第5話 蠅 上

 鎌足は十三歳になった。

 もともと『目が良い』という天賦の才を持っているだけに、見習いという立場でありながら、既に周りに一目置かれるようになった。

 もっとも、鎌足は自分の『力』については猜疑的だ。なんといっても、父は神祇伯であるし、厩戸皇子から授かった玉もある。周りが持ち上げるほど、自分に実力があるとは思っていない。

 神祇の仕事は、季節仕事ともいえる。五月は比較的、行事ごとは少ないが、六月の仕事は多く、今はその準備をしなくてはならない時期だ。

 ゆえに小墾田宮おはりだのみやにつとめる神祇官たちは、何かと忙しい。神具の作成、事務仕事はもとより、各地からの陳情も多い。

 鎌足の役割は、寄せられる陳情を聞くことだ。話の要点をまとめ、父である御家子みけこに報告する。問題解決のために、祓えを行ったりする修行もしているが、そちらのほうの仕事はまだ無理と言われて、任せては貰えない。

「蝿、ですか?」

 思ってもみない話に、鎌足は再度、確認する。蠅など、珍しいものではない。冬以外ならどこにでもいるような虫だ。

「はい。とにかく尋常ではない数なのです。しかもどんどん増えております」

 陳情に来たのは、田村皇子たむらおうじの舎人である。田村皇子は、明日香から離れた、水派宮みまたのみやに住んでいる。田村皇子の父親は、押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこ敏達天皇びだつてんのうの孫にあたる。敏達天皇直系ということで、現在、皇位継承者の筆頭とも言われている。

「増えているとは、不思議でございますね」

 鎌足は頷く。

 蠅の大群というのは、今まで聞いたことがない。虫が群れるのは、何かの兆しの可能性もある。まして、田村皇子は現在微妙な立場だ。

 蠅というのは、獣の死骸などが多ければ増えたりするが、そのようなわかりやすい状況でもない。そうでなければ、わざわざ相談などはしない。

「見つけたのは、どなたで?」

「殿下です。殿下が、一昨日、遠乗りに行かれた帰りに」

 田村皇子が屋敷の裏手で、黒い塊があるのに気づいたらしい。

「それで?」

 鎌足は続きを促す。

「兵が、すぐに調べに行きましたが、周囲に異常はなく、ただ蝿が群れていただけでしたので、様子をみることにしました」

 翌日、蝿は少しだけ場所を移動していた。しかも数が増えていたらしい。

「今朝になってさらに大きくなっていて」

 何をするという訳でもなく、何が起きたということもないが、不気味である。少なくとも吉兆の符合には見えない。

「少しお待ちを」

 理由は全くつかめないが、急を要する可能性がある。鎌足は舎人を待たせたまま、御食子に報告した。

「水派宮の田村皇子か。これまた、やっかいな話だな」

 御食子は、眉間にしわを寄せる。

 政敵である山背大兄王やましろのおおえのおうは、積極的に相手を害そうとするような人物ではなさそうだが、何らかの呪術の可能性も捨てきれない。

「私が参りましょうか?」

 おそるおそる、鎌足は御食子に伺いを立てた。

「何らかの力が働いているとなれば、私の『目』がお役に立つやもしれません」

「ふむ」

 御食子は顎に手を当てる。

「そうかもしれんな。よし、お前に一任しよう。ただし、お前の手に余るような事態であれば、早々に連絡をしなさい。きな臭い事態になっては、やっかいだ」

 お前の失敗だけでは終わらないぞ、と念を押す御食子に、鎌足は静かに頭を下げた。

 



 水派宮は葛城かつらぎにあり、明日香の西へ行ったところにある。

 舎人に案内され、鎌足は辰を伴い、馬で出かけた。

 水派宮を作った押坂彦人大兄皇子は、厩戸皇子と肩を並べる継承者だったこともあり、宮はかなり大きなものであった。

 押坂彦人大兄皇子が亡くなってから、この宮には田村皇子が住んでいる。

 鎌足は、初の大きな仕事に緊張をしながら、田村皇子と面会することになった。 

 中庭に平伏した鎌足を大殿から見下ろす田村皇子は、三十代。ひょろりとして大人しい印象だ。深い知性を感じる瞳だが、案外、普通の人だと鎌足は思った。近寄り難い雰囲気はない。

 もっとも、鎌足の皇族の基準が厩戸皇子であるというのもあるだろう。

「神祇伯も策士だな」

 田村皇子は、大きくため息をついた。

 言われた意味が分からず、鎌足は黙したまま少しだけ顔をあげる。

「今回のこと、大事にしたくはないゆえ、まだ年端も行かぬおぬしをよこしたのであろう?」

 なるほど、と鎌足は思う。

 神祇官が大っぴらに動けば、水面下にある権力争いの火種にされかねない。実際に裏があろうがなかろうが、そんなことは問題ではない。神祇官が動くということは、そういうことなのだ。

「私としては、かなり不服ではあるが、実の息子をよこされては文句もいえぬ」

 そういうわけか、と鎌足は得心した。政治家としての父を垣間見た気がする。神祇官を動かして大事にはできない。だが、田村皇子の相談を放置するわけにはいかない。鎌足は一応見習いとはいえ、神祇伯の息子を対応に当たらせれば、真摯に対応したという、体面は保てるということだ。

 しかし、父の思惑はどうであれ、鎌足としては、仕事を中途半端にするつもりは毛頭ない。

「失礼ながら、私はこれでも、神の力をみることにかけては、父にも負けないと自負しております。決して、今回のことを軽く見積もってのことではございません」

「……なるほど」

 田村皇子は、肩をすくめる。

 全く納得はしていないようだ。

 それは仕方がないと思う。鎌足が若輩なのは事実で、実績もほぼない。神功五玉を持っていることを田村皇子は知らないのだから。

「殿下は、今回のことは皇位継承に絡んでのことと、お考えなのですか?」

「さて。どうかな。関係があっても、少しも驚きはしない」

 田村皇子はどこか諦めたような顔をした。

「心当たりがないなどと言えるほど、平穏ではないからな」

「……そうですか」

 鎌足は小さく頷いた。厩戸皇子が亡くなって五年の月日が流れたのに、推古帝は未だ、後継者を決めていない。昨年、権勢を欲しいままにしていた蘇我馬子も死亡してしまった。

 蘇我家の意向、天皇の意向、そして各豪族の意向は、未だ固まってはいない。

「とりあえず、現場に案内をお願いできますでしょうか?」

「わかった。私が案内しよう」

「殿下、自らですか?」

 驚きの表情を浮かべる鎌足に、田村皇子はふっと笑って見せた。

「おぬしがおぬしの言うとおり優秀なのであれば、今後、長い付き合いになるやもしれん。それくらいの計算は、私もする」

 鎌足は、静かに頭を下げた。

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