終末の出逢い

 世界はしばらくの間混乱の極致にあった。自らの進むべき道を指示してくれる指導者を失い――どころかこれまでの経験の一切があてにならず、右も左もわからない状態で――生き残った人々はどのように生き抜くのか選択を迫られたのだ。大切な恋人や家族、思い描いていた理想の未来を奪われた人々は絶望のあまり自ら命を絶つことも珍しくはなかった。


 一方で逞しく生きて行こうとあがく連中もいた。そういう連中は寄り集まって小さな小集団を形成し始めた。一人でいるよりも、集団で知恵を出し合い、助け合った方が生き延びる確率は高まるだろうと考えてのことだった。だが、あまりに集団が大きくなりすぎても統制が取れなくなる。そのためいくつも小さな集団(それは大体千から二千人程度の規模だ)が形成された。あたかも人類は狩猟採集民だった数千年前まで逆戻りをしてしまったような、そんな気すらした。人々が集まり、生活をしている場所はいつしかキャンプと呼ばれるようになった。が、キャンプが出来たとしても、そしてキャンプに属していたとしても新たな世界で生き残ることは容易なことではなかった。これまで当たり前にあった電力網は寸断され――そもそも発電所を動かせるほどの人員が生き残ってはいなかった――そして空を覆う土砂煙のため、作物が死に、食料の確保が最大の問題となったのだ。月の衝突を生き延びた人々は、今度は飢えによって死んでいった。


 少し街を歩けば、餓死者の死体がそこら中に転がっている光景は、最初こそ異様なものであったが、数週間後には誰も死体には気を払うことがなくなり、新たに死体があったとしても心を動かすことはなくなった。ただ、感染病の蔓延を防ぐために極めて事務的に火葬が行われるのみだった。建物内で餓死している者もいる。彼らはキャンプから食料を探しにやって来て、廃墟となった建物の中を物色していたのだ。そして見つけることが出来ずにそのまま力尽きた。そういった死体がある建物の中にはめぼしい食料がない可能性が高く、ほかのキャンプからやって来た人間は、そこ以外の場所から食料を探すことが一般的だった。


 ぼくが食料を探そうと足を生み入れた廃墟でも、瓦礫に覆いかぶさるようにして一人の男が息絶えていた。壊れた天井を突き破って立っている看板はかろうじてかつてコンビニに掛かっていたものだと分かった。が、廃墟の中を見回した限りそこはコンビニなどではなさそうだった。看板は何処からか千切れ飛んできたのだ。男は、コンビニの看板を発見し、一抹の期待を胸にわずかな力でここにやってきたのだろう。そして力尽きた。ここで死に絶えている男は、未来のいずれかの地点でのぼくの姿かもしれない。平和な世界はとうに崩れ去った。この世界ではだれもが目の前の男のような末路をたどる可能性があるのだ。そうなりたくなければ食料を探すしかない。今日を生き抜くための食料だ。


 死体があった廃墟の隣の建物(といっても天井どころか壁も崩れ落ちている瓦礫の山だが)を調べると、すぐに瓦礫の下からつぶれた缶詰を発見した。ひしゃげて、蓋は歪んで少し亀裂も空いてしまっているが、それでも中身は入っていて食べることが出来る程度には腐っていなかった。ほんの小さな差なのだ。あとほんの少しだけ幸運で、コンビニの看板に目が留まらず、隣の瓦礫の山を探っていれば男は餓死をすることなく、その日一日を乗り越えることが出来たのかもしれない。そんなことを考えることに意味がないことは分かっている。なぜなら男のような人間は、そこら中にあふれていて、考えるのもばかばかしくなるからだ。


 その日、ぼくはいくつかの廃屋と瓦礫の山々を巡った。時折、かつて店だったと思しき建物の残骸を見つけて、瓦礫をひっくり返したり、小さな隙間に腕を突っ込んで中をまさぐってみたりしたのだが、結局のところそういう食料がありそうな場所というのはすでに誰かに探られた後であることが多く、食料は一つも残っていなかった。瓦礫を持ち上げ、土を掘り返す手は傷だらけで、寒さのせいで指先が赤くなっていた。


 どんよりとした空がさらに暗くなり始めたころにぼくは食料探しを切り上げた。成果は缶詰が二つと、穴が開いて量が半分になった小麦粉が一つだった。小麦粉を手に入れることが出来たことは大きな収穫だった。缶詰を十個見つけてくるよりも小麦粉を一袋見つけてきた者の方がキャンプでは称賛されるのだ。これを持って帰ればキャンプは大騒ぎだぞ、とぼくは思ったが、すぐにキャンプに帰ることはしなかった。辺りを見回し、建物の基礎がしっかりしていて、きちんと建築物として判別がつく程度に体裁を整えている建物がないか探す。見つけたのは一つのビルだった。正確にはビルだったもの、だが。


 かつては五、六階はあったのだろうが、上半分は吹き飛んでいて辺りには見当たらない。上半身をもぎ取られたビルは、三階までを残していた。中をのぞく。一回は瓦礫で埋まっていたが、それを乗り越えて二階へ上がると、熱波で半ばまで解けたコンクリートの床が、改めて冷えて固まり、光沢を放つ渦だか波だかのように見える奇妙な模様を刻んでいた。人がいないことを確認すると、食料を詰めたリュックサックを地面に放り出す。もう間もなく日が暮れ始めようとしている。キャンプから食料を探しに出ていた連中も住処に帰る時間で、この廃墟にやってくることもなかった。穴の開いた壁から外を見ると、荒涼とした街並みを見渡すことが出来た。


 着込んでいた防寒用のコートを脱ぎ捨てると、覆いかぶさって息を詰めてくるような寒さが身を襲った。大きく一度身震いをした。肺が寒さに馴染むの待って、ゆっくりと深呼吸をする。その場で十分に屈伸を行う。そして足首と手首を回し、こわばった関節と筋肉に柔軟性と取り戻させ、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねてみる。身体が十分に温まり、動けると判断できるまで待つ。そして次の瞬間――ぼくは大きく両手を広げ、壁に空いた穴から中空に身を投げ出した。一瞬身体が浮遊感に包まれる。が、その感覚は長くは続かなかった。すぐに重力につかまり、地面へと落下を始める。僕はすかさず腕を伸ばし、先ほどまで自分が立っていた床に五指をしっかりと引っ掛ける。壁に靴底を押し当て、落下する身体を支える。スパイダーマンのように壁に入りついた格好から、腕に力を入れ、身体を勢いよく引き上げる。身体は思ったよりも軽く上がった。それで今日の調子がいいことが分かった。そのまま三階の外壁に指をかけ、駆けるようによじ登った。


 三階の、オープンデッキのように空に開けているフロアに足を、上半分をえぐられ、割れたガラス瓶のように凸凹としている壁の上に立つ。壁は一面しかなく、支えとなるものは何もついていないのでひどく不安定に思えたのだが、存外、人一人が上に立ってもグラグラと揺れることもなければ、壁の一部が剥がれ落ちることもなく、素晴らしい安定感を誇っていた。


 壁の厚さは十五センチもなかった。その上で足を踏みかえる。辺りを見回すと、先ほどよりもさらに視点が高くなり、一段と遠くまで見渡すことが出来た。やはり周囲に人の姿は見えない。瓦礫と砂だらけの街を見回して、自分がどこでどのように街を走り抜けるのかを思い描く。一瞬、先ほど男の死体を見かけた建物が視界の隅に映った。頭の片隅、心の片隅にしこりのような邪魔くさい違和感が生じる。被りを一つ。それで頭と心を重くする鉛が落っこちるわけでもない。だから冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、それから力の限りに、腹の底から声とも知れない叫びをあげる。身の内にある気持ちの悪いものをすべて吐き出す光景をイメージし、息の続く限りに叫び続ける。溜まっていた空気が抜け、肺がしぼむと息が苦しくなった。が、それでも最後の一息まで絞り出すように叫びをあげ続ける。苦しさに背中が丸まっていった。


 いよいよ息が続かなくなり、叫びが途切れる。同時に新鮮な空気を吸い込み、顔を振り上げた。前を向き、走り出す。壁の縁は長くは続かず、すぐに先が途切れた。が、かまわずに加速を続ける。そして今度こそ何もない中空に飛び出した。視線は事前に思い描いていた着地点を見続けている。そして身体は寸分のずれもなくそこに到達した。三階の高さからの跳躍の衝撃を五点着地で吸収する。地面を転がるが、勢いを殺すことなくすぐさま立ち上がると、イメージしたコースを脳内で思い描き駆けだす。瓦礫の山を飛び越え、背丈以上もある障害物を、足を一、二歩引っ掛けるだけで軽々と乗り越えた。走る力は全力疾走だが、呼吸は乱れず、規則正しいリズムを繰り返した。


 考えることはこれから先のコースのこととどれだけパルクールとして美しく技を決めることが出来ているかだけだった。その二つだけに意識を集中し、事実コースの半分を超えたころには、ぼくの頭の中からそれ以外の考え事はすっかり消えてなくなってしまっていた。ぼくはあえてより一層危険で、ほんの些細なミスを許されないようなコースを選び続けた。それは死を身近に感じるためだった。たった一つのミスで取り返しのつかない大怪我や悪くすれば死んでしまうかもしれない可能性の中に身を置くことで、身体を動かす筋肉に一つ一つ、細胞の躍動まで感じられる気がした。そういう感覚に浸っていることで、ぼくは世界に蔓延っている死を忘れることが出来るのだった。


 コースを一周し、最初にスタートした上半身をもぎ取られた廃墟まで戻ってくる。普通に一階から入るのではなく、外壁を駆けるように登り、二階へと飛び込んだ。立ち止まると汗腺が限界まで開いたように汗がとめどなくあふれて出てきた。腕を見ると気化した汗が湯気だっていた。乱れた呼吸と整えなおし、リュックサックの中から水筒を取り出す。自分の水筒はあの日、月が落ちて来た日に家とともにどこかへ吹き飛ばされてしまったので、これは廃墟の街で適当に拾ったものだった。元の色がどんなだったのかもわからないほどに塗装がはげ落ち、アルミの武骨な輝きだけを鈍く放っている。それでも何の問題もなく水を入れて持ち運べるのだから機能としては十分だった。外気が高くないので、水は氷が無くとも十分に冷たかった。ひんやりとした水が喉を通過し、ほてった身体を冷やしてくれた。


 すると、突然背後からパチパチと拍手が聞こえた。驚いて音の方を振り返ると、瓦礫の上に腰かけた一人の女性――目算でぼくと同年代だろう――が感心したように手をたたいていた。「見事なものね」と彼女は言った。


「驚いたな。てっきり誰もいないものだと思っていたんだがな」ぼくは言った。それから周囲へと視線を配り、彼女以外に人影が見えないことを確認した。水筒をリュックサックに戻しつつ食料が奪われていないかどうか中身を確認したのだが、集めた缶詰と小麦粉は無事にそのままだった。「もしかして、ずっと見ていたのか?」


「ええ。確かパルクールっていうのよね」


「へえ。知ってるんだ」後ろ越しに挿したサバイバルナイフの柄に手を掛けた。彼女が怪しい動きをすれば、素早く抜くことが出来るだろう。


「昔動画で見たことがあるもの」彼女が笑った。「ねえ、どうしてパルクールをやっているの?」


「気分転換さ」ぼくは答えた。


「気分転換?」


「そう。ぼくはほら、キャンプでは食料集めが役割だからさ。こうして街に出るわけだけど、こんな街を見ていると気が滅入って来て、たまに全力で走り回りたくなるんだよ。あんたもそういうことってないか? わずらわしいものをすべて置き去りにして駆けだしたくなるときっていうのが」


「さあ、どうかしら。わからないわね。でも少なくともそんな風に駆けだしたことはないわよ」彼女は深く考えるそぶりもなく微笑して言った。


 まあ、それもぼくにとってはどうでもいいことだった。それよもぼくも彼女に訊きたいことがあった。「ぼくが突然走り出したくなる理由なんて言うのはどうでもいいんだよ。それよりも、あんたは何でこんなところに?」


「あなたがこの廃墟に入っていくのが見えたからよ」彼女は答えた。「きょろきょろと周りを見回していたから何をする気なのかと興味がわいて」


「つまりつけて来たのか」


「そういう言われ方をするとなんだか悪いことをしてるみたいに聞こえるわね。見物していたとでも言ってよ」彼女はおどけるように言った。短く切りそろえられた髪が左右に揺れた。


「でもそうか。ならあんたも食料集めの途中ってことだな。でもあんたの顔は見たことがないから別のキャンプだよな? この辺にぼくたち以外のキャンプってあったかな?」脳内にこのあたりの地図を展開してみる。もう食料集めも切り上げて撤収する時間帯に、この辺をうろついている人間がいそうなキャンプを思い出してみるも、思い当たる節はなかった。


「わたし、キャンプには所属してないわよ」彼女が言った。


 ぼくは驚いた。この時世に、それも女一人で廃墟の街を彷徨い歩くなんていうのは自殺行為だからだ。何しろ、キャンプであれば自分が食料を見つけられなくともほかの連中が見つけてきた者の分け前を受けることが出来るが、一人では食料を見つけられなければその日は何にも食べることが出来ないのだ。それが数日、数週間と続いたら飢死してしまう。が、彼女はそんなことは問題ではないようにけろっとしていた。


「良く今まで死なずに生きてこれたもんだな」


「わたしね。人探しをしているのよ」彼女は言った。「だからいろいろなキャンプを渡り歩いているの」


「人探し? 恋人かなんか?」彼女はずいぶんと整った顔立ちをしていて、世界が壊れてしまう前ならさぞかしモテていたことだろう。彼氏もいたに違いない。「たまにあんたみたいな人がキャンプにやってくるよ。行方不明の旦那や恋人を探している連中がね。でも探し人に会えるのなんてほんのひと握り、本当に幸運なときだけで、大抵はもうどこかで野垂れ死んでいるんだ。死体を見つけられる可能性だって、どれくらいあるのか。生きているのか死んでいるのかを別にしたって、探し人に会える確率なんて高くない」ぼくはリュックサックを肩掛けで背負った。「そんなことに命を懸けるくらいなら、ちゃんとその日を生きたほうがいいと思うけどね」


 話はこれで終わりだった。最後にささやかなアドバイスをして、ぼくは階段を下りて廃ビルを出た。すると彼女も後をついてきた。


「別に、探しているのは恋人なんかじゃないわよ」彼女は言った。


「なんでついてくるんだ?」


「わたし、今まで恋人っていたことがないもの」


「その理由はなんとなくわかる気がするな」


「本当? なら言ってみてよ」


「だってあんた、変だぜ」


「変? どこが?」


「だって周りを見てみろよ。今まで生きてきた世界は壊れてなくなって、法律なんてものもなくて、はっきり言ってしまえば何でもありの世の中だよ。どこかで人殺しがあったとしても、誰も犯人をさばけない。みんな今を生きるのに必死だからな。それなのに、あんたは見ず知らずのぼくに声をかけてきた。無警戒に。変だよ」


「そう? でもパパとママはわたしのこの性格を美徳だと言ってくれたわよ」彼女は誇らしげに言った。「誰とでも仲良くなれる、特別な才能だって」


「無警戒にだれかれ構わず近づいて、えげつなく距離を詰めてくるのは美徳っていうより悪徳だと思うけど」


「だれかれ構わず近づいてなんてしてないわよ。ちゃんと人は選んでるもの」彼女は言った。「それに、変っていうならあなたもそうじゃない? 突然街中で走り出すんだもの」


「だから、あれは気分転換だよ。それに、人に見られているとは思わなかったんだ。他人がいるって気が付いていたら、ぼくだってあんな真似はしないよ」ぼくは立ち止った。彼女はずっと後をついてきていて、離れる気配はなかった。「それはそうと、いつまでこうしてついてくる気だ?」


「キャンプまでよ」彼女は言った。「言ったでしょ? キャンプを渡り歩いているって。今度はあなたところのキャンプにお邪魔する予定なの」


「予定って。渡り歩いてるっていうんだったら当然知ってると思うけど、どこのキャンプだって余分な食料はこれっぽっちもないんだぜ。そう簡単に入れてもらえると思ってるのか?」


「難しいことくらい知ってるわよ。わたしだって、今まで何度も断られたことあるし」


「なら」


「でも受け入れてくれたところもあるわ」彼女は言った。その口ぶりから、もはやそれが彼女の日常になっているのだということが知れた。「だから何とかなるわよ」


「相当な楽天家だな。あんた」


「そう? でも心配したってどうにもならないものよ。それよりも気楽に構えていた方が、案外ことはうまく運ぶものよ。現に今日だって、キャンプの場所が分からなくて彷徨っていたらあなたを見つけたわけだしね」


「つまりあんたはぼくをナビ代わりにするために声を掛けたってわけだな?」


「理由の一つね。もう長いこと誰とも口をきいていなかったから、適当におしゃべりをしたかったっていうのもあるわ。気に障ったかしら? そんな理由で」


「いいや。動機がはっきりしてくれているほうが安心する」


「わたし、暁昴よ。よろしく」彼女はそう言って握手を求めた。ぼくは彼女の手を握った。細く、冷たく、小さい手だった。


「天野宙太だ。キャンプに入れるかどうか保証はしないからな」

「それで結構よ」昴はにかっと笑った。


 ぼくたちは再び歩き出した。

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