グレイプ・グウィン

 動植物園の正式名称は《セントラル動植物園》と言った。が、この辺では動植物園というだけで事足りるので、みんな《動植物園》とのみいうのだった。動植物園は広大な土地になっていて、動物たちがいるのは人が多く立ち入るわずかな(といっても十分に広いが)通り道に沿うように設けられた仕切りの中だった。そこはまるっきり動物園で、厚さが一センチはあるガラス窓越しに人々は、僕たち人間のことなどまるで意に返さない動物たちを見て回ることが出来た。


 動植物園の大半を占めているのは常緑樹林の森だった。緑が青々と茂るそこは、僕たちの街よりも大きかった。そのため、上空から見れば、森の中に街が切り開かれたようにも見えた。が、実際はまるっきり逆で、長い時間をかけて、僕たちの街が出来るのと同じように木々も成長していった結果だった。そのため、どの樹木も樹齢が百数十年と本来の樹林と比べると若いものばかりだった。


 動植物園の入り口ではライオンの展示を再開しましたというアナウンスが流れていた。僕たちが捕まえたライオンはここから逃げ出したのだ。最初こそ混乱をきたしただろうが今は問題なく稼働しているようだった。通路に沿って歩いていると、しばらくは右側に常緑樹林が広がり、左側にコアラやシマウマなどの動物たちを望むことが出来た。やがて分岐点がやって来て、一方は動物たちを見る人々が通り、もう一方は自然を求める人々が通るのだった。


 僕は動物たちに別れを告げて、森林の奥へと進んだ。途中で散歩をしていた老夫婦数名とすれ違った。彼らは僕を見ると朗らかに微笑んだ。背後から地面に咲いている花がどういった名前なのかという話声が聞こえてきた。僕は立ちどまって、老夫婦の下まで戻るとその花の名前を教えた。彼らは僕に感心していて、「花が好きなのかい」と訊ねた。僕は「動植物学者を目指しているんですよ」と答えた。彼らは頑張るように言った。僕はお辞儀をして、彼らと別れた。


 動植物園の森林エリアはとにかく広大で、通路は一応通っているのだが、たいていの人は少し歩けば満足し、備え付けられているベンチで一休みをして、持ってきたお弁当を広げて食べつつ自然の息吹を十分に実感したところで元来た道を引き返していくのだった。そのため、先に進めば進むほど、人の気配は少なくなった。もう誰ともすれ違わなくなったところで、僕は一つ目の目的地に着いた。そこはグレイプ・グウィンが植物の研究観察を行っているエリアで、研究のために植えられた植物が群生していた。が、そこにグレイプの姿は見当たらなかった。一本のナツメグを見やると、観察札がすでに今日のものに更新されていて、グレイプがすでに立ち去っているということが分かった。僕はすぐに次の観察エリアに向かった。


 それにしても、こうして偉大な植物に囲まれていると人間は何て小さく、はかない存在なのだろうかと思わずにはいられなくなる。植物こそ偉大な生命だと実感する。彼らは地球上に存在する生命の中で最も古い種族であり、彼らがいなければ人類はおろか、その他の動物も今地上にこうして繁栄はしていなかっただろう。植物に平伏し、敬意を表したくなる。また、植物こそ僕が知りうる中で最高の社会形態を持つ生物だった。僕はほんの子供だった頃に初めて植物の共生関係について知って、計り知れない感動を覚えた。それは今も僕の中に色褪せることなく根付いている。


 いくつかの岐路を過ぎた。通路は森の中に毛細血管のように張り巡らされていて、時折案内板があるのだが、それでも大方の人々は初見なら戸惑うことは間違いないと思われるほど複雑に入り組んでいた。また、分かれ道が出てきた。僕は迷うことなく一方へ足を向けた。が、反対側からにぎやかな話声が聞こえてきた。声から察するに子ども特有の騒がしさがあり、遊びに来た子供たちが騒いでいるのだろうと思ったのだが、その中に聞き覚えのある声が混じっていた。低く、穏やかな声音はグレイプのものだった。僕は道を変えて、反対の方向へと進んだ。この道の先は人工芝を引き詰められた、森の中にぽっかりと穴の開いたくつろぎスペースとなっていた。果たしてそこには目算二十名前後の初等部の子どもたちと子どもたちの前に立って話をするグレイプの姿がった。彼は僕たちよりもアジア地域の人々に特有の特徴を備えた顔つきをしていた。それは彼の母方の祖母がアジア地域にルーツを持っているためだった。彼自身、アジア地域には研究のために数回訪れた程度だったのだが、その遺伝子と歴史は確実に彼の中に息づいていた。


「博士。こんなところで何をやっていらっしゃるんですか?」


 僕が声を掛けると、彼は目を細めて歓迎した。


「やあ、みんな。ボクの教え子が来ましたよ」グレイプが子どもたちに言った。子どもたちの視線が僕に集まった。僕は子どもたちに手を振り返した。「今ね、彼らに特別講義をしていたところなんですよ」グレイプが言った。


「特別講義ですか?」僕が言った。グレイプは研究所にいる際の白衣姿ではなく、スリーピーススーツ姿で、今は暑いためかジャケットを脱いで汗で湿ったシャツの上にベストのみを羽織っていた。その格好は確かに大学部で講義を行っている風景を想像できるものだった(今、聴衆は子どもだったが)。


「ついさっき、たまたま彼に出会ってね」グレイプは子どもたちのわきに控えてる男性を示した。「ぜひ子どもたちに自然の偉大さを説明してあげてほしいと頼まれたんだよね」


「どうも。初等部で教師をしています。ファーディナンド・ブラウンと申します」


「ステファノ・ヤングです。よろしく」


「博士にはお忙しい中、お時間を割いていただいて」ファーディナンドが言った。「ですが、私もグウィン博士の有名は十分に存じ上げていまして、そこで無理を承知で講義をお願いできないかお頼みしたところ、快く引き受けてくださいまして」


「いやー。ボクとしても将来科学者になるかもしれない子たちにものを教えられるということは喜ばしいことですからね」


「なるほど。そういうことでしたか」僕は言った。「この授業には、僕も加えてもらっても?」


「もちろん! ぜひぜひ」


「ところで、博士はいったい何について講義をしていたんです?」


「うん。植物の共生関係についてだよ」グレイプが言った。「どこまで話したかな?」


「この森の植物がみんな助け合ってるって」一人の少年が言った。


「そうだったそうだった」グレイプは少年に礼を言って、講義を再開した。「この森に生えている植物たちはみんな、それぞれに助け合って生きている。そんなことが信じられるかい? 植物に人間のような意識があるのかな? みんなはどう思う?」


 子どもたちは尋ねられ、「あるわけないよ」とか、「あるかもしれない」とかそれぞれの考えを口々に言った。グレイプはその反応に満足したように深くうなずいていた。


「実のところ、今の科学では植物に意識があるのか、はっきりしたことは分かっていないのだけれどね。でも、無いとも言い切れない。なぜなら植物は地面の中に根を生やして生きているよね。地面から栄養分を吸収して生きている。一本の木から伸びた根は、菌糸という細い糸を通して隣の木の根とつながり合っているんだ。それが、この森に生えている木々や植物すべてに起こっている。そして、ここからが驚くべきことだけれど、例えば病気や何らかの影響で栄養不足に陥っている木があったら、菌糸を通して健康な別の木たちにそのことが伝わって、健康な木々は自分の栄養分を栄養不足になっている木に分け与えているんだ。これは、すでに科学的に証明されている事実だよ。もちろん、これらは自然界が長い進化の過程で培ってきた機械的なメカニズムの一つで、そこに植物たちの意識は一切ないのかもしれない。でも同時に意識がボクたち動物の絶対的なものだって言う確証だってどこにもないんだ。ボクたちの意識は脳の複雑な電気的ネットワークによって作られているものだけれど、脳が無い植物に同じことが出来ないとは限らないじゃないか。だって、植物はボクたちに聞こえない言葉で、菌糸を通して確かにお互いにコミュニケーションを取っているのだから。ボクたち科学者がまだ発見できていないだけで、植物にも意識に等しい感情を生み出している器官があったっておかしくはないとは思わないかい?」


「そうだったら素敵ですね!」と一人の少女が言った。


「じゃあ、いつか花壇のお花とかともおしゃべりできるようになるの?」別の女子が言った。


「なるかもしれないよ。むしろきみたちがそういう研究をしてみてもいいかも知れない」グレイプは僕を指さして言った。「実際、ここにいるステファノくんはその手の研究をしているんだ」


 それで子どもたち数人から僕にいくつかの質問が飛んできた。研究は面白いのかとか勉強は大変かとか。僕はそれぞれの質問に答えていった。研究は面白いけれど、研究をするための勉強は大変だと。でも、大変なこともまた面白いのだ、と。


「この植物たちの共生関係はね、実はボクたちの生活とも関りが深いんだよ」グレイプが言った。「何だと思う?」


 子どもたちはしばらく考えて分からないと言った。


「それはね、今きみたちやボクたちが生きている社会そのものなんだよ」グレイプは言った。「みんなはもう歴史の授業で資本主義ってやったかな?」


「昔の社会体制ですよね」少年が手を挙げて言った。


「そうです。じゃあ、どんな体制だったか説明できるかな」


「えっと……」少年は口ごもった。どうやらそこまでは覚えていなかったらしい。


 しかしグレイプは怒ったりすることもなく、優しく微笑んで少年の後を引き継いだ。「資本主義っているのは、まだ人々がお金を使っていた時代の体制でね。簡単に言ってしまえば、労働にはふさわしい対価――この場合はお金だね――が支払われるということだよ。お金は当時の社会では生きていくのに不可欠なものだったから、みんなたくさん労働して、たくさんお金を稼ごうとしたんだ。それは社会に物が少なく、人々が貧しかった当時の社会においてはとてもいい効果をもたらした。人々はほかの人よりも多くお金を得るために、たくさん労働して、その成果として人々の生活は豊かになり社会は発展してきたんだからね。でも、ある一定の所までは機能していた資本主義という体制も、次第に限界を迎えたんだ。例えばの話をしようか。例えば、この森にあるたった一本の木がこの土地のすべての栄養分を独り占めしてしまったら、ほかの木々は枯れてしまうよね。栄養を独り占めした一本は、短期的に見れば幸福かもしれないけれど、周りの木々が死んでしまえば、やがて自分にも悪影響が出てくることに気が付く。けれどその時にはすでに遅く、手遅れ。どうしようもない。資本主義も栄養を独り占めた一本の木と同じ末路を辿ったんだ。世界の半分の人々が幸福を享受し、もう半分の人々が幸福の犠牲になった。でもある時、人々はこれまでのやり方では満たされない何かがあることに気が付いたんだ。当時の人たちが気が付いたことについて、きっと君たちはもう知っていると思うよ。みんなはお腹が空いたらご飯を食べるよね。外にお出かけをしていたらレストランに入るかもしれない。例えば友達三人でレストランに入って、ハンバーグを食べようとしたら、材料の関係であと一つしか作れなかった。そんな時、みんなならどうする? どうしてもハンバーグじゃなきゃだめだったら」


「三人で分ける!」何人かの子どもたちの声が重なった。


「どうして? 一人で食べようとは思わない?」


「だって一人で食べちゃったらほかの人が食べられないでしょ? そんなんじゃ私だけ食べれてもうれしくないもん」


「そうだね。その通りだよ。そして、それが昔の人々がやっとの思いでたどり着いた答えだったんだよ。どんなに幸福を求めても、それがあくまで自分中心のものだったなら――誰か幸福でない人がいるのならそれは真の幸福ではないということに。そこで人々は考えました。そして、植物の共生関係をモデルにした社会を作ったのです。今日、みんなが食べてきたご飯は《エデン》によって需要と供給のバランスが管理されている食材で出来ているけれど、それは十分な食料があるにもかかわらず、一部の人が独占することを防ぐために昔の人が作った仕組みなんだね。誰もが必要な分だけを、時には分かち合いながら共有する社会。この仕組みはほら、さっき話した植物の栄養のやり取りに似ているだろう?」


 グレイプの話に僕は非常に納得した。彼はなおも続けた。


「人間は知能を発達させたけれど、それは自然界で起きていることを理解するためであって、人間がどれだけ賢くなったところで、自然界で起きていることしか人間は実現することが出来ないのだと、ボクは思っている。人間は自然界で無意識的に繰り広げられている物事を遠回りしながら自分たちなりに再発見をして、再現しようとしているだけなのだと。だからこれから多くのことを学んでいくきみたちには、何よりも自然や地球全体の物事に視野を広げなくてはいけないよ。人間が特別な存在であるなどと言う考えは傲慢だ。自然界と自然界の法則に頭を垂れ、教えを乞うことこそ、大切なことなのだと心の片隅にとどめておいてほしい」


 グレイプはそう言って講義を締めくくった。ファーディナンドが拍手をすると、子どもたちもそれに続いた。グレイプはファーディナンドと別れの挨拶をした。僕たちは子どもたちに手を振って別れた。


「素晴らしい講義でした」僕は言った。「あの子たちもきっといい経験になったと思います」


「そうだといいけれどね」グレイプは答えた。


「ところで博士。今日はもうすべての観察記録は取り終えたんですか?」


「いいや。まだ少し残っているんだ。手伝ってくれるかい?」


「もちろんです」僕は言った。「あと、博士。これをアンテさんから預かって来たんですよ」アンテ・マーロウから預けられたタブレットを手渡す。「《エデン》から依頼されていた研究結果の報告らしいですよ」


「ありがとう」グレイプはタブレットを受け取ると、すぐに画面を起動させて分析結果を読み始めた。


《エデン》からの研究依頼がどういうものなのか、僕は知らなかった。というのも僕はまだ正式な研究所の研究員ではないからだった。研究所には《エデン》から任命されて着任している研究者と自ら科学者の道を志して研究所に入っている人たちがいるが、自ら望んで研究所に入るためには研究所に自身の研究テーマについてまとめた論文を提出し、一定の評価を得なければならなかった。が、僕はまだ論文をまとめている最中で提出していなかったのだ。ゆえに僕が博士の下について直々に指導してもらえるのはひとえに彼の親切心のおかげなのだ。


「論文の方はどうだい? 順調に進んでいるかな」グレイプが言った。


「ぼちぼちですね。実は最近まで少し詰まっていたんですが、今はもう問題も解決しましたし」


「それは何より。困ったことや疑問があったらいつでも質問しに来てくれて構わないのだからね」


「はい。そのときはよろしくお願いします」僕はそこであることを思い出した。「あっ、それで今度仮説の検証のためにちょっとした実験を行いたいんです。研究室にある実験機材をお借りしてもいいですか?」


「もちろん構いませんとも。そういった管理はアンテくんがやってくれていますから、彼女に話しておいてください」


「はい」


 次の観察研究エリアにもう間もなく到着すると言うところでグレイプは立ち止った。彼は厳しい表情でタブレットに視線を落としていた。ややあって「申し訳ありませんが、観察記録の記入は気味に頼んでしまっても大丈夫ですか?」と言った。


「ええ、かまいませんけど」僕は答えた。


「どうにもボクはこれのことで早急に研究所に戻らなければならない用事が出来てしまったようなのでね。よろしく頼みましたよ。いつものようにやっていてくれればいいですからね」


「分かっています」僕は言った。

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