雪に満月

夏野けい/笹原千波

月から来たあの子

 みんなで仲良く事務所に泊まり込みなんてごめんだった。


 どうせ流れで朝から仕事を始めることになるのだ。明日は土曜日なのに。電車が止まっているのは承知の上で、ひとり暮らしの部屋まで歩く。はらはらと降り続く雪は、馬鹿みたいにゆっくりゆっくり落ちてくる。街灯が真新しい雪を数メートルごとに浮かび上がらせていた。

 凍えた足先は感覚を失いつつある。月も星も見えない空を睨む。道のりは半ばを過ぎたが、日付はすでに変わっている。ほかの交通手段が生きていたらまず歩こうなんて思わない。今夜はバスも電車も運行休止、タクシーはほとんど走っておらず、駅前のロータリーの薄暗い乗り場には長蛇の列ができていた。


 二月に入って日は長くなってきたけれど、夜明けまではまだ猶予がある。休日出勤をするつもりはない。昼まで寝ていたっていいのだ。小さな巣箱のような自分の部屋を思い浮かべる。

 暖房を入れて、しびれるほど温かいお湯で手を洗う。飲み物をまず用意して……ホットミルクかココア、とにかく熱いものがいい。買い置きのクッキーがあったし、かじりながらご飯を作ろう。夜食でも朝食でもかまわない。湯気の立つ何か。最近入手した小ぶりの土鍋を使えばちょうどいいはずだ。


 空想にふけって気を紛らわせていると、少女の声がした。鈴を転がすよう、なんて手垢のついた表現では生ぬるいほどの澄んだ声音が「おねえさん」とだけ私を呼んだ。

 小川を走りはじめる雪解けの水、たとえばそのひとしずく。真夜中の月明かりをひそやかに受け止める湖のおもて。涼やかで清く、かたちのないもの。声が背中に染みとおるまで待って、振り向く。


 雪は降り止まず、大きな白い断片がふわりふわりと舞っていた。なのに、さっきまでは姿もなかった満月が、住宅街の細い道のはてにかかっている。

 街灯の青白い光と月光とを同時に受けて、少女のまとう長袖のワンピースは文字通りに照り輝く。雪よりも明るく銀よりも白い服地は、素材どころか縫い目のありかもわからなかった。真夜中のひと気のない路地にあるまじき光を少女は生んでいた。

 フレアになった裾は風にゆらめくたび、ほのかに金を帯びる。ミルク色の肌をさらした脚に、短いブーツを履いている。寒くないのだろうか。

 彼女のかげに隠れるように、白くてつるんとした物体が見え隠れしていた。およそ生きものとは思えない無機質で均一な表面を持っているが、小刻みに震えては微妙に位置を変える。動物、と呼んでよいものかは知らない。少女はそれを抱え上げる。ウサギの耳のような二本の長い突起が少女の細い顎に触れて、少しだけしなう。さくらんぼ色の薄い唇が開かれた。

 かげりのない声がまた響く。


「やっとヒトに会えた!」

 内容はあまりにひどい、というか。思いつきのいたずら企画のようだった。少女は美声をどれだけ無駄遣いするかに挑戦するがごとく、雑な設定を垂れ流した。


「ヒトを見てこいって言われて下ろされたのに、誰もいなくて! よかったぁ、このまま行き倒れになるかもって思ってたんだ」

 上着も持たない彼女より、厚いコートを着込んだ私のほうがよほど凍えて行き倒れそうなのだが。

「ね、どこ行くの?」

「家に帰ります。ほかにどんな理由でこの寒い中をほっつき歩かなきゃなんないんですか」

「お家! ねぇ、ついていってもいい?」

「ちゃんとあなたのお家に帰りなさい。子どもでしょう」

「地球に降りるのが子どもから若いおとなになるための試験なの。あなたの言う通りにしたら、わたし一生おとなになれない。ね、お願い。一晩だけでいいの」


 ふわり、と彼女は跳躍した。重力に戯れるように、宇宙飛行士の数万倍エレガントに。腕からこぼれ落ちた白い生きものが未踏の雪の上に落ちる。それは不満もあらわさずにぷるりと震えて起き直った。

 少女の身体が放物線の頂点に至る。時間が止まったと錯覚した。はらはらと空間を漂う雪はまるで星屑だった。ワンピースの裾が揺れて、金色のさざ波が幾重にも走る。少女は私の目の前に降り立つ。冷え切った手を握られた。手袋ごしでもすぐにわかるほど温かい。

「あれっ、冷たい。人間って恒温動物でしょ?」

「この天気じゃ仕方ないでしょう。末端まで温められるほど人間の熱生産は効率的じゃないんだから」

「その服、重そうなのにあんまりあったかくないんだね」


 無邪気と言っていいのだろうか。濁りのまるでない声に皮肉の色はない。少女の手から伝わる熱は、つららのような私の指をとかし、血をめぐらせる。ついでにほだされてしまったのだろうか。私はもう振り切って帰ろうなんて思わなくなっていた。

 少女はいちど私から離れ、自分の腰に手をやって、縫い目を探るような動きをする。スカートから一枚の布地が剥離する。ちょうど玉ねぎをむくように。

 肩に触れても重さひとつ感じないのに、春のあたたかさが身体に満ちる。少女は布を私に着せ掛けた格好のまま、とろけたホワイトチョコレートもかくやと微笑んだ。


「どう、温かくなった?」

「すごく。でもあなたは寒くならないの」

「ちょっと涼しくなったかな」

 私はゆっくりと帰路をたどりはじめる。少女は隣に並んで歩く。

「あなた、どこから来たの?」

 問うと少女は振り向いて、また雲に隠れはじめた月を指さす。

「だからウサギをつれているわけ」

「ウサギって、この子のこと?」

 再び足元をちょろちょろと動き回るようになった、それ。

「この子はね」

 少女は名前を言ったらしかった。しかし声というより器楽の響きであり、私では何度聞いても再現できないだろうと予想がつく。

「地球人には発音できないな」

「うん、そんな気がした」

 次いで少女が名乗ったが、それも私は聞き取ることすらできない。私も自分の名前をゆっくりと発音してみる。少女は困ったように首を傾げた。

「名前は翻訳されないみたい」


 そこからの道のりは、やたらと短く感じた。空はまだ暗く日の出の気配はない。アパートの外付け階段を上り、冷え切った部屋の鍵を開ける。

 給湯と暖房のスイッチを入れて、私のショールになっていた布は少女に返した。たちまち寒さが指先を凍りつかせる。蛇口から流れるお湯をぱちゃぱちゃともてあそぶ少女に手を洗わせる。ハンドソープもつけて。


 電子レンジで温めただけのホットミルクを座卓に並べて、二人で飲んだ。少女は薄く張った膜を神妙な顔でもぐもぐと食べる。なぜかきちんと膝を折って正座をしていた。空腹で痛かった胃が落ちついたのを見はからってキッチンに立つ。

 元々今日は雨の予報だった。冷たく濡れて帰ることは承知で、鍋の材料だけは昨日のうちに仕入れていた。半切りの白菜に、豚肉。剥がした葉に肉を挟んで鍋の高さに切り分ける。味付けはたぶん、顆粒ダシと塩コショウで事足りる。ダシを溶かした水をコップ一杯入れて蓋をした。火にかける。換気扇が低く唸った。


 少女はまだマグカップを抱えている。隣に寄りそう生きものは、餅のようにぺったりと床に身体を広げている。思い立って切り餅を包丁でひと口大に割った。

 鍋が湯気を立てはじめる。もう少しで完成だろう。中の様子を確認するついでに、餅のかけらを放り込んだ。鍋敷きはどこにやっただろうか。

 鍋敷き探しのついでに白い陶製のお椀を用意する。誰を呼ぶ予定がなくても食器を二揃い買っておいてよかった。土鍋からは湯気がさかんに吹いている。


 床に丸まって眠っている一人と一匹をそっと揺り起こす。もっとも白い生きものに目はなく、果たして睡眠を必要とするのかも計り知れない。触り心地は大福に似ていた。すべすべ、もっちり。やっぱり餅なんじゃないだろうか。

 蓋を開ければ、もうもうと立つ湯気に少女は目を輝かせた。白菜はくったりとしてダシの色にうっすら染まり、肉はしっかりと火が入って食べごろを知らせている。食材から出た水分が全体をひたひたと覆っている。良い出来だ。

 けれど少女は、中に散らばるとろけた餅を見た瞬間に顔が曇る。生きものを抱き上げてひっくり返したり撫でたりして確かめている。


「いや、さすがにそれはしないって。餅って食べ物。この国ではね、月にはウサギが住んでいて餅をついているって伝説がある」

 少女はなおも不審そうである。よそったお椀を渡しても、指先で餅をつつくばかり。私が黙々と箸を動かしていると、ようやくひとかけらをつまみあげる。白菜だった。フォークを用意してみたが、使わないようだ。熱いだろうに気にならないのか。口に入れたとたん、目がぱっと大きくなる。その指が餅に伸びかけた。


「あ、餅はゆっくり食べて。喉につまって死人が出るのは毎年なんだ」

 少女はぎくりと身を固めた。

「なんでそんな恐ろしいものを」

「おいしいからさ」

 慎重に、ゆっくりと餅を噛みしめた少女がゆるやかに、白い生きものに目を落とした。生きものが視界から逃れるように身じろぎする。そいつを食べておいしいかどうかは、私も知らない。

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