第九話 水平線の向こう側〈サファイア〉
「ねぇ、次は海に行こうよ」
そう彼女は朗らかに、旅行雑誌に目を落としながら言った。すでにたくさんの付箋が付いているそれは、彼女が先月入院した時に頼まれて買って来たものだ。
「私の目が見えるうちに、ね?」
退院してまだ三日と経たないうちに彼女はそう言いだした。振り返った彼女の右に流された長い前髪。それをそっとかき分けると、鮮やかな青色の石が顔をだす。彼女は元々美しい青い瞳を持っていたが、それは時と共に、彼女の瞳のような優しい青から、冷たく透き通る海ような青い石へと変質していった。
サファイア――青き清浄の石。
彼女は右目を含む、顔の上半分と体の所々をその石に奪われてしまった。日々進行する症状に対して、効果のあるはずの薬も効いてるのかどうかわからない。先日倒れた原因は結局はっきりしないまま「鉱石症の悪化による体力消耗、それによる過労状態に近い状況」と言う診断が下された。
「海って言ってもどこが良いかな? うーん…… オーロラ見に北の方には行ったから、今度は南が良いなぁ」
石になってしまった彼女のこめかみ指でなぞる。神経はすでに石になってしまったらしく、触った感覚はないらしい。なぞる指の腹に冷たいような温かいような、鉱石症独特の体温が伝わってくる。
「東南アジアとか? あ、サンゴ礁とか見て見たくない?」
そうだね、良いかもしれない。と言いながら指を離し、彼女の頭に手を伸ばす。
「……また、そんな顔してる」
この髪の下も所々石になりつつあるらしい。世界には髪が一本一本、柔らかなまま石に変化した人もいるらしい――そんなことを思って彼女の髪をなでている時だった。
「えっ、ごめん」
そんな顔、それは彼女が心配する「俺の悲しそうな顔」のことだろう。彼女が倒れた後、という事もあってか無意識のうちにそういう顔になっていたのかもしれない。せっかく彼女が元気な姿を見せてくれているというのに、これは良くない俺の癖だ。
まーた謝ってるー!と彼女はふくれっ面をしながら
「……時間が限られてるから、楽しめることも多いでしょ?」
と言って優しく彼女ははにかんだ。
「幸せの王子ってお話知ってる?」
あぁ、知っているよ。君と同じサファイアの目を持った銅像の話だ。
「そう、あのお話の王子様って、自分の体の宝石を貧しい人に分けてあげてさ、その後は心無い人に倒されちゃうんだけど、最後はキチンと幸せになれるじゃん。私もきっとそうだと、思うから……」
少しだけ彼女の声が弱くなる。うつむいた彼女の表情は髪の毛に隠されてうかがい知ることはできなかった。
「それに」
そう言って顔を上げると、
「王子は辛い時間があるけれど、君が一緒なら、私はずっと幸せだし、どんなことだって楽しんでいけるから」
だから、そんな顔しないで?と言ってこちらを向いた彼女の左の目元には、煌めく雫があった。
「どこへでも行こう。北から南まで、世界の果てまで一緒に行くよ」
僕は彼女を抱きしめながら、静かに涙を流さずにはいられなかった。
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