異変

 そのエリアの観察記録は正確さこそ求められるものの、至って簡単な作業だった。エリアにある樹木には動植物園が管理しているものの中に混じって、研究所が管理している樹木があって、その樹木はそのほかの樹木とは違い、遺伝子操作された樹木になっていた。ここで行っている研究は周囲の植物とより積極的に関係性を持ち、その上で成長を促進させる効果を持つ植物の開発で、僕は観察対象の植物をすべて目で見て過去の記録から植物がどの程度成長をしているのかを見比べた。それで過去の成長比率と現在の成長比率に差があり、なおかつ観測エリア以外の植物との間に成長の差が見られれば、遺伝子操作を行った樹木が植物の成長を促進したという根拠が得られるかも知れなかった。


 が、そこで僕は奇妙な点に気が付いた。観測エリアの植物の成長比率は過去の記録よりも早く成長が進んでいるという結果が得られたのだが、観測エリア以外の植物の生長具合も同様に早くなっていたのだ。これはおかしなことになったな、と僕は思った。遺伝子操作を行った樹木の影響範囲は現時点でせいぜい半径二メートルが限度であり、観測エリアもその範囲に設定されていたためだ。その範囲を超えて植物の成長速度に変化が表れたとなると、遺伝子操作を行った樹木以外の要因が考えられたのだが、記録表にある気温や天候などの要素はすべて過去の記録と大差はなく、何が植物の成長に影響を与えているのかは分からなかった。


 僕は観測方法に間違いがあったのかと思い、改めて――今度はもう一度観測方法の手順をおさらいして――観測を行ってみることにした。が、やはり結果は同じだった。何度観測をやり直しても、植物の成長比率を示す数値は同じメモリを表した。それで僕はすっかり頭を抱えてしまった。これではせっかくの実験も意味をなくしてしまう恐れがあった。先ほどの子どもたちの話ではないが、このような時、植物と会話をすることが出来れば何が原因なのかすぐに突き止められるに、と思ってしまうのはさすがに夢見勝ちが過ぎるというものか。しかしもしかしたらいずれは植物と会話をする固有超能力を持つ人物が現れるかも知れないし、その前に科学が実現してしまうかもしれない。


 近くにあった松の木の表面を撫でてみる。こうすれば何か植物と通じ合う何かがあるかもしれないと思ったのだ。が、結局は少し湿った樹皮の感触が掌に残っただけだった。いずれにしろ、観測記録を行うという僕の仕事はこれで終わったわけだった。あとは研究所に戻り、この不可解な結果についてグレイプと頭を悩ませればいいだけなのだが、僕はもう少しだけ自然の中に身を置いておきたかった。


 朽ちて倒れた、苔むした倒木に腰を下ろし、瞼を閉じた。心に静寂がやってくるのと、頬を撫でるそよ風と風に揺れこすれ合う葉の音だけを感じていた。今やそれだけが僕の世界のすべてとなっていたのだ。ああ、なんと素晴らしいことか! この感覚を誰かと共有することが出来ないことがつらかった。


 しばらくして誰かがこの静寂の領域に踏み込んでくるのが土を踏む音と気配で分かった。その誰かは、僕の背後まで素早くやってくると、両手で僕の瞼をふさいできた。


「だ~れだ?」と少し弾んだ声音が耳朶を打った。声を聞いた瞬間に、考えるまでもなく誰なのか分かり切っていた。こんなお遊びをする人物について、僕は心当たりを一つしか持ち合わせていなかった。


「やあ、アリエス」僕は言った。添えられていた掌がどけられた。目を開けてみると、僕の正面に回り込んだアリエスがはにかんで立っていた。「よく僕がここにいるってわかったね」


「ちょっとね、監視カメラの映像をのぞかせてもらったの」アリエルは指先で僕の背後、通路に一本立っている案内板の柱を指さした。矢印で簡略な経路が描かれた看板の下には監視カメラが確かにあった。あの手の監視カメラは動植物園はおろか、街中に設置されていた。それで街に何か異常が起きたら《エデン》の指揮所ですぐに事態の把握を行えるのだった。


「それは職権乱用なんじゃない? 大丈夫?」


「大丈夫よこれくらい。それに、スティーヴならここにいるだろうって思ってたからすぐに見つけられたしね」


「ああ、まあそれもそうなんだけどさ」僕は言った。「ここに来るまでの間にレイさんには怒られなかったのかなって」


「そこは抜かりないわ。ちゃんとレイが油断したスキに抜け出してきたから!」アリエルは胸を張って言った。それで僕は苦笑した。


「仕事はどう? 順調かい?」


「まあまあね」彼女は僕の横に腰を下ろした。スカートをはいていて、裾が皴にならないように気を付けて座る仕草は女性的で色っぽかった。「でももっとスティーヴと会える時間が増えたら言うことないんだけどなぁ」


「プライベートな時間には毎日一緒にいるし、きみはたまにこうして仕事を抜け出してくるじゃない。これじゃ足りない?」


「全然足りないわよ。私はもっとあなたと一緒にいたいの」アリエルは言った。《エデン》の総長の仕事は僕たちの一般的な仕事の時間よりも非常に長い時間――それは仕事と生活の境目が無くなるに等しい時間だ――を働かなければならなかった。それは僕たちの街全体を管理している重要な仕事であるからに他ならなかった。僕などはそのような仕事に就くことなど想像もできないが、彼女は《エデン》の仕事を苦とは思っておらず、むしろ充足感を感じていると言っていた。が、それでも時には自由な時間が欲しくて僕の所に仕事をさぼりに(彼女に言わせれば息抜き、だ)来るのだった。


「そういってくれるのは男冥利に尽きるけどね」


「スティーヴは私と一緒にいるのは迷惑?」


「そんなことないよ。あるわけがない」


「本当に?」


「本当だよ」僕は言って、彼女の頭を抱き寄せると優しく撫でつけてやった。アリエルの髪は今は下ろされていて、きれいな流れを作っていた。撫でていて心地がよかった。先ほどまでとはまた別種の心地よさが僕の心に広がっていった。「そういえば」と僕は言った。「さっきは聞き忘れてしまったんだけれど、例のライオンはいったいどうやって逃げ出したんだい?」


「檻を破ったのよ」

「でも、ここの檻って特殊な強化ガラスだろ? ライオンがいくら暴れたとしても破ることなんてできるのかい?」


「そこはまだ調査中なの。ガラスに欠陥があったのか、それとも別の要因なのか――ってせっかく二人きりになれたのにそんな話はよしましょうよ」アリエルははっとして言った。それで僕の手を取って立ち上がった。「そうよ、デートに行きましょう。それがいいわ。せっかく二人きりになれたんだもの。めいっぱい楽しみましょうよ」


「ここでこうしているだけでも十分デートだと思うけど?」


「それも悪くない案だけど、でも今は街に行ってみたい気分なの。だめ?」


「まさか。だめじゃないよ。きみが行きたいところにならどこへでもお供します。お姫様」僕は立ち上がると、大仰に、演劇で騎士がお姫様に礼をするようにお辞儀をした。それを見てアリエルは笑みを浮かべるとそっと手を差し出した。


「それじゃあエスコートをお願いします。騎士様」


「よろこんで」


 僕たちは互いに笑いあった。しっかりと手をつないで街へと向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る