第7話 斑鳩 上

 推古三十六年(西暦六二八年)二月二十七日。

 いつもの通り出仕した鎌足は、宮の門をくぐるなり、胸騒ぎがした。

 大気がゆらめいている。大殿の方角に不吉なものが漂っていた。

 鎌足はまだ神祇見習いであり、当然、天皇に直接目通りがかなうような身分ではないので、大殿に入ることは出来ない。父である御食子に話してからにすべきと思いながらも、不吉の『源』はなんなのかと、思わず大殿の方に足を向けた。

「あ」

 ちょうど、その時だ。

 大殿から人が出てきた。服装から見て、女性の貴人であろう。かなり年配だ。何人かの采女うねめが付き添っている。

 朝の散歩であろうか。大殿前の中庭を歩き始めた。

さすがに踏み入れてはいけない場所だと気づき、鎌足は引き返そうとした。と、その時、ぐらりと、女性の身体が揺れる。その身体から、魂が抜け出ようとしているのが見えた。

「いけない!」

 鎌足は思わず声を上げて、走る。

 女性はその場に崩れ落ちた。

「へ、陛下っ!」

 悲鳴がおこった。

「下がって」

 鎌足は、采女たちをかきわけて、女性の傍らに駆け寄って、額に手をあてた。


ひふみよ いむなや こと ふるべ ゆらゆらと ふるべ


 咄嗟に布瑠ふることを唱える。

 鎌足のことばに反応して、抜け出ようとした魂が肉体に留まった。だが、意識は戻らない。

「神祇伯と医師を早く!」

「は、はい!」

 弾かれたように、采女たちが走り出した。

 


 本来なら、鎌足の行為は咎められるべきことであった。

 許可もされていない場所に勝手に入ったのだ。死罪と言われても文句はいえない。

 だが、誰も鎌足を責めなかった。

 それどころではなかったのである。

 倒れたのは、『推古天皇』。当然、宮中は、大騒ぎとなった。豪族たちをはじめ、みなが、浮足立っている。

 神祇官たちは急遽祈祷を始め、医師や薬師が集められた。意識こそ戻ったようだが、病状は思わしくないようだった。

 夕刻、宮の祈祷所に詰めていた鎌足は、大殿に呼び出された。

 御簾から入ってくる光は既に弱く、部屋の中には火が灯されている。

 案内されたのは、広い板敷きの部屋で、采女が三名ほど控えていた。その奥の御簾の向こうに、褥に横たわっている人の姿が見えた。

「采女たちから、そなたの話を聞いた」

 御簾の向こうから女の声がした。わずかに身を起こしたようだ。

「今日、命を永らえたのは、そなたのおかげと思う。何の準備もせず、わらわが逝けば、のちのち皆に迷惑をかけよう。礼を言う」

「もったいのうございます」

 鎌足は、床に頭をこすりつける。

 推古天皇は既に七十五歳。自らの死を覚悟しているのだろうか。不思議と落ち着いた声だ。

 御簾越しであるし、部屋も暗く、姿はよく見えない。だが、驚くべく魂の輝き。人とは思えぬ力と鮮やかな色を放っていた。

「どうした。苦しゅうない。面を上げよ」

「……とんでもございません。陛下は、あまりにも眩しゅうございますゆえお許しくださいませ」

 鎌足は、フルフルと首を振る。

「ふふふ。御食子の言うとおり、目の良い少年よの」

 推古天皇の声は面白がっているようだった。

「そなたが、眩しがっておるのは、わらわではない。わらわが預かる三つの神器の力よ。この国を治めるための神の力だ」

「三種の神器でございますか?」

「さよう。わらわの魂が早々に抜け出てしまわぬように、御食子が細工していきよったわ」

 推古天皇は笑い声をあげた。

「わらわから見れば、そなたの放つ光の方が眩しい」

 鎌足は思わず顔をあげる。御簾越しでわからないが、天皇の視線が自分に注がれているのを感じた。

「自身の力は見えぬか?」

 神功五玉のことだろうか。

 鎌足は話すべきかどうか迷い、何も言わずに床に頭を擦り付けた。

「おぬしの、『目』を借りたい」

「目を?」

「さよう」

 推古天皇は頷いたようだった。

「斑鳩を見て参れ」

「斑鳩、でございますか?」

 鎌足はごくりと喉を鳴らした。

 斑鳩は、山背大兄王やましろおおえのおうの宮がある。山背大兄王は推古天皇の後継者候補の一人だ。

「……そのような、大任、私にはつとめることはできません」

「安心せよ。そなたに次の天皇を決めるために見て来いと言うておるわけではない。里の最近の様子を見て参れ、と言うているだけじゃ」

 くつくつと推古天皇は笑う。天皇の意図を測りかねて、鎌足は首を傾げた。

「それにそもそもわらわが誰と言うても、決まるものではない。それが現実よ。そなたが何を見て何を言うたとて、体勢は変わらぬ」

「ではなぜ」

「理由は話を聞いた後でな」

 得心はいかぬものの、天皇の命令とあれば、断ることはできない。

 鎌足は頭を下げた。



 翌日。

 鎌足は辰を伴って、夜が明けきらぬ前に斑鳩の里に向かった。幼少の頃より、馬の速度は早くなったものの、斑鳩が遠いことに変わりはない。

 二月はもう終わりとはいえ、風は冷たい。さらさらと流れる川も見るからに冷ややかだ。

「懐かしゅうございますなあ」

 大和川の流れを見ながら、辰が目を細めた。

「そうだな」

「蘇我の大臣に鎌足さまが殺されてしまうかと思いました。あの日のことは、未だに忘れませぬ」

 厩戸皇子が亡くなった時。鎌足はここで、蘇我馬子に出会った。不思議な出会いだった、と思う。

「怖いひとだった」

 記憶の中の馬子は、鎌足の何倍も大きな巨人である。

「それでいて嫌いになれぬ、不思議なおひとだった」

 現在の大臣である蘇我蝦夷に、鎌足はまだ会ったことはない。噂では、父である馬子の後を引き継いだそうだが、馬子とは勝手が全く違うらしい。

「馬子さまの時代なら、間違いなく、山背大兄王さまが皇太子になられたことでしょうがねえ」

 辰が肩をすくめた。

 山背大兄王の母は、蘇我馬子の娘だ。父である厩戸皇子も蘇我家と関わりが強かった。

「不思議と大臣おおおみは、山背大兄王さまを推しておられないようだけど」

 父、御食子からの話と、神祇官仲間の噂だけだから、定かではない。

 むろん、田村皇子の妻は法提郎女ほていのいらつめ。馬子の子を妻としているから、まったく蘇我氏と縁がないということもない。

どちらを支持するかは、単純な血の繋がりだけでなく、蝦夷との相性もあるだろう。

「偉い方のお考えは、よくわかりませぬなあ」

「まったくだ」

 鎌足は辰に頷く。

「さて。斑鳩まであと少しです」

「陛下は、私に何を見ろとおっしゃっているのだろう?」

 鎌足は、大和川の向こうにある斑鳩に目をやる。

 鳥が一羽、空を飛んでいくのが見えた。





 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る