひとたび目を離して愛を伝えることを怠れば、あっという間に枯れておれたち愚かな男の前から姿を消すのさ」
「いかにもきみらしい考え方だけれど、それはきみが本気の恋愛をしたことがないからさ。少なくともおれとイオは深い絆で結ばれていて、お互いにちゃんと分かりあえているんだから」
「いいか、エーギル。お前がもし本気でそう思えているならそれは彼女の努力のおかげだよ」ダフニスは言った。「言葉にしなくても自分の気持ちが相手に伝わるなんて、そんなバカなことがあるものか。想いっていうのは言葉にして伝えなきゃ、正しく伝わらないものさ。お前の言ってることは、はっきり言って甘えだね」
僕は二人の会話に耳を傾けながら雲行きが怪しくなってきたぞ、と思った。けれど二人がけんかをすることは二人の性格上珍しいことでもなかったし、そこには全幅の信頼があった。そのために二人の間で度々起こる諍いも――他人が見れば本気のけんかだと勘違いするかも知れないが――僕らにとっては心地よい空間の一部でしかなかった。いよいよ収まりがつかなそうになれば僕が止めに入る。それがいつもの流れであった。僕は紅茶を飲みつつ、二人の会話を聞いていた。
「おれとイオの関係で、きみにそんな風な言い方をされるいわれはないよ」エーギルが言った。
「おれはお前たち二人の未来のために行ってやってるんだよ」ダフニスは変わらずに続けた。「お前は自分の気持ちを彼女に伝えるのがどうしても恥ずかしいみたいだけどさ。いったいどうして恥ずかしいのかその理由を考えたことがあるか?」
「そんなの、緊張するからで」
「なんで緊張するんだい。相手が初めて会った女の子ならわかるが、付き合ってもう長い彼女相手にどうして緊張するんだよ」
「それは彼女がかわいいから」
「違うな。おれに言わせれば、お前は彼女のことを信用してないのさ」ダフニスははっきりと言った。「結局のところお前が自分の気持ちを彼女に伝えられないのも、同棲するっていうときに緊張してしまうのもすべてはここに起因してるんだよな」
エーギルは憤慨して、その場で立ち上がった。大柄な彼が立ち上がるとさすがに迫力があった。勢いよく立ち上がったせいで、周囲にいた人たちの視線がぼくらのテーブルに集まった。みな、何事かと驚いていた。が、ダフニスはけろっとしていて、まるで意に介していなかった。エーギルは思わず立ち上がってしまっただけで、それ以上何かするということもなかった。
「まあ、ダフニスの話をもう少し聞いてみようよ」僕はエーギルの手を取って言った。彼は深く深呼吸をすると再び席に座った。僕はダフニスに目を向けた。
「いいよ。続けて」
ダフニスは口の端をわずかに笑みの形に曲げた。それから言った。「つまりな、お前は自分の想いを彼女に伝えて、それを彼女に拒否されるのが怖いのさ。もし、相手のことを本当に心の底から信頼していたら、そんなつまらない心配なんかしないさ。深い絆で結ばれているっていうならなおさらな」
エーギルは何も言わずに、黙ったままだった。
「でも、エーギルがイオちゃんのことを信頼してないっていうのはどうなのかな」僕は言った。「僕の目から見ても、二人は仲良くやっているように見えるけど」
「いやいや、信頼してないさ。もちろん、こいつとしてはめいっぱい信頼してるつもりなんだろうが――なあ、エーギル。お前は彼女を大切にし過ぎなんだよ」
「大切な彼女なんだから、大切にするのは当然だろ」エーギルが言った。
「別にそれ自体は全然悪いことじゃないんだけどさ。お前の場合は大切にしすぎるあまりに、彼女との関係を不如意に壊すまいとして彼女と距離を取り過ぎなんだよ。本当に信頼し合っているならそんな関係じゃなく、相手のより深い部分と結びつきたいと思うのが普通なんだから」
「確かに、世間一般にいう恋愛というものはそうなのかもしれないけど」エーギルは言った。「それはおれにとってはあまりにも冒険が過ぎるよ。もしそれで、彼女に愛想を着かされたらおれはもう、生きていけないよ」
「それだよ。それが間違ってるのさ」ダフニスは言った。「愛想を尽かされる可能性があろうが、なんだろうが、自分の愛した彼女ならきちんと受け止めてくれると相手を信頼するのが本当さ」
エーギルは再び黙った。ダフニスは続けた。「まあ、今回の同棲はお前にとってもいい薬になるんじゃないか。これを機に相手のことを信頼する練習でも始めてみたらどうだ。こういうのは慣れだからな」
「なあ、ステファノ」エーギルは深く、深くため息をついた。椅子の背もたれにもたれかかって僕の方を見やった。その表情は少しばかり憮然としていた。「ずいぶんと容赦なく正論でダメ出しをしてくるやつに、綺麗になんだかアドバイスをしてやった風にまとめられると、こうも反論する気が起きないんだな」
「まあ、実際同棲に際して相談してたんだろ。その答えとしてはまっとうな着地点なんじゃないかな」僕は言った。
エーギルはそれ以上何も言わなかった。それで、この話は終了した。今回に関しては僕のするべき役回りは何一つとしてなかった。僕は空になった紅茶をもう一杯注ぎに行った。それから僕らは再び雑談に興じた。三百六十度、壁全面に張られた窓ガラスから陽の光が差し込んで来て、ちょうど僕らのテーブルを照らし出した。遠赤外線の効果でじっとしているだけでも少し暑いくらいに暖かくなった。
そうしていると、突然テーブルの中央に取り付けられた微小のレンズから僕らの目の前にホログラフィック映像が投影された。映像の中央には美しい黒髪を後ろで束ねて、理知的な瞳でこちらを見つめてくる一人の女性がいた。彼女の背後にはたくさんのモニターが見切れていて、そのモニターを一心に見つめている人影も確認できた。彼女は僕ら三人の顔をそれぞれしっかり見つめた。僕を見つめる時、彼女は口をもとに少しだけ笑みを浮かべた。それで僕も彼女に、ほかの人々にそれと気づかれない程度に微笑み返した。
それは僕と彼女――アリエル・クロスとの秘密のメッセージだった。たったそれだけのやり取りで、僕と彼女はお互いの想いを十全に伝え合うことが出来た。もちろんそれは僕と彼女の付き合いの中で、彼女がどのような人間で、どのような行動をするのかということをきわめて正確に把握しているおかげで、そのような気がするのはまったくもって錯覚かも知れなかったが。けれど以前僕がそのような話を彼女にした際、彼女は「でもお互いの思っていることを伝えあうことが出来るって信じていた方がロマンチックだし、なによりそうあろうということでお互いの絆はさらに強まるのよ」と言ったのだった。それは素晴らしい考え方だと僕は思った。以来僕も彼女の考え方を採用するようにしていた。
「おはようございます。三人とも」アリエルは言った。彼女の堅いまじめな声音で僕の意識はほんの幸せな心地から現実に引き戻された。そこにいるのは僕の恋人としての彼女の姿ではなく、職務に全うするときのアリエル・クロスの姿だった。僕は改まって姿勢を正し、《エデン》のすべての人々を束ねる総長に向き直った。
「仕事か?」ダフニスが言った。
「ええ。早速で申し訳ないけれど第五区画にあるショッピングモールに向かってもらえるかしら」アリエルが答えた。
「ショッピングモール? 事故か何かあったのかい?」僕が訊ねた。
「事故と言えば事故なのかもしれないけど。事態は深刻よ。動植物園で管理されていたライオンが一頭脱走してショッピングモールに現れたのよ」
「おいおい、それって一大事じゃないか」
「ええ。その通りよ。だからすぐに向かってちょうだい」
「えっと、それはおれたち三人だけってことですか」エーギルが言った。
「そうよ。ライオン一頭くらいならあなたたち三人だけで十分対処できるでしょ?」
「決まってる」ダフニスは得意げに言った。
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