第9話 斑鳩 下
「陛下でなければ、蘇我のおじは、止められない」
山背大兄王は静かに口を開いた。
もちろん、そんな話を聞かせたところで、鎌足に何の力もないことはわかっているだろう。いや、むしろ、だからこそ、話せるのかもしれない。
「
鎌足は、慎重に口を開く。
「おそらく、この先、私が立とうと、田村皇子が立とうとも、問題は起きよう」
山背大兄王は悲しげに目を伏せた。争いごとは好まないたちなのであろう。それは田村皇子も同じことだ。双方が望んでいないにしろ、争いはおこる。権力の争いというのは、そういうものなのかもしれない。
「良きにせよ、悪しきにせよ。蘇我は、蘇我馬子という巨星を失った。道しるべを示すものを失ってしまった」
山背大兄王は、ぶるりと身体を震わせた。
「道しるべ、ですか?」
「ああ」
山背大兄王は頷く。
「たとえ、天皇を殺そうとも、それが国のためだと思わせる何かが、祖父にはあった。事実、誰よりも国の行く末を憂いていた」
山背大兄王の言いたいことは、鎌足にもわかる。死の間際に出会った生霊の馬子は、『国家安寧』を大事としていると言っていた。その言葉に嘘や誇張はみじんもなく、事実その通りであったのだろう。
「私は、それほど馬子さまのことは存じません。ですが、非常に怖くて、それでいて嫌いになれぬ不思議なお方だったように思います」
「そうだな。怖いお人であった」
山背大兄王は頷いた。
「だが、おじは、ある意味で、祖父より怖い。おじには、全てを従わせるだけの力がある。だが、人を納得させるだけのものがない。それは、たぶん、おじの描く未来が、我らに伝わってこないからだ」
「未来、ですか?」
鎌足には、まだ政治のことはよくわからない。だが、人を従わせるには、導きたいモノが見えていた方が良い、というのは、なんとなくわかる。
「生意気を申し上げますけれど、未来は大臣ではなく、陛下がお示しになるものではないのでしょうか?」
それができることこそ、即位の決め手になるように、鎌足には思える。
「そうだな。その通りではある」
山背大兄王は肩をすくめた。
「もちろん、私にも理想はある。だが、その理想は、どうやらおじの意に染まぬものなのだ」
蝦夷が蘇我の一族の皇子である山背大兄王を推さぬのは、そこらしい。
「どのような?」
「そもそも、神祇官のそなたには、相容れぬ理想かもしれぬが」
山背大兄王は苦笑する。
「仏法を基本とする政であれば、大臣も同意なされるのでは?」
鎌足は思わず首を傾げる。蝦夷もまた、仏法を積極的に信奉しているはずだ。神祇官に納得いかないことでも、仏を奉じているなら、多少の違いは問題ないのではなかろうか。
「おじは、仏法の『教え』を国の礎にしたいわけではない。仏法が我が国にもたらすものを欲しているだけだ」
「仏法がもたらすもの?」
鎌足は、仏法について学んだことがないから、山背大兄王が言おうとしていることが、理解できない。
山背大兄王は、ふむ、と頷いた。
「おじは、仏法を学びたいのではなく、異国の技術や学問、制度を手にしたいのだ。率先して、僧たちを呼び、話を聞くのも、『教え』を乞いたいわけではなく、ただ僧たちを通じて異国の情勢を知りたいだけ」
「異国の情勢……」
それは、鎌足が考えたこともない視点だった。
確かに、寺院の建築は、この国にはない優れたものだ。それ以外にも医術や、美術、占術、政の法制度などの最新のものが、仏法とともに、この国にもたらされている。そして、この国より優れた国々についても知ることは、必要な知識であり、欲して当然、と思う。
「もちろん、それが間違っているわけではない。ただ、仏法の『教え』を理解せずにやみくもに寺を建てても、国の安定にはつながらない」
「それは、そうかもしれませんね」
鎌足は同意する。明日香の寺院は、土地から切り離された力を持っている。
不安定な力は、やはり危険だ。いつ災害をもたらさないとも限らない。『教え』を理解することで、斑鳩のように力が融和されるのであれば、その方が良いに決まっている。
「あの、どちらかを良しとするのではなく、どちらも良しすることは不可能なのでしょうか?」
「え?」
山背大兄王は、驚きの表情を浮かべた。考えたこともなかったとなのだろう。
しかし、鎌足から見れば、おなじ異国から来たものだ。仏法の教えも、学問も必要なのであれば、どちらも取り入れればよいと思う。片方を捨てなければ、片方を得られないというものでもない。
厩戸皇子は、仏法を取り入れても、土地の神を捨てることはなかった。同じことは、きっとできるはずだ。
「強欲なことを申すのう」
「すみません。門外漢ゆえ、的外れなことを申し上げました」
鎌足は慌てて謝罪する。
それほど間違っているとは思わぬが、相手は皇族だ。いくら穏やかに見えても、怒りを買えば、鎌足の首は簡単に飛ぶ。
それに、父にも迷惑がかかる。
「なるほどのう」
山背大兄王は、得心したように頷いた。
「死の間際、父上がそなたに、何かを託したことは知っておる。神祇官でなければ、託せぬと聞いていたが、そうではなく、
「私のことをご存知でいらした?」
幼かったことと緊張もあり、鎌足は、厩戸皇子のことしか記憶にない。
「私も子供だったゆえ、はっきりとは覚えておらぬよ。それに、そなたと父上が何を話したかは知らぬ」
山背大兄王は、肩をすくめて見せた。
「ただ、興味はあった。ゆえに、会う気になった。むろん、明日香の様子を知りたかったというのもあるがな」
推古天皇が倒れたの報はあったものの、斑鳩と飛鳥は離れている。厩戸皇子は、馬で明日香に通ったらしいが、政務についていない山背大兄王としては、四六時中明日香に行くわけにはいかない。だが、朝廷の情勢など気になっているのだろう。
「世情に疎い神祇見習いゆえ、そのあたりは、あまりお役に立てそうにございません」
鎌足は恐縮する。
天皇に命ぜられて斑鳩にやってきたものの、何を天皇が求めているのかもわからない。そして、毎日、宮につとめてはみても、政治の話は全く分からない。
何もかも、わからぬことだらけだ。
「良い。結局は、私が未熟だということなのだ。そなたと会って、それがようわかった」
山背大兄王はスッキリしたように笑んだ。
「そなたも一度、仏法を学ぶと良い……もっとも、そなたの父が許せば、の話ではあるが」
「仏法を?」
意外な言葉に鎌足は顔をあげる。
「学んだうえで、そなたの言うことが可能であるか、私に教えてくれ」
山背大兄の王の真剣な目に、鎌足の姿が映っていた。
「して。斑鳩はいかがであったか?」
床に伏したまま、推古天皇が問う。
鎌足は、天皇の持つ力の眩しさに耐えかね、額を床につけたままだ。
「厩戸皇子が存命のころと変わらず、仏と土地の神の力が一つになっている、不思議な土地でございました」
「なるほど」
推古天皇は頷いたようだった。
「山背大兄王の代となっても、変わらずに保たれているということじゃな」
「はい」
鎌足は答える。
「こなた、山背大兄王に会うたそうじゃな」
「……おそれいります」
隠す事でもないが、天皇の耳に入っていることに鎌足は内心驚く。
もっとも、この場合、鎌足が注目されていたのではなく、山背大兄王は常に、中央からの目があるということなのだろう。
皇族というものは、本当に窮屈なのだな、と鎌足は思う。
「山背大兄王に任せれば、明日香は斑鳩のようになると思うか?」
天皇の問いに、鎌足は考え込んだ。斑鳩をあのように変えたのは、厩戸皇子であり、神功五玉のひとつが、その手にあったからだ。とはいえ、それを保ち続けているのも、並大抵のことではないと思う。
「山背大兄王さまなら、いずれは、可能かもしれません」
鎌足は慎重に答えた。
「今は無理か」
「わかりませぬ。ただ、大きな理想をお持ちのようでした。その理想が叶えば、おそらくは、そのようになるかと」
「理想か……」
天皇はため息をついたようだった。
「大望を持つとは悪いことではない。しかし、他者が見えなくなってはならない」
その声は心配そうであった。
「鎌足よ」
「はい」
推古天皇に呼ばれ、鎌足は小さく返事をする。
「山背大兄王を助けてやってくれ。人の上に立つには、アレはまだ若すぎる。若すぎるのじゃ」
「私にできることならば」
「頼むぞ」
天皇の命に、鎌足は床に頭をこすりつけた。
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