第十話 忘れないで〈トルマリン〉

「もう、長くはないでしょう……」

 この世でこんなにも残酷な響きを持つ言葉があっただろうか。診察室で医師が告げたその言葉は、私の中に鉛のような煮え湯のような、重く苦しいものとして流れ込んでくる。

 他のご家族にも連絡をしたほうが良いかもしれません。そう言った医師も辛そうな顔をしていた。彼氏が入院して、早一か月が経とうとしている。職場で倒れた彼の体はトルマリンと言う水色の、驚くほど美しい石に変わっていた。彼は病院にも通いつつ、仕事を続けていたらしい。私には隠して。

 私は一体、どんな顔をしていたのか分からない。色々な感情がないまぜになって体の中をめぐっているせいなのか、あまりの衝撃に呼吸を忘れているせいなのか、辺りの物音が私を置き去りにする。

(やることは、やらないと……)

 フラフラする体と頭に鞭を打って、診察室を後にして互いの両親に連絡を入れる。幸い連絡は直ぐについたため、みんなすぐに来てくれるようだ。暗くなったスマホの画面には今にも泣きだしそうな自分の顔が写りこんでいる。

 彼の病室までの廊下が、やたら長く感じる。こんなに足取りが重かったことは無い。しかし、この状況が分からなかった訳でも、予測できなかった訳でも無い。だからこそ、両親や親しい友人たちに声をかけることも出来たし、声をかけられた側もこちらに向かうことができるのだ。それでも、この結末だけには、なってほしくなかった自分がいる。

 彼の入院している部屋の前で、私はドアを開けられずに立ち尽くしてしまった。辛い、彼が居なくなってしまうかもしれないことが。怖い、このことを彼に伝えるべきか否か。考えることを放棄してしまいたくなる。

 意を決して扉を開ける。個室のカーテンの奥で、ぐったりと横になる彼は眠っているようにしか見えなかった。その隣に置かれた丸椅子に腰かけると、一気にいろんな感情がこみ上げてきて堰を切ったように溢れた涙。声を殺して彼の横たわる布団に顔を埋めるしかできなかった。

「泣か、ないで」

 そう言って彼のほとんど動かなくなった手が、私の頭を優しく撫でた。途切れ途切れのその言葉が、全てを、もう間もなく訪れようとしている最期を物語っている。「ねぇ」と息交じりの微かな声がして、私は涙を拭って彼に笑顔を向けた。

「うん、なに?」

「……」

 もはや声になっていない彼の言葉。ゆっくりと動く唇が、最期に静かな微笑みに変わった時、病室には無機質な心電図の停止音が響いた。私は涙に溺れそうになりながら、彼の言葉に嗚咽しながら頷くことしかできなかった。

 彼の優しいほほえみを、最期の彼の言葉を、私は生涯忘れないだろう。

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