第6話 蠅 下

 鎌足は緊張しながら、馬を歩かせる。田村皇子たむらおうじの護衛は三騎。思ったより少ない。遠出をするわけではないからだろうが、懸念を抱いている割には、無防備な気もする。もしかすると、『大事にしたくない』のは、御食子だけでなく、田村皇子もそう思っているのかもしれない。

 先頭を行くのは、皇子の護衛だ。その後ろを辰、鎌足と続く。

 周囲は、田園風景から、しだいに荒れ野に入った。この辺りは民家もないようだ。両脇に背丈の長い草がのびていて、整備された道を囲う壁のようだ。

「あれです」

 先頭の男が指さした。

 嫌な羽音がする。まるで雷のような激しい音。ちょうど道の真ん中あたりに、まるで蚊柱のように、天に伸びる虫の群れ。うねるように回転しながら飛びつづけて、集まっている。間違えなく、蝿だ。何匹いるのだろう。数えきれない。大きさ的には牛ほどある塊だ。

「なんてことだ。かなり増えている」

 田村皇子が驚愕の声をあげた。

 最初に発見したときは、この半分くらいの数であったらしい。

 蠅たちは、ただ、飛び続けていて、人が近づいても気にしてもいないようだ。

「殿下は、お下がりください」

 鎌足はゆっくりと馬から降りて、馬を辰に預けた。そして、そのまま慎重に虫の群れに近づく。

「鎌足さま」

 心配そうな辰を手で制止て、目を凝らし、耳を澄ました。

 蠅に敵意のようなものは見られず、近づいても変化はない。ただ、うねうねと回るうちに、どんどんと少しずつ数が増えていくようにも見える。

「ん?」

 鎌足はわずかな力を感じた。にじむほどではっきりしない。目を凝らすと、蠅が取り囲んでいる中あたりだ。

「なんだ?」

 いったいどこからなのか。

 その力の源をさぐる。

「赤い蠅?」

 鎌足は目を見開く。

 一匹の赤い虫が柱の中心にいた。蠅、と呼んでよいものかわからないが、色を除けば、大きさも形も蠅と似ている。力は、その虫が放っている。にじむような力は、どこから来ているのか。何を囁いているのか。その虫に惹かれるように、集まって来ているのだ。

 鎌足は瞳を閉じて、意識を集中した。

 力は、飛びたいと欲している。そして何より孤独の色が濃い。不安、そして解放を願う想い。

ーーおかしい。

 鎌足は首をひねった。

 赤い虫の欲望は既に満たされている。

 羽を手に入れている虫は、自分が望めば、もっと広い空を飛ぶことができるはずだ。それに、周囲は、仲間に囲まれている。孤独ではない。

ーーどういうことだろう?

 鎌足は無意識に首にかけた玉を握りしめた。

「あ」

 思わず声が漏れる。唐突に視野が広がった。

 否、視野というのはおかしい。それは目に見えるものではないからだ。

 赤い虫に注ぐように繋がる細い力の糸がある。

ーー虫はたまたま、共鳴しただけだ。

 何かの力に触れて、それに共鳴したことでつながりを得た、いわば依り代だ。

ーー源は?

 鎌足は、糸をたどっていく。

ーーえ?

 馬を降り、後ろで見ていた田村皇子の胸元に、微かに力を感じる。

ーーまさか?

 鎌足は自身の玉から手を離した。

 先ほどは気にも留めていなかったが、微かに力が放たれている。

「殿下、ひょっとして、玉をお持ちではありませんか?」

 おそるおそる、鎌足は訊ねた。

「玉?」

 田村皇子は首を傾げる。

「力を帯び、光沢を帯びた玉です」

「ああ、これのことだろうか?」

 鎌足の言葉に、田村皇子は、懐から、布に包んだものを取り出した。

 赤い玉だ。素材はよくわからないが、光沢は思ったほどない。わずかな力だ。神功五玉にしては、弱い。

「息子の部屋に落ちていたものだ。口に入れてはと思い拾うた」

 皇子の指が玉に触れると、ほんの少しだけ力が強くなる。

「妻のものと思ったが、そうではなかった。手にすると不思議と心が落ち着く。ゆえに、こうして手元に持っていたのだが」

「拝見しても宜しいでしょうか?」

 鎌足がたずねる。

「かまわんが」

 皇子は何の躊躇もなく、それを鎌足の手にのせた。

「な?」

 声を上げたのは、田村皇子であった。

 鎌足が玉に触れると、赤い玉は、艶やかな光を放ち始めた。

「なにごとぞ?」

 皇子の驚きをよそに、鎌足は玉を観察する。手から伝わってくる力は、鎌足の持っているものとは異質のものだ。神功五玉は、おそらくすべて色が違う。馬子も、『このような黒い玉は他にはない』と言っていた。厩戸皇子から授けられた玉は、乳白色。馬子の玉は、黒だった。

 この玉は赤だ。先ほどは、あまり強い力は感じなかったが、今は、強い力を感じる。熱い炎のきらめき。間違いなく、神功五玉の一つに違いない。

 玉は力のないものが持てば、ただの飾りとなる。つまり、玉の持つ力は、持ち主の力に左右されるということだろう。

 おそらく、田村皇子は、神をみる力を微量ながらも持っているということだ。

馬子は病のせいで天候不順を招いたと言っていた。皇子の無意識に、この虫が共鳴した可能性が高い。

「殿下。恐れながら、お力をお借りできますでしょうか?」

「私の?」

「はい。あの蠅たちを解放するには、殿下のお力が必要です」

 神妙に告げる鎌足を、田村皇子はじっと見つめる。若輩である鎌足をどこまで信用するのか、迷っているのだろう。

「散らしてしまうことも可能ですが、殿下のお力をお借りして解放したほうが、のちのち、厄介になりません」

 鎌足でも、虫に流れ込んでいる弱い力の糸は容易に断つことは可能だ。だが、虫に影響が残ることもある。

 鎌足は、玉を田村皇子に差し出しながら、訴えた。

「どうすればよい?」

 皇子は、大きく息をつく。

「殿下」

 護衛についてきた兵が止めようとしたが、皇子は手で制した。

 鎌足は丁寧に頭を下げた。

 虫から少し離れた場所に立ち、周りの人間を下げさせる。ざわざわと草が揺れた。

「この玉をお持ちください。それから、目を閉じてくださいませ」

 鎌足は皇子に玉を返すと、丁寧に一礼して、柏手を打った。


ひふみよいむなや こともちろらね

しきるゆゐつ わぬそをたはくめか

うおゑにさりへて のますあせえほれけ


 ひふみ祓詞はらえことばである。

 祝詞によって、玉の力がさらに引き出されて、赤い光が辺りに満ちた。

「殿下、目を閉じたまま、玉を握りしめてください。心を楽になさって」

 田村皇子は頷き、手を固く握りしめる。

 赤い虫を先頭にして、蝿たちは、空へと登るように上に向かいはじめた。

 蠅にそこまで飛行能力はあるのか? と思うほど、ぐんぐんと上昇を続けている。 

 パン、と鎌足は柏手を打った。


「殿下、何が見えますか」

 鎌足は静かに問う。見えるというのは、おかしいかもしれない。田村皇子は目を閉じたままだ。

「青い。青い空が見える」

 田村皇子が答えた。幾分、興奮しているようだ

 皇子は今、虫と『視界』を共有している。おそらく、虫の方も皇子の喜びを感じているはずだ。

「下界は見えますか?」

「ああ。山が、里がみえる」

鎌足の玉もまた、大きな力を発している。どうやら、五玉は、お互いに共鳴するのかもしれない。 鎌足は、自分も玉を握りしめた。

 目を閉じると、空の青が脳裏に浮かび、隣に田村皇子がいるのを感じる。

 眼下に、水派宮みまたのみやが見えた。

「何と美しい眺めだろう」

 田村皇子が呟く。

 やがて、景色がぼんやりとかすみ始めた。どうやら、虫は皇子の『歓喜』を感じ取って、開放されたようだ。

 これで、蠅については解決した。鎌足は、大きく息を吸う。ここで終わっても良いのだが、鎌足は田村皇子に見せたいものがあった。なぜかはわからない。ひょっとしたら、玉の意志なのかもしれない。

「殿下、海をごらんになりませんか?」

「海? 見たい」

 鎌足は、ぎゅっと握る玉に力を込めた。

 暗い海原に昇る朝日。光が、天と海を分けていく瞬間が、目の前に現れる。鎌足の記憶の中の光景だ。

「これは……」

「鹿島の海の風景です。大和の山から昇る日も素晴らしいですが、私は幼き日に見た朝の海がとても好きです」

「素晴らしい。しかし、鹿島は遠いのう」

浪速なにわの海であれば、大和からも近いです。見に行くことは可能でしょう」

「そうだな。何事も、行動せねば、かなわぬな」

 しみじみと田村皇子は呟いた。

 鎌足は玉から手を離す。薄ぼんやりと景色が遠くなったところで、鎌足は瞳を開き、もう一度、柏手を打った。

 玉の赤い光は弱くなっていき、力もともに消えていく。

 蠅の集団は姿を消し、周囲は静けさを取り戻していた。


「終わりました」

 鎌足は厳かに告げ、ひざまずく。

 田村皇子はゆっくりと、目を開いた。

「今のは?」

「この赤き玉は、神功五玉の一つと思われます」

「神功五玉? 神功皇后のか?」

 驚きの表情を浮かべる皇子に、鎌足は頷いた。

「玉から僅かに放たれる力に、蠅がたまたま反応してしまったのです。大ごとになる前に、処置出来て幸いでございました」

 言葉を選びながら、鎌足は説明する。

「この玉は、力あるものに反応いたします。魂のあるものすべてに。持つ人の体調や思念に影響を受けることもございますれば、取り扱いは、くれぐれもご慎重に願えればと思います」

「体調や思念に影響か」

 田村皇子は肩をすくめた。

「このところ、私は鬱屈しておったかもしれん。何をするも、面白うなかった。そういうことなのだな」

 鎌足は否定も肯定もせず、皇子の目を見上げる。

「して、今後、この玉はどうしたら良い?」

「殿下のよろしいように」

 鎌足は厩戸皇子から玉を集めよとは言われたが、相手は皇族であるし、まだ、自分にそれほど自信があるわけではない。

「中臣の家にお預けいただくのも、一つの案。殿下のお手元に置かれるのも、一つの案。いずれにしても、国を揺るがす力を持つ玉です。私のような若輩に、判断はできませぬ」

「国を揺るがす力、か」

 皇子はにやりと口の端をあげた。

「誰でもその力を持つわけでもなかろう? おぬしの触れた時の輝きを私が見ていなかったとでも思うのか?」

「玉を見つけたのは殿下にございます。玉に選ばれたのは殿下で、私ではありません」

 田村皇子の話を信じるなら、神功皇后とともに埋められたはずの玉が、突然、屋敷の中に落ちていたのだ。玉、そのものに意思があるとしか思えない。そういう意味では、鎌足は玉に選ばれて、玉を手にしていない。

「お主の力を見せたうえで、私の判断に任せると言う」

 玉を再び布に包み、皇子は懐にしまいながら、ため息をついた。

「おぬしは、駆け引きをもっと学ぶべきじゃ」

 鎌足は返答に困った。どういう意味だろう。

「気を付けよ。おぬしは悪意などなく、正直に生きているだけであろう。だが、出る杭は打たれる。才は見せる相手を選べ」

 皇子は、自嘲めいた笑みを浮かべた。

「この玉は、私が預かる。おぬしに欲がないのもわかってはいるし、信じていないわけでもない。が、狭量の私には、おぬしに渡すのは、恐怖じゃ」

 鎌足は黙して頭を下げる。

 荒れ地を渡る風に、静かに草葉がゆれていた。

 

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