第4話 虹
鎌足は十二歳になった。
この年、正月に桃やスモモの花が咲いたのに、三月になって、冷え込んだ。
霜がおり、しとしとと雨が降り続く。五月になっても気温が上がらず、晴れ間がいっこうにみえない。
「少しも日が照りません。このままでは、不作になりましょう」
「とはいえ、我らにできることと言えば、祈ることのみだからのう」
鎌足の言葉に、
すでに、天皇も
鎌足も父について、神祇官の見習いとして修業を本格的に始めたが、今回のようなことがあると、祈るしかないという手段がもどかしくも感じる。
「鎌足、そなたには何か見えぬか?」
「いえ。残念ですけど」
鎌足は衣服の内に隠した首飾りにそっと手に触れる。厩戸皇子から授かった神功五玉のおかげか、それとも鎌足自身の才なのかはわからないが、鎌足の力を見る『目』は、抜きん出ていた。
それでも、明日香、いや、大和に、天候不順の源となる力のくすぶりは見つけられていない。
「もっと修行をしなくては」
鎌足はぎゅっと玉を握り締める。
荒魂を意のままにしたいとは思わぬが、力を和魂に変えていくだけの力は欲しい。
その力があれば、民の生活は楽になり、しいては国も豊かになる。
そのためには、一つの玉ではダメなのだろうか。
そう思っても、どうやって探したらいいのか、まったくわからない。
ただ、一つ、わかっているのは、蘇我馬子がそのうちの一つを手にしているということだけ。
「そういえば、蘇我の大臣が病に倒れて、職を息子に譲られたよ」
御食子が思い出したように、口を開く。
「大臣が病に?」
鎌足は目を見開いた。
蘇我馬子と鎌足が出会ったのは、今から四年ほど前。既に若いという年ではなかったが、職を退くという印象は全くなかった。
「新しい、大臣はどのような方ですか?」
「そうさなあ。
「そうですか……」
鎌足の馬子の記憶は、強大な力を持ち、怖かった。それでいて引き付けられる、不思議な人物だった。
「玉も、お譲りになられたのだろうか?」
ふと、疑念に想う。
大きな力を持ち、しかも力を見る『目』も備えていた馬子の息子は、どのような人物なのだろう。
とはいえ。相手は巨大な権力を持つ蘇我氏である。玉の持ち主が変わったとしても、手に入れることは難しいだろう。むしろ、下手に接近すれば、鎌足の持っている玉を取り上げられかねない。鎌足自身には、力への執着はないが、それでは厩戸皇子との約定が果たせない。
「遠くから見るくらいなら、構わないかな」
蝦夷がどんな人物なのか。そして、馬子の容態は実際、どんなふうなのか。
屋敷のそばまで行けば、見えるものもあるかもしれない。鎌足は、父に許可をとると、護衛の辰をつれて、蘇我氏の屋敷の近くまで出かけることにした。
蘇我家の権勢は今や並ぶものがなく、屋敷ひとつ見ても天皇の宮と比べて見劣りがしないほどだ。
「見たところで、どうにもならないか」
鎌足は、ため息をつく。さすがに、屋敷内にあるであろう玉の存在を感じることはできない。
それに、玉そのものの気配というのは、それほど強いものではない。厩戸皇子や蘇我馬子に強い力を感じたのは、本人の魂の輝きそのものが強いということだ。
冷たい雨が降り続いているせいか、人通りはなく、ひっそりとしていた。
蘇我の屋敷は大勢の使用人がいるのだろうが、外まで喧騒が伝わってきたりはしない。
「鎌足さま、あまり雨にあたっては身体に悪うございます」
「もう少しだけ」
あてがあるわけではないが、鎌足は
常ならば穏やかな川であるが、長雨が続いているため、水量は常より増していて、流れも速い。
「あまり、水辺に近づかれませんように」
川に近づいていく鎌足に、辰が思わず声を掛ける。
「わかっている。水神の声を聞くだけだ」
あふれるほどではないにしろ、川そのものの力が溜まってきているのはわかる。雨がこれ以上続くのであれば、川下では、
「今のところは、大丈夫そうだけど」
鎌足は肩をすくめた。
川を離れ、少し丘に登ったあたりで、ちょうど雲が薄くなり、小降りになってきた。やや光が差して、青空がのぞき始める。ここらはちょうど、蘇我の屋敷の裏手だ。
「まあ、無理か」
鎌足は肩をすくめた。何か手掛かりを、と思ったものの、見つかって、怪しまれては厄介だ。四年前は「幼い子供」であったから事なきを得たが、もう、泣いてごまかすようなことはできない。
「鎌足さま」
辰が空を指さした。霧雨の向こうに鮮やかな虹がかかっている。
「なんだろう」
鎌足は目を細める。もっとも、いかに目の良い鎌足と言えど、全ての事象に神の力を見つけられるわけではない。
その時、屋敷から一人の人物が出てきた。
かなり上等な衣服で、礼服でもないのにしめている帯には、飾りの石がついている。それなのに、足は素足であり、供のものもいない。何よりも影がなかった。
記憶よりかなり年を取っていて、かつての強烈な迫力はなくなっている。しかもよくみれば、うっすらと透けて見えた。鎌足はゾクリとする。生霊だ。
「蘇我の大臣」
鎌足は意を決して、声を掛けた。
そういえば今は大臣ではない、と気づいたが、そんなことは問題ではなかった。
蘇我馬子は、驚いた顔で鎌足を見た。
「大臣、早々にお身体にお戻りください。このような時に、お身体から抜け出てしまわれては、死の国へ連れていかれてしまいます」
虹は異なる世界をつなぐものだ。身体から抜け出していては、虹に引かれて死の国へ渡ってしまう。
鎌足の言葉に、馬子は初めて、自分の状況に気が付いたようだった。
「……あの時の少年か。たしか、鎌足というたな」
「名前を覚えていただいていたとは、光栄です」
「忘れぬよ。幼いくせに、度胸と知性で、儂と張り合った生意気な少年よ。儂のせがれがそなたのようであれば、良かったのだが」
馬子は苦笑した。表情が記憶より柔らかい。肉体を伴っていないからなのか、歳を経たからなのか、鎌足には判別がつかない。
「病とお聞きいたしました」
「聞きたいのは、儂の病状ではあるまい。神功五玉の行く末を知りたいのであろう」
にやりと、馬子は笑った。
「教えてはやらぬ。そなたが玉を持って蘇我の家に参るなら、話は別だがな」
「それは……」
言葉を濁す鎌足を、馬子は咎めるつもりはないようだった。
「我が玉は、水をつかさどるもの。儂の力が安定せぬようになってしまってな。天候不順を招いてしもうた。誠に恥ずかしい話よ」
「水……」
「もっとも、善き継承者を見つけたのでな。まもなく安定するであろう。儂はこう見えても、国家安寧を第一の身上としておる」
馬子は顎ひげをなでた。その目は、かつてのものより優しく感じる。
「それならば、早く、肉体にお戻りを。あなたさまあっての、国家安寧でございましょう」
「ほほう。大きくなって、さらに口が回るようになったのう。末恐ろしい限りじゃ」
馬子は面白そうに声をあげて笑った。
「そうじゃの。今日のところは主の顔を立てて、戻るとするか。だが、もう二度と会うことはあるまい」
空の虹が消えていくのを見送るように、馬子は空を見る。
「私はあなたが怖い。お仕えすることはできないと思います。でも、嫌いではありません。病などに、負けないでください」
鎌足の言葉に、馬子は満足そうに頷いた。
「怖い。そうか。我が生涯で恐怖を覚えたのは、二人。厩戸皇子と、そなたじゃ。覚えておくが良い」
それだけ言いおえると、馬子の身体は再び、屋敷の方へと消えていった。
風が吹き、木の葉が囁くように音をたてる。
明るかった空は、再び暗くなってきた。
「……どなたとお話だったので?」
遠巻きにしていたのだろう。辰が、辺りを見回しながら、ゆっくりと近づいてきた。
「二度と会うことはないと思ったひととだよ」
鎌足は蘇我の屋敷の方に目をやる。
雨が再び降り始め、しだいに激しくなり始めた。
推古三十四年(西暦六百二十六年)五月二十日。蘇我馬子死す。
死後、
※現在の石舞台古墳
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