セバステ研究所

 それからもろもろの事後処理を終えて《エデン》に戻った時にはすでに僕が仕事に就いてから三時間が経とうとしていていた。その時点で僕たちの今日の仕事は終わりだった。信じがたいことだが、その昔、人々は一日に何時間、時には十数時間も働き詰めだったらしい。


 僕がその話を聞いたのはまだ初等教育時代の歴史の授業でのことだったが、なぜそんな愚かしいことをしているのかと、疑問に思ったものだった。無論今となってはその理由についてもしっかりと理解している。昔は今日ほどモノに恵まれておらず、人々はお金という価値の物差しを作ったうえで生活を行っていたからだ。


 当時先生は「当時の人々にとって富とは重要な要素で、人々はお金なしでは生きていくこともできなかった。人々はお金に支配されていた」と語った。


 僕は恐ろしくなった。お金に支配されるということを想像しただけで、僕は恐ろしくなって震えてしまったほどだった。そのような時代に生まれなくて本当によかったと僕は思った。今、お金なんてものは博物館くらいでしかお目に掛かることはない。僕は一度、実際に博物館を訪れてガラスケースの中で、金具に固定されてライトを当てられている紙幣を見たことがあった。それはぼろぼろで、ところどころ破けて穴が開いていた。こんなものが人々の自由を奪っていたとはとても信じられなかった。そして歴史上偉大な発見をした先人たちも一ミリにも満たない厚さの紙に自由を奪われるほどにか弱かったのだと理解せざるを得なかった。それはニュートンであれ、アインシュタインであれ同じだった。彼らは今の僕たちの生活を見てどう思うだろうか。《エデン》の管理の下、地球上のすべてのものは人類と生命すべての共有財産となった。所有という概念はなくなり、共有という概念が真の意味で生を受け、芽吹いた時代だ。人々は三時間の決められた社会奉仕に従事すればあとは好きに自分の人生を歩むことが出来る。かつて、人々の富は自由という名の下に守られていた。しかし僕は、このことを思い出すたび考えずにはいられない。富は何よりも重要な幸福をこの上なく傍若無人に侵害し続けていたではないかと。


「ステファノ」とダフニスに声を掛けられて僕は我に返った。


 僕には時折とりとめもなく物思いに耽る癖があった。ふとした瞬間に、何の脈絡もなく今自分の行っている行動について顧みてしまうのだ。それは僕という人間が生まれ持って備えていた特質かも知れないし、成長の段階で自然と備わった者なのかは判然としないが。


「ごめん。ボーとしてた」僕は言った。実働部隊の制服のジャケットを自分の名前のプレートが入ったロッカーに戻して、私服へと着替えた。「何の話?」


「この後の話だよ」エーギルが言った。「おれたちはこのまま飯でも食いにカフェ・ウーノに行くんだけど。ステファノはどうする?」


「いや。僕は遠慮しとくよ」


「なんか用事でも?」


「ちょっと研究所によっていきたいんだよ」


「ああ。例の師匠のところか」ダフニスが言った。


「そういうこと」


「じゃあアンテに今度一緒に食事でもどうかってダフニスが言っていたって伝えてくれよ」


「やだよ。そんな役目」僕は言った「自分で言えって」


「おれってなんだか彼女に警戒されてるらしくってさ」


「チャラチャラしてるからじゃないか?」


 エーギルが不用意なことを言って、ダフニスに肘鉄を食らった。呻くエーギルに苦笑を送りながら、「彼女、根がまじめだからね」と僕は言った。


「じゃあな」ダフニスが言った。


「またな」とエーギル。


「それじゃあまた」僕は言って、二人と別れた。時刻まだ、昼になろうとしているところだった。


 研究所までは歩けば一時間ほどかかる。もちろん車を使えばもっと早くつけるのだが、僕は歩いて向かうことにした。時間はたっぷりとあり、急ぐ必要なかったし、今日は穏やかな陽気で頬を撫でる風が気持ちよかったので、しばらくこの感覚を味わいたいと思ったからだ。何人か、ジョギングをしている人たちとすれ違った。彼らはみな、規則正しいリズムで呼吸をしていて、時折腕に付けた時計を確認していた。僕も身体を鍛えなければいけないと思い、まれに走ることがあるのだが、どうも長く続けるモチベーションは湧かないのだった。ジョギングは最初の数分は地獄のように辛く、とても長い距離を走れる感じはしないのだが、その数分間を切り抜けると身体のスイッチが切り替わったように呼吸と足が楽になるのだった。そういう経験をしているにもかかわらず、いざ走ろうと思うと最初の数分間を思い出してしまい、結局走るのを断念してしまうのだった。


 とにかく僕はあまり身体を動かすことに向いていない質なのだ。僕はやはり、じっくり机にかじりついて頭を使っている方が性に合っていると思う。それが実働部隊のような肉体労働の社会奉仕に割り当てられたのは、ひとえに僕の持つ《固有超能力、電気力》のせいだった。実働部隊は超能力に秀でた人々が集う傾向にある。それは仕事の内容上仕方のないことだったが、ならば《電気力》の能力こそ僕の身には余る能力という結論になるのだろう。もちろん僕は《電気力》の能力を授かったことに対して恨みがましい思いを抱いたことは一度もない。《電気力》は僕のやりたいことに於いても非常に効果的な使い方が可能になるからだ。


 途中で露店があり、パンやサンドイッチなどを売っていた。この店は毎日決まった時間帯に店を出していた。すぐ近くに店舗を構えるパン屋で修業をしている見習いが作った品を販売しているのだが、その味は見習いとは思えないクオリティでひそかなファンも多かった。僕はホットドックを一つもらった。紙袋に包んで渡してくれた女性が「それは自分が作ったものなんですよ」と教えてくれた。とてもおいしかった。露店ではまた別のお客が来て商品が売れていった。女性はそのたびに、一緒に販売を行っている相方と喜び合っていた。それは自分の作ったものを他人が食べてくれることに感激している純粋な喜びだった。それで彼女たちがパンを作るのは《エデン》に与えられた社会奉仕ではなく、彼女たち自身のやりたいことなのだと察せられた。


 やがて研究所が見えてきた。研究所は白くなめらかな外壁で、卵型をしていた。周囲を清流が取り囲んでいて、湖の上に浮いている島のようにも見えた。研究所へは橋を渡って行くことが出来た。


 研究所の外側は何の装飾もなく、至ってシンプルで味気なくも感じるのだが、しかし一歩中に踏み入るとそのような印象は吹き飛んでしまう。研究所の一階はエントランスとして一般に誰にでも解放されていた。ドーム型をしていて、その中ではホログラフィック映像が入り乱れていた。


 右側を向けば最新の遺伝子操作技術を用いて栽培した、地中に埋まっている有害物質を除去する特性をもつ植物の生長過程がモデル映像化されて、その詳細を説明している。


 左側を向けば地球の温度の推移が記録されており、今後考えられるいくつかのパターンに習ってシミュレーション映像が表示されていた。そこでは海上で大嵐が起き、海が荒れ狂い、稲光が何度も激しくなっている。あるいは海中のプランクトンの増加を示し、これまでとは違った生態系の分布になるであろう予想を打ち立てる検証映像が映っていた。


 上を見上げれば、ビックバンによって宇宙が誕生してからの146億年の天体運動の光景を再現したホログラフィック映像が大迫力の展開を見せていた。無数の火山が火を噴いてやまない灼熱の惑星に、別の惑星が衝突し、砕け散り、破片の一部が僕の身体をすり抜けていった。破壊的な宇宙の脈動の再現はいつまでも続いた。


 外はシンプル、中は激しく情熱的。それが《セバステ研究所》という場所だった。エレベーターに乗り、目的の階を指定する。エレベーターは緩やかに上昇した。その間にエレベーター内に取り付けらた四つのカメラが搭乗人物の全身をスキャンし、《セバステ研究所》に登録されている人物データベースと照合を行う。照合が合えばエレベーターは問題なく稼働し、一致しなければ目的の階に到着することはなく、一階エントランスへと逆戻りとなるのだ。そのような設備がついているのは《セバステ研究所》には多くの研究成果が保管されていて、それらを守るためだった。が、それ以上に研究所所長のグレイプ・グウィンの趣味によるところが大きかった。というのもこのエレベーターのスキャンシステムは彼が所長になる以前は設けられてはいなかったもので、彼の「なんとなく格好いいからつけよう」という言葉で、本当についてしまったものだからだ。また、エントランスのホログラフィック映像もグレイプによる発案で「広大なスペースがあるのにただ人が出入りするだけでは何の面白みもない」という理由からだった。エレベーターのスキャンシステムは女性の研究員からは体形がバレるのではないかと不興を買ったが、エントランスのホログラフィック映像の案は研究員全員から大いに評判がよかった。グレイプは科学者として非常に優秀な人物で、僕は彼に師事をしていたのだが、時に突拍子もない――子ども的な発想で周囲を振り回すのが悪い癖だった。それで大いに迷惑を掛けられている人物もいるのだが、僕は彼のそんな童心を忘れていないところも魅力的に感じていた。エレベーターが止まり、ドアが開くとそこにはもう研究フロアが広がっていた。


 そこには大勢の研究員がいて、みなせっせと研究に没頭していた。彼らは僕とは違い、正式な、本物の研究員だった。そのうち、《エデン》から任命されて社会奉仕として研究活動を行っている人たちが半分ほどで、もう半分は僕と同じく科学者を志し、そして見事になって見せた人々だった。このフロアでは植物の遺伝子配列の組み換えによって全く新しい特性を持つ植物の開発や、いまだに実現していない植物との意思疎通の実験などを行っていた。そのため、至る所に鉢に植えられた植物があった。白衣を着て動き回る人たちの中に目的の女性がいた。薄紅色に髪を染めた彼女はアンテ・マーロウという名で、グレイプ・グウィンの助手を務めていた。


「やあ、おはようございます」僕が言った。


 アンテ・マーロウは読んでいた論文から顔を上げて僕のことを認めると、微笑した。「おはよう? それにしてはちょっと時間が遅いんじゃないかしら」


「確かに。それはそうですね。じゃあこんにちはか」


「そうね、こんにちはね」


「所長はいますか?」


「今、出かけてるのよ。動植物園の方に」彼女は言った。「待ってる? それとも追いかける?」


「待っていてもいいんですけどね。でもあっちにいるってことはなにかフィールドワークをやってるんですよね?」


「観察記録の更新よ」


「せっかくだから実地で学んでこようかな」僕は言った。「あ、でも所長が出て行ってからどれくらいたってます? 入れ違いとかになったら嫌だな」


「大丈夫よ。ほんの三十分くらい前に出かけたばかりだから。まだ当分戻ってこないわよ」


「それならよかった。じゃあ僕は行きますね」


「あ、ちょっと待って」アンテ・マーロウはそう言うと、自分の机からノートタブレットを取り出して手渡してきた。「これ、ついでにもっていってくれないかしら」


「これ、所長のやつですか?」


「そう。忘れて行ったみたいで」彼女はあきれて言った。「さっき《エデン》から研究依頼の分析結果を報告送ったんだけど、これじゃあ見れないものね。届けてくれる?」


「かまいませんよ」僕は言った。


「じゃあよろしく」


「はい」別れ際、僕はふと思い出して足を止めた。「そうだ、ダフニスが今度一緒に食事でも行きませんかって言っていましたよ」


「遠慮しておくわ」彼女は逡巡することもなく言った。あまりにもきっぱりとした物言いに思わず苦笑いを浮かべてしまう。「わたし、彼ってなんだか苦手なのよ」


「だと思ってました」僕は言った。


「彼だって、どうせ本気じゃないんでしょ?」


「どうでしょう」


「きっと本気じゃないわよ。とにかく、あなたからうまいこと言っておいてちょうだい」


「分かりました」僕は言った。

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