楽園
金魚姫
カルペ・ディエム
第一章 月は消え、世界は滅び、長い冬がやってくる。
世界の終わりの日
一歩を踏み出すたびに、地面に下りた霜がパキリ、と小さく音を立ててひび割れる。口から吐き出される息はとても白い。2030年七月の中ごろのことだった。それというのも空に舞い上がった分厚い砂ぼこりが太陽光をほとんど遮ってしまい、地上に届かないせいだった。太陽光が届かなくなって久しい街では、街路樹も光合成をすることが出来ず、緑の葉のほとんどを枯らせてしまって生彩は見る影もなかった。土の上には空から絶えず降り注いでいる白っぽい砂塵が降り積もっていて、一見すれば雪のように見えないこともない。事情を知らない人がこの光景を見たのなら、冬の街かと思うかもしれない。が、まぎれもなく今は夏だった。
始まりはいつだったのか、ぼくには分からない。多くの人が問題を発見した瞬間が始まりなのかもしれないし、あるいはずっと前から問題は始まっていたのかもしれない。ただ、その問題が秘密裏に進行していて、誰も気が付かなかっただけで。いずれにしても、確かなことはある晩、多くの人――それは夏の海のビーチで恋人と愛をささやき交わすカップルであったり、家族とともにキャンプ場へバカンスに訪れていた家族であったり、仕事に勤しむビジネスマンであったり――が頭上に輝く満月が五つに分裂し、大小無数の破片へと変貌する光景を目の当たりにしたということだ。その瞬間に事は激流のように、目まぐるしく動き始めた。きっと誰であっても、即座に何が起きているのかを理解し、何らかの対応策を打ち立てることなどできなかったに違いない。世界に数多くいる一流の科学者の誰一人にも気取られることなく月は突如として崩壊せしめたのだ。まもなくして崩壊した五つのブロックと大小無数の破片は地球の引力に引っ張られ、落下を始めた。見ていたテレビ番組も臨時ニュースに切り替わってこの有史以来の非常事態を報道していたが、誰も明確な情報など伝えられるべくもなく、ただキャスターの女性が取り乱したように、モニター越しに起こっている現実を実況するだけだった。その時、ぼくは確かに世界が壊れてゆく音を耳にした。これまでのあらゆる価値観が揺らぎ、これまで連綿と続いてきた人類の歴史が壊れてゆく音だ。月が大気圏に突入すると、世界が震えるような轟音が世界中に響き渡り、夜空を赤々と燃える幾筋もの火の玉が横切っていくのが見えた。当然、すべての月の破片が地球に降り注いだわけではない。いくつかは互いにぶつかり合い、軌道を変えて地球の横を通り過ぎて行った。が、それでも無数の月だったものが隕石となって人々を襲った。五つのブロックのうちの一つも地球に衝突した。空中で分裂こそしたが、衝撃波はすさまじく、数多の家々が吹き飛ばされた。家で食事の支度をしていた母さんと父さんがぼくの下に駆けつけてきて、きつく抱きしめた。何が起きたのか理解は出来なくとも、もう間もなく自分が死ぬのだということは本能で分かった。が、今から自分が死ぬということも、その原因がこんなハリウッド映画のようなものであるということもまるっきり現実味が無く、恐怖はこれっぽっちも湧かなかった。ただ、両親の腕にきつく抱きしめられる中で、これまでの十八年間の感謝を口にした。次の瞬間、爆風と熱波がぼくら家族を襲った。
幸運なことにぼくはこの未曽有の大災害をわずかな怪我(全身いたるところの火傷とあばらや腕の骨の骨折)を負うことで生き延びた。が、両親はぼくを庇ったが為にひどい致命傷を負い、成す術もなく命を落としてしまった。当時のぼくは一種の錯乱状態に陥っていて、自分が生き残ったということすらも正確には理解していなかった。火傷や骨折が痛んだはずだが、アドレナリンのおかげか、それとも神経が麻痺してしまっていたのか、痛みを感じることもなく、瓦礫を乗り越え家の外へと這い出た。そこで見たのはぼくが知っている街ではなかった。学校の授業で何度も習った原子爆弾が投下された直後の長崎や広島のように、何もかもがなくなって、まさしく焼け野原だった。大量に巻き上げられた土砂が空を覆い、その時から人類は太陽を失った。
人類の人口のいったいどのくらいの数の人々が死んでしまったのか、正確な統計など取りようもない。世界の国は壊滅してしまったのだから。だが、人類が数百万年という歴史の中で久方ぶりの大量絶滅の危機に直面したことは疑いようもないことだった。
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