第11話 殯の宮

 推古天皇のもがりの宮は、南庭に設置された。

 天皇の殯から、陵に葬るまでの一連の儀礼ごとは、次の『天皇』と神祇伯がとりしきることになっている。が、次期天皇が未定のため、今回は大臣と神祇伯が様々な取り決めを行う。実際に政治的な部分は、ほぼ大臣が決めてしまうため、神祇伯の裁量が発揮されるのは、儀礼的なものだけにすぎない。

 なんにしても、推古天皇は、新たな陵を望まなかったとはいえ、葬儀の準備には時間がかかる。それまでの間、遺体は塩漬けにされ、もがりの宮に安置されるのだ。

 当然、遺体は腐敗し、臭気が漂う。

 香を焚いてはいるが、消えるものではない。

 鎌足は、香木を手にしながら、顔をしかめた。褒められたことではないが、神祇官だって、人間だ。

 誰もおらぬと思っていた鎌足だったが、宮の奥に、人影を見つけ、あわてて真顔に戻す。不敬だと、叱責されかねない。

「鎌足か」

 足音に気が付いたのだろう。

 顔を上げたのは、陰鬱な顔をした、御食子であった。安置された棺のそばで祈りをささげていたのであろう。

「父上」

 どうやら、先ほどの顔は見られていなかったらしく、鎌足は内心、ほっとした。常の父ならば、必ず、叱責したに違いない。

「鎌足」

 御食子は、何かを悩んでいるようにみえる。様子がおかしい。

「お前、本当に陛下のお言葉を聞いてはおらぬのか?」

 どうやら、推古天皇が最後に皇子たちに話した内容を知りたいようだ。

 木の葉が、ざわざわと音を立てる。風がそよぐたび、香炉の火がゆれて香りが立ち上った。

 鎌足は、もってきた香木を継ぎ足しながら、首を振る。

「皇子たちがお出でになったことすら、あまり覚えておりません」

「さようか」

 御食子はため息をついた。

「陛下のお言葉が食い違っておってな。何が正しいのかと、もめておる」

「お言葉が?」

 御食子は、後継者を決めるべく、豪族たちの会議に出席してきたばかりだ。

「陛下のご意向は、いったい、どちらの皇子であったのやら……」

 よほどもめたのであろう。

 長い会議だったらしく、表情に疲労のいろが濃い。

「はっきり、私がお聞きしたのは、どちらの皇子かは、陛下は選ばないということでした」

 自分が決めたところで、決まるものではないと、推古天皇は言っていた。

 事実、慣例では、天皇の意志よりも、豪族の合議の方が重要視されている。もっとも豪族の合議というのは、集まった豪族が率直に意見交換する場であった試しはなく、その時、その時の実力者の意向に賛同する場でしかない。

 つまり、現在は蘇我氏の意向を周知して、賛同する、そのような状況である。

 だが、御食子の様子から見ると、今回は状況が違うようだ。

「それはそれで、話が食い違っているようにも思える。困ったことだ」

 御食子はさらに顔を曇らせる。

「陛下は、いずれの皇子にも跡継ぎと思われるお言葉をおかけになったようで、双方の皇子が、自分こそ後継者と言われたと感じられたらしい」

「それは……」

 随分と困った話だ。

「田村皇子や、山背大兄王、両殿下がそのようにおっしゃったのでしょうか?」

「ああ……いや、殿下たちいずれも、合議の場においでになったわけではないから、あくまでも『伝聞』にすぎんのだが」

「さようですか」

 鎌足は、大きく息をついた。

「それでは、殿下が本当にそのようにお考えになったかどうかは、違うかもしれませんね。周囲の方々が、勝手にそのように言われているだけかもしれません」

「周囲が勝手に?」

 御食子が目を見開く。

「例えば。父上は田村皇子を望んでおられる。そこへ陛下が田村皇子の行く末を案じておられるお言葉をおかけになられたら、きっと陛下は田村皇子を後継と思われていると感じるでありましょう?」

 推古天皇は、選ばぬと言ったが、どちらの皇子も死なせたくないとも言った。

 どちらに対しても、未来への助言を与えた可能性が高い。

「なるほどの」

 御食子は頷いて、顎に手をあてた。

「つまりは、周囲が『陛下のご意思』を都合の良いように思っておると言うことか」

「おそらくは。ただ、公的な場所でそれは明言されない方がよろしかもしれません」

 鎌足自身は、正直、どちらの皇子が天皇となったとしても、それほどの違いを感じない。

「中臣の家が田村皇子を推す理由は単純です。誰がみても、仏法を尊ぶ山背大兄王が天皇になれば、役職を失う危険があります」

 容赦のない鎌足の言葉に、御食子の顔が苦くなる。だが、鎌足は構わずに続けた。

「ですが、蘇我の大臣、つまり蝦夷さまは違うはずです。普通に考えれば、娘婿であるだけの田村皇子より、親族ある山背大兄王を望まれるのが自然。そうでないのには、きっと理由があります」

「理由か……」

「いずれにせよ、皇子たちの問題ではなく、蘇我氏の問題である可能性が高いと存じます。中臣の家としては、距離を置いて、粛々と陛下の殯を続けるが吉、かと」

 鎌足は中臣の家のことを案じて、事なかれ主義を唱えているつもりはない。だが、『神』の声を聞く中臣の家は、政治的なことに頭を突っ込むのは危険だ。下手に動けば、神はゆがめられ、政治的に利用されて、抗争に巻き込まれる。用心するにこしたことはない。

「私が陛下のお側にいたことは、どの程度の方がご存知なのでしょうか?」

「機密ゆえ、女官数名。ほかに見られたとしたら、皇子くらいだな」

「ほっとしました」

 そもそも、神器で陣を張っていたこと自体が機密中の機密である。まして、天皇の寝所の奥つまり、来客の入ってこない御簾の奥にいたから、よほどのことがない限り、鎌足を『証言者』として担ごうとする者はいないだろう。

「蘇我家の問題か……」

 御食子は棺の方を見上げる。

「確かにお前の言うとおりだ。我らは、殯に専念したほうがよかろう」

 遺体の故人の魂は、葬るまで、非常に不安定だ。荒ぶるものにならぬように、細心の注意を払う必要がある。

 政治的な問題に首を突っ込んでいる状況ではなく、中臣家本来の『役目』を果たす時なのだ。

 中臣家が田村皇子を推す理由は他豪族よりはっきりしている以上、権力闘争に加わる必要はない。大事なことは、巻き込まれないことだ。

「御食子さま」

 殯の宮の入り口で、警備のものが呼んでいる。

 御食子は、祈りを終えると、そちらのほうへと戻っていった。

 継ぎ足したばかりだからだろう。やわらかな香りがたちのぼる。

 人の死とは不思議だ、と、鎌足は思う。

 目の前の棺には、かつて推古天皇であった御霊みたまがまだ残っている。だが、もはや、言葉を話すことはない。あるのは、『力』だけだ。そして、その力は、風や水、土や木に溶け、ひとであったことを忘れるのだ。

「鎌足」

 父の自分を呼ぶ声に、慌てて鎌足は慌てて、殯の宮を出る。

 宮の入り口に待っていたのは、父のほかに、見知った人が立っていた。

「田村皇子?」

「久しいの」

 皇子の顔は険しく、明らかに厄介事の匂いを鎌足は感じたのだった。

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