第8話 斑鳩 中
さすがに八歳の時の記憶は、あまり正確ではないと思う。それでも、あの時と同じ風景だと思った。
異国情緒漂う風景の中、斑鳩の土地の力と外つ国の神の力が溶け合っている。それでいて、どちらもどちらかになってしまったわけではないのだ。
もともと違う『力』をひとつに結び付けた厩戸皇子の偉大さに、鎌足は今さらながら、驚きを禁じ得ない。皇子の玉を受け継いだものの、自分が同じことをできるとは、とても思えないからだ。
そして、風景が変わらないということは、力は維持され続けているということだ。
厩戸皇子は、息子たちは『力』を見れないと言っていた。
もちろん、力そのものが見えなくても、祭事は行うことはできるし、信仰は可能だ。神は祈りに応えるもので、力はそれによって安定する。
「会ってくださるかなあ」
鎌足は呟く。
推古天皇は斑鳩を見ろとは言ったけれど、山背大兄王に会えとは言っていない。
しかし、さすがに『見た』から『帰る』では脳がない。いくら、鎌足がまだ大人と呼べない年齢で、神祇官としても、見習いでしかない身であってもだ。
そもそも、里にちょっと入って、ぐるりとあたりを回っただけで、『見た』つもりというのは、あまりにもお粗末かもしれない。となると、やっぱり山背大兄王、そのひとに会うべきだとは思う。
「陛下の名を出せば、会ってくださるかもしれないけど……」
それはさすがに、気が引ける。会えと言われていないのだから。
だいたい、田村皇子にしろ山背大兄王にしろ、今は非常に難しい時期だ。人と会うにしても、かなり慎重になるだろう。
「このような時期ですから、かえって、お会いできるかもしれませんよ」
「そういうものだろうか?」
辰の言葉に、鎌足は首を傾げた。
「鎌足さまは、
「そうかなあ」
神祇伯というのは、確かに天皇にも意見できる立場である。
ただ、正直、政治的な力はほぼないし、山背大兄王は、熱心な仏教徒。もちろん皇族であるから、神祇をなおざりにしたりはしないだろう。だが、御食子本人ならともかく、未熟な息子に会ってくれるかというのは、別問題だ。
「では、このまま、お帰りになりますか?」
「いや、一応、たずねてはみよう」
鎌足は、斑鳩の宮へと足を向けた。
おそるおそる、面会を申し入れた鎌足は、思いのほか、快諾を得ることができた。案内されたのは、かつて、厩戸皇子と会った部屋であった。
あの時は、わけもわからずに父に連れられてやってきた鎌足であったが、今日は自分の意志だ。
部屋の下手に座りながら、あの時とは別の緊張感を胸に抱く。
鎌足のような子供に会う気になった理由は、なぜだろう。
ひょっとしたら、後継争いに優位に立てるよう、父、御食子にとりなしてほしいというような、下心なのかもしれない。政治的には、ほぼ力はないとはいえ、中臣家も由緒ある
天皇の後継は、天皇の意志を尊重しつつ、豪族たちの合議によって、決められることになっている。もっとも、それは建前で、事実上は、大臣である蘇我蝦夷の一存で決まってしまうだろう。
噂によれば、蘇我の一族でありながら、山背大兄王は蝦夷と折り合いが悪く、蝦夷は田村皇子を推していると聞く。父からはっきりと意志を聞いてはいないが、中臣家としても、敏達天皇の直系である田村皇子を推す可能性が高い。
大臣の意向もさることながら、やはり、神祇をなりわいにする中臣家としては、熱心な仏教徒である山背大兄王は推しにくいのだ。
ほどなくして、一人の男が現れ、一段高い位置に座る。
年のころは、十八くらい。顔立ちに厩戸皇子の面影がある。意志の強そうな瞳。穏やかな笑みを浮かべているが、どこか頑なな印象を受ける。魂の力は弱くはないが、まだ、ぼんやりした色だ。
厩戸皇子のような、圧倒的な強さはない。田村皇子と比べてると若いせいか、不安定なゆらめきが感じられた。
「神祇伯の子息が何の用かな?」
にこやかな笑みと共に、山背大兄王は切り出した。
「お忙しいところを、申し訳ございません」
鎌足は額を床押し付けた。
「斑鳩の地について、お教えいただきたいのです」
「斑鳩の?」
鎌足は、まっすぐに山背大兄王を見上げた。
「この地の神は、仏と一体となり、溶け合っております。幼少の折、こちらに参りました時から不思議でございました。神と仏が一つになり、どちらもなくなってはおりません」
鎌足は大きく息を吸い込んだ。
「ひとつのちからが、もう片方を凌駕し、飲み込むのではなく、それぞれが溶け合って一つになっている。このようなことは、とても珍しいことにございます」
「ふむ。残念ながら、私には『神』の力は見えぬ。見えぬゆえ、よくわからぬが」
山背大兄王は首を傾げながら答える。
「父の教えにより、仏法を学び、尊びながら、我らは山や土、川に風。すべてに感謝を捧げながら生きておる。そもそも、二つのもの、とは思っておらぬのだが」
「さようにございましたか」
鎌足は丁寧に頭を下げた。
おそらくは、どちらも否定せず、あるがままに信仰している結果なのであろう。
「ということは、全てを受け入れさえすれば、明日香の寺院もいずれ土地と溶け合う力となりうるのでしょうね」
もちろん、神職である鎌足にとっては複雑な気もする。鎌足にとって、神は『力』だ。時に恵みを、機嫌を損なえば破壊をもたらすものだ。ゆえに、祀る。仏にも『力』はあるが、その恵みを得る方法は、日本の神の『祀り』とは、少し違う。祈りを捧げるだけでなく、教えや戒律などをともない、学問としての側面を持っていて、異質なものである。
「明日香の地の寺院は、こことはそれほどにまで、違うのか?」
山背大兄王の顔に好奇心の色が見えた。
「はい。もちろん暴走するようなことはありませんが、寺院は外つ国の力が宿り、土地の力とは別々のものとなっております。理想を申せば、どちらかを取り除くか、もしくは、斑鳩のように力が溶け合ったほうが、安定いたします」
「なるほどな。まあ、それも仕方ないだろう」
山背大兄王は、肩をすぼめた。
「明日香の仏像は、『飾り』だ。きらびやかな輝きを放つ、富と権力の象徴でしかない」
「飾り?」
あれほど力のあるものを、ただの飾りとはどういう意味なのだろうか。
「なるほど。『力』の見える、中臣の者だからこそ、なぜ、明日香の寺院がそのような状態なのかわからないのだな」
驚く鎌足に、山背大兄王は苦笑を浮かべた。
「仏というのは、きらびやかであろう?」
「はい」
仏にまつわる道具はすべからく、異国の技術がつぎ込まれていて、珍しく、そして美しい。それは、鎌足も知っている。
「多くの豪族たちは、仏は美しく、珍しいから手に入れよう、目にしたいと思っている。仏について、何も知らない。珍しがっているだけでは、『祀る』ことにはならない」
「それは、そうですね」
なるほど、と、鎌足は得心する。
信仰のない『力』だからこそ、浮いて見えるのだ。もっとも、単純に仏を信仰すれば、土地の神の力は、飲み込まれ、消え去ってしまうだろう。やはり、厩戸皇子が斑鳩でなしたことは、すごいことなのだ。いくら玉を持っていても、同じことを鎌足はできると思えない。それとも、『仏』の力とは、もともといる『神』の力を消すことはないのだろうか。
「ところで」
山背大兄王が手招きをした。
「陛下がお倒れになったと聞くが、ご様子はいかがか?」
「……よくは、ありません」
鎌足はほんの少し、前に進み出て、口を開く。
「そうか。それは、困ったな」
山背大兄王は、大きくため息をついた。
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