第12話 田村皇子
「陛下のところへ案内してくれぬか」
「私がですか?」
神祇伯である父ではなく、鎌足に、ということは、何か話があるのだろう。思い当たる節はある。気は重いが、内容はひとつしかないだろう。
鎌足は御食子をみる。鎌足と目を合わせると、御家子は何も言わずに、小さく頷いた。
殯の宮は、皇族と許可された神祇官しか入れない。周囲は厳重に警備されているため、人払いをして話をしたいなら、一番良い場所だ。
また、神祇官が皇子を案内して歩くのも、非常に『自然』な場所である。
「頼む」
「こちらへ」
鎌足は丁寧に頭を下げ、殯の宮の奥へと案内する。
木の葉がざわざわと揺れ、香のにおいが漂う。空の青さが眩しすぎて、汗がにじんでくる。
「そなた、陛下の寝所に、おったであろう」
祭壇の前に立つと、田村皇子は、静かに口を開いた。
「……はい」
否定することもできたが、鎌足は小さく頷いた。田村皇子は、僅かばかりだが、目に見えぬ力がわかる。また、神功五玉の保持者だ。玉を持った鎌足に気づいても不思議はない。
「では、陛下のお言葉を聞いたか?」
「いえ。あの場にいたことは間違いございませんが、あの場所にいたというだけの、石ころも同然でした。何も聞いてはおりません。比喩でもなんでもなく、本当に何も聞いてはいないのです」
鎌足はひざを折り、頭を下げた。
「証人にはならぬ、というのだな」
田村皇子は、大きくため息をついた。心から、がっかりしたようにみえる。鎌足が全てを聞いていることを期待していたのだろう。
「ならないのではなく、証人には、なれないのです。そもそも中臣の家としては、殿下を時期天皇に推挙しております。それでは足りませぬか?」
言葉がどうであれ、中臣家の方針は決まっている。中臣家は田村皇子につく以外の選択肢はないのだ。
もっとも、中臣家に力がないのも事実で、その選択で、何かが動くわけでもない。
「私はそのようなことを期待しているのではない」
田村皇子は、棺を見上げる。その表情はどこか寂しげだ。
「陛下は、私を跡継ぎにとは、おっしゃられなかった。間違いなく、一言もだ。それなのに、周囲の者は一様に陛下のお言葉を曲げて語るのだ。あたかも陛下が私を後継に望まれたかのように」
木々がざわめく。皇子の心の中を映しているかのようだ。
「殿下は、天皇になることを望んではおられないのですか?」
「そういう意味ではない」
田村皇子は、首を振る。鎌足には、皇子が何を考えているのかわからない。
望んでいるなら、それはそれでいいのではないか、と思う。
「私が天皇になる、ならぬは、どうでもよい。大事なのは、死の間際の私への陛下のお言葉が、違うものになり、あたかもそちらが真実として、その場におらぬ人へと語られているという事実だ」
皇子は唇を噛む。後継のことではなく、言葉が曲げられたことを怒っているのだ。たぶん、推古天皇の言葉は、田村皇子にとって、大切な言葉であったのだろう。
そして。天皇の言葉が容易に曲がってしまうことへの憤りだ。
「陛下は、お二人の皇子、どちらも選ばない。そして、死なせたくないと私におっしゃっておられました。私はお言葉を聞いてはおりませんが、おそらくは、お二方どちらにも、未来へのお言葉をお掛けになられたのではないかと思います」
鎌足は静かに言葉を選ぶ。
「思いやりのある優しいお言葉だったとすれば、それを聞いた者が、後継とお選びになったと考えたくなるのも、当然の流れかと思います」
「それは、わからなくもない」
不本意そうだが、田村皇子は頷く。
「だが、それにしても言葉そのものが大きく変えられてしまっているのだ」
どうやら、推古天皇が、一言も触れなかった『天皇としての』仕事について、皇子に語ったことになっているらしい。それは、解釈違いの域を越えて、捏造に近い。
「殿下への言葉が故意に曲げられているのなら、陛下のお言葉がどちらも選んではいないということを気づいての、どなたかの策略かもしれません」
「どちらも選んでいないことを気づいての、策略……」
思い当たるふしがあるようで、田村皇子は顎に手を当て考え込んだ。
「正直に申しまして、中臣の家としては、殿下を推挙することは決定事項であります。我らは、
鎌足自身は、山背大兄王を嫌っているわけではない。だが、中臣家として選ぶことはできない。これは、決定事項だ。
「殿下を支持するのに、他の理由はございません。ゆえに、他の方々が、何を持って、殿下を推挙なさっているかは、全く興味のないこと。誰がそのようなことをお考えになられたのか、想像もできません」
「嘘をつくな」
皇子は苦笑を浮かべた。
「おぬしの父はそうかもしれんが、そなたはそうではあるまい。誰の策略かもわかっているのだろう?」
「それは……」
鎌足は思わず下を向く。もちろん、わかっている。それは、田村皇子もわかっていることだ。
そのようなことをするのは、間違いなく蘇我蝦夷しかいない。
わからないのは、親族である山背大兄王をそこまで忌避しようとする、蝦夷の心だ。
「一つ教えてください」
鎌足は、かねてから疑問に思っていたことを口にする。
「殿下は、大臣が、山背大兄さまを忌まれる理由をご存知でしょうか?」
「ああ、それか」
田村皇子は大きく息をついた。
「おそらく、厩戸皇子の『影』よ」
「影……」
「厩戸皇子は、先の大臣である馬子と匹敵するだけの力を持っていた。言ってはなんだが、おそらく大臣は、山背大兄王本人ではなく、厩戸皇子の残したものに怯えている」
「残したもの……」
それは、ひょっとすると、神功五玉のことではないだろうか。馬子と厩戸皇子は二人とも五玉を持っていた。
馬子の子の蝦夷なら、それを知っていてもおかしくはない。
鎌足は馬子の言葉を思い出す。
『良き後継者を見つけた』
あの言葉は、誰を指しているのか。
もし蝦夷が玉を継承しているのであれば、山背大兄王を恐れる必要はないように思える。玉は、所有者の力に左右されはするが、玉によって優劣があるものではないはずだ。
それに、あくまで鎌足の知る範囲だが、山背大兄王は、現在、蝦夷が恐れるほど実質的な大きい権力は、持っていない。
むろん、斑鳩という交通の要所に住み、土地の力の均衡を保っていることは『脅威』でないとはいえないけれど、ならばこそ、味方に取り込むほうが賢いと思われる。
「玉を、継承していないのかもしれない」
鎌足は呟く。
馬子の持っていた玉を蝦夷が継承していない場合。実質的な権力を掌握してはいても、不安であろう。
常に馬子の玉の継承者の目を気にしなければならないだろうし、そして、厩戸皇子の玉はさらに脅威だ。山背大兄王を忌避する原因になるかもしれない。
実際には、厩戸皇子の玉は鎌足が持っている。だが、蝦夷はそのことを知らない。馬子は、うすうす感じたかもしれないが、それを息子に話していない気がする。そもそも馬子とて、鎌足が中臣の人間とは知らなかったはずだ。
「継承していないとは?」
「蘇我馬子さまは、神功五玉をお持ちでした。見えざる『力』をみることのできる恐ろしいお方でした」
鎌足の記憶の中の馬子は、未だに大きくて怖い存在だ。それでいて、嫌いになれぬ不思議なひとだった。
「馬子さまの玉は、どなたかが引き継がれたのは間違いございませんが、蝦夷さまではないのかもしれません」
「というと?」
「玉は、力の持たぬものが持てば、ただの飾り。国家安寧を信条にしていた方ですから、力あるものにお渡しになられたのは間違いございません」
それが誰なのかは、鎌足には見当もつかない。
そもそも、厩戸皇子の玉を、身内でもない自分が継承しているのだ。馬子も同じように、思いもつかぬ者に渡している可能性は高い。
「そなた、馬子を知っておるのか?」
田村皇子は驚いたように鎌足を見つめる。
「知っているというほどではございません。幼き日に、偶然お会いしただけで」
鎌足は首を振る。直接会ったのは一度だけだ。鎌足はともかく、馬子にとってはすぐに忘れてしまうような、そんな出会いだ。
「殿下。まだ、神功五玉はお手元にお持ちでしょうか?」
「ああ」
皇子は懐から赤い玉を取り出した。
「この玉について、私以外に知っている者は?」
「おらぬ。何があるか、わからぬからな」
鎌足はほっとする。それと同時に納得をした。
蝦夷は、田村皇子が玉の保持者だと知らぬのだ。
「今後とも他言は無用に願います。私の考えが正しければ、大臣が山背大兄王を忌避するのは、神功五玉のため」
蝦夷が山背大兄王を、厩戸皇子の玉を継承した可能性が高いゆえに、嫌っているとすれば。
「殿下が玉を持っていたと知ったら、山背大兄王様以上に疎まれる可能性が高くなりましょう」
全ては推測に過ぎない。だが、鎌足にはそれが真実のように思えた。
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