第10話 日蝕
推古天皇の容態はますます悪くなった。
昨夜あたりから、大気が不穏な気配となり、力が乱れ始めている。
鎌足たち神祇官は、徹夜で祈祷を続けたが、一向に天皇の体調は回復しない。むしろ、周囲の神の力が均等を失いつつあるのを止めることができない。
「そろそろ、陛下に跡継ぎを決めていただかねば」と、御食子は言う。
もちろん、天皇の意向は考慮されるだろうが、最終的には蘇我氏の意向に落ち着くように思えてならない。そもそも、古より天皇は、豪族たちの合議で皇族の中から、決定されるもので、天皇が意図して『譲位』することはなかった。
推古天皇が即位したときは、次は『厩戸皇子』と誰もが思っていた。厩戸皇子がなくなり、跡継ぎは決まらぬままだ。
鎌足は田村皇子と山背大兄王、どちらともわずかながらに面識を得ているが、どちらが良くて、どちらが悪いとも言えない気がする。
鎌足は、祈祷に使う、ご神木の枝を払いながら、考えに沈む。
古くからの豪族たちは、蘇我の血の薄い田村皇子を推している。父の御食子もそうだ。もちろん、血統ということもあるが、一番は『年齢』である。田村皇子は、三十代なのに対し、山背大兄王は、まだ十代だ。指導力と経験という面で、田村皇子を推す声が大きい。
山背大兄王を表立って推しているのは、
はっきりとはわからないけれど、蝦夷は摩理勢とあまり仲がよろしくないらしい。
山背大兄王は、自分の理想と蝦夷の理想が違うと言っていたが、蝦夷が田村皇子を推す理由は、摩理勢との関係があるのかもしれない。
もちろん『大臣』である、蘇我蝦夷の意見は絶対的ではあるのだが、摩理勢の発言力もかなり大きい。
蝦夷に『意見』できるのは、『摩理勢』だけとも言われている。もちろん、馬子の後は蝦夷が継いだことは、摩理勢も納得済みのはずだが、蝦夷としてはおもしろくないのかもしれない。
山背大兄王が仮に天皇となれば、蝦夷と摩理勢の立場が逆転することもあり得る。それゆえ、蝦夷は田村皇子を推しているのかもしれない。
「鎌足」
御食子に呼ばれ、鎌足は考え事を打ち切り、払った枝を片付けた。
御食子は天皇と会ってきたはずだが、かなり表情が暗い。
「なんでしょうか、父上」
「ふむ」
御食子は鎌足を伴って、外に出た。空は晴れ渡っているが、嫌な感じだ。木々を渡る風は、肌をざわつかせる。鎌足は眉間にしわを寄せた。
「感じるか?」
「はい。力が乱れておりますね」
御食子は大きくため息をついた。
「三種の神器を使い、なんとか日延べをしてきたが、そろそろ限界が近い」
木々の隙間から落ちる日の影が、形を変えていく。
「これは、蝕、でしょうか」
振り仰ぐ日の見た目は未だ変わらない。だが、確実に陽の光が弱まっていく。神器の力を延命に向けているがゆえに、天地のものの均衡が乱れているのだ。
「玉の力で、なんとかならぬか?」
父のすがるような目に、鎌足は胸元の玉に手で触れる。
蝕を止めるには、神器を本来の位置に祀ればよい。神器ならば、天の力を安定させることができる。ただ、そうなれば、天皇の肉体から四方へと放出されていく魂の力を押しとどめることは、どうやっても不可能となる。
「天皇のお命と神器の力で保つべき均衡が、私の手でどうにかなるとはとても思えません」
鎌足は、ゆっくりと首を振る。
貴賎にかかわらず、人の命に終わりがあるのは、天の理だ。それを知らぬ父ではない。それでも、と願ってしまうのは、神功五玉の秘めた力の大きさであろう。だが、神功五玉は、一つだけだ。鎌足一人の力でどうにかなるものではない。
「蝕を止めねばならぬ」
「父上」
それはその通りではある。が、蝕を止めるためには、神器の『力』を天に奉じなければいけない。
「やさかのにの勾玉を本来の位置に戻す。おそらく、天の均衡はそれで一度はとりもどせるはずだ」
御食子の目が険しい。一時しのぎには違いない。
「だが、陛下は最期に、田村皇子と山背大兄王に面会したいとおっしゃっておられる。できれば、それまでは、しのぎたい。それだけの間、しばし、お前が勾玉の代わりとなれ」
「神器の代わりでございますか?」
無茶と言えば無茶な話だ。
「最低限、蝕を止め、均衡を取り戻すための間の時を稼いでほしい」
「時を……」
神器を一瞬でも外せば、すでに弱っている天皇の命数は、さらに縮まるだろう。
「陛下は、お二人の行く末を案じていらっしゃる。国の行く末とは、また、別の話でな。それをどうしてもお二人に伝えたいとの仰せじゃ」
今から急使を出して、二人を呼ぶにしろ、残りの時間はあまりにも短い。特に斑鳩は、遠いのだ。どんなに急いでも、山背大兄王が来るのは夜になろう。
「……やれるだけは、やってみます」
「頼む」
鎌足は玉を握り締めた。
「無茶を言うてすまぬの」
推古天皇のか細い声がする。
天皇の寝所の三方向にそれぞれ、神器は祀られていた。神器は相変わらず、まばゆい力を放ち、その三角形の中央の天皇の身体に注ぎ込まれている。
「微力ながら、全力を尽くします」
鎌足は、勾玉をさげさせ、自らその位置に座る。
ずしん、と大きな圧力が全身にかかってきた。強すぎる光に頭がガンガンする。釣り合いのとれぬ強力な二つの力に押しつぶされそうになりながら、鎌足は玉の力を引き出そうと必死になった。
「これほどに、長く生きておきながら、なお命を長らえたい、わらわの欲深さ、さぞやあきれておるであろうの」
鎌足は答えない。否、答える余裕はなかった。息が苦しい。
おそらく、推古天皇も答えを求めてはいないだろう。
「わらわが何を言うたところで、何も決まりはしない。だから、わらわは何も言うまい。だが、戦は避けたいのだ。わらわは、二人の皇子をどちらも死なせたくはない」
推古天皇は、動乱を生きてきた。
物部と蘇我の戦争もあり、蘇我馬子による崇峻天皇暗殺も目の当たりにしてきている。自らが死んだ後の『何も決まっていない』未来をおそれ、憂いを感じるのもやむを得ない。
その気持ちは理解できるし、鎌足としても、推古天皇の本意がどこにあるのか知りたいと思う。だが、それを問う余裕はなかった。
抜け出ようとする推古天皇の魂を封じるための陣の一翼を担うのは、わかっていたことではあるが、鎌足には荷が勝ちすぎていた。
力は、暴走手前で踏みとどまっているにすぎず、陣は崩壊する寸前だ。
神器の力が大きすぎて、外の蝕がどうなっているのか、鎌足には全くわからない。推古天皇が何度も、鎌足を案じて声を掛けているようだったが、それすら理解できない状態であった。
そのような状態が、どのくらいの時が過ぎたのであろうか。
一瞬だったようでもあり、永遠のようでもあった。
日は、蝕から回復し、推古天皇は、二人の皇子と無事、会見することができたらしい。
御食子がやさかにの勾玉を再び持って訪れたのを視野に捕らえた後、鎌足は意識を失った。
鎌足が眠りから覚めた朝。
全てが終わっていた。
推古三十六年(西暦 六百二十八年)三月七日。推古天皇、死す。
天皇として残した遺言は、
「比年五穀不登、百姓大飢。其爲朕興陵以勿厚葬、便宜葬于竹田皇子之陵。」
ーー最近は五穀が実らず百姓は飢えている。わらわのために陵をつくって葬るようなことはせず、我が子、竹田皇子の陵に葬ってほしい。
ただ、それだけであった。
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