第13話 1+1

 薬局で必要なものを買って部屋に戻ると、玲はベッドの中で静かな寝息を立てて眠っていた。僅かに頬が紅潮し、額には玉のような汗が滲んでいる。

 買い物袋の中から冷却シートを取り出し、そっと彼女の額に貼ると小さく呻いたが、目を覚ます様子はなかった。

 薬やスポーツ飲料水の入った買い物袋をそのままテーブルの上に置くと、途端に手持ち無沙汰になって私は部屋を見渡した。玲が寝ている以上、テレビをつける事も出来ない。

 結局、静かに試験勉強をすることにした。まとめていたノートを読み直し、一度でも躓いたところを繰り返し反復する。

 そのまま復習に集中してふと気づくと、時計は午後七時を指していた。玲はまだ起きる気配を見せない。

 そろそろ起こすべきだろうか。しかし、以前に玲が言っていた言葉が脳裏をよぎった。

 父子家庭。

 関係は冷えきっていて、互いに無関心。

 そして、こうも言っていた。父親は殆ど外で食べてくる。門限はない、と。

 玲を起こしてタクシーで送ったとしても、恐らく自分自身で夕食を用意せねばならないだろう。家族が家にいるならともかく、どうせ一人ならばよく眠っているところをわざわざ起こす必要性はないように思えた。

 そっと部屋の明かりを消して、廊下に付随している狭いキッチンに移る。この時間ならばついでに夕食も用意したほうがいいか、と考えて私はお粥でも作ることにした。

 室内が静かであるため、物音が妙に大きく聞こえた。いつもは隣の部屋でテレビや音楽をかけっぱなしにするため、不思議な感じがした。

 そのまま三十分ほど経った時、不意に横から声が届いた。

「今、何時?」

 振り返ると、ベッドで上半身を起こした玲が暗闇の中からこちらを見ていた。

 私は鍋の前に立ったまま、つけっぱなしだった腕時計に視線を落とした。

「七時半過ぎ」

「七時半……」

 玲は周囲を見渡して、それから額を押さえた。

「頭、まだ痛む?」

「ううん。大分マシになった。ごめん」

「夕飯のお粥作ってるんだけど、食欲ある? いらないなら俺が二人分食べるけど」

「……いい香り……うん。貰う」

 弱々しい声。

「もうちょっと寝てたら? 後十分くらいかかる」

「うん」

 沈黙が落ち、鍋の音が妙に大きく響いた。

「ねえ」

 小さな玲の声。

「サークル、行かなかったんだ」

 その話があまりにも唐突に思えて、私は思わず振り返った。

 キッチンの明かりが漏れ、ベッド上で上半身だけを起こした玲の瞳が私を真っ直ぐ捉えているのがはっきりと見えた。

「サークル?」

「日向さんと話してたでしょ。結局、行かなかったんだ」

 三コマ目の後の話だろうか。廊下ですれ違いざまに日向が何か言っていた気がする。ほぼ一方的な会話だったが。

「ああ、忘れてた」

「ふうん」

 途端に玲は興味を失ったように横になり、そのまま寝返りを打つ。

 彼女はそれっきり喋らなくなり、私は黙々と出来上がったお粥をお皿に盛りつけた。

「出来たよ。どうする? 後にする?」

「……今もらう」

 玲はそう言って、もぞもぞとベッドから降りた。

「お粥。炊飯器で作ったんじゃないんだ。初めて来た時は鍋すらなかったよね」

 器を覗き込み、意外そうな顔をする玲。

「最近はそこそこ自炊するようにしてる。ああ、無理に全部食べなくていいよ」

「うん」

 ゆっくりと食べ始める玲を眺めてから、私も自分の分に手を延ばす。

 暫く、静かな食事が続いた。

 様子を見ている限り、玲の状態は大分回復しているようだった。食欲もそれなりにあるらしい。

「父親には連絡した?」

 食べながら、気になっていたことを問いかける。

「まだ」

 玲は短く答えて、食事を続ける。やはり、という思いが私の中にあった。

「いいよ、別に。いつ帰ってくるかわからないし、顔合わせない日のほうが多いくらいだし」

 あまりにも素っ気ない返答。

 その素っ気なさが、私には強がっているように映った。だから、自然と口が動いた。

「……泊まっていけば?」

 私の言葉に、玲が動きを止める。

「今日中に熱は下がらないだろうし、ゆっくり寝てればいい」

「……迷惑じゃない?」

「二十四時間看病するわけじゃないし」

 沈黙。

 玲の瞳が迷うように動いて、それからすぐに私を見た。

「いいの?」

「いいよ。必要なものがあれば言って。買ってくるから。あ、歯ブラシならまだ使ってない予備とかもあるけど」

「……ありがとう。でも、今は何もいらないかな」

 私は頷いて、食事を再開する。それを見た玲も、止まっていた手を動かした。

 暫く無言で食事を続けて、玲はお粥を完食した。

「ごちそうさま」

「市販薬だけど、一応薬買ってきた」

 私が薬を渡すと、彼女はだるそうにそれを飲み込んだ。そのままふらふらと立ち上がる。

「ごめん。寝る」

「うん。おやすみ」

 ベッドに倒れこむ彼女を横目に、夕食の後片付けを始める。

 明日になっても恐らく熱は完全には下がらないだろう。洗い物をしながら、明日の予定を確認する。

「明日、休む? それなら起こさないけど」

「……うん。休む」

「わかった」

 私は頷いて、そのまま最後の鍋を洗った。それから乾燥機に突っ込んで、部屋に戻る。

 時計は午後九時を指していた。寝るには少し早い。

 机のスタンドライトをつけて試験勉強を再開する。必修科目を念入りに。

 暫く机に向かっていると、背後から声がかけられた。

「ねえ」

 振り返ると、ベッドの中から玲がこちらを見ていた。

「京は、どこで寝るの?」

 どこか探るような言い方だった。

「下で適当に寝るよ」

 即答すると、沈黙が落ちた。

 ベッドの中の玲の視線が、部屋中を舐めるように彷徨った。

「……知ってる? 風邪って他人に移した方が早く治るんだって」

 完全に不意打ちだった。

 一瞬、頭の中が真っ白になった。

 私は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。

「……なら、一緒に寝ようか」

 言ってから、失敗したのではないか、という思いが湧いた。

 しかしすぐに杞憂だとわかった。

 玲は口元を隠すように布団をかぶって、うん、と小さく答えた。

 薄暗い部屋の中、玲がもぞもぞと動き、私のためにスペースを空ける。

 私は手に持っていたペンを机に転がして、スタンドライトの明かりを消した。

 ベッドに向かい、そっと中に潜る。

 すぐに玲の手が腕に絡んできた。

「……風邪の時ってさ」

 囁くような声で、玲が言う。

「人肌が恋しくなるよね」

 そう言って身を寄せる玲は、ひどく幼く見えた。

 時々、彼女は驚くほど幼く見える時がある。

 だから普段の傲慢とも言える振る舞いも、私には気にならなかった。

「……ああ」

 そっと後ろ髪を撫でると、玲は気持ちよさそうに目を閉じた。

 それから、玲の目がゆっくりと開いた。

 どこか粘着質な視線が暗闇の中、じっと私に注がれるのがわかった。

「普段はあんまり言わないけどさ」

 そう前置きして、玲は妖しい笑みを浮かべた。

「私、京のこと好きだよ。怖いくらいに」

 そして、唇に柔らかいものが触れた。




 朝。

 昨夜と同じように試験勉強をしていると、背後のベッドで玲が動く音がした。

「おはよう」

 手を止めて振り返ると、玲と目が合った。

 彼女は少しだけ恥ずかしそうに笑うと、眠そうに上半身を起こしながらキョロキョロと周囲を見渡した。

「……おはよう……ごめん、今何時?」

「十一時半。お昼前」

「……そんなに寝たんだ、私」

 寝癖を気にするように頭を抑える玲は、昨日に比べて顔色が良い。

「熱、測ったら?」

「あ、うん」

 ベッド横のミニテーブルに乗っていた体温計を玲に向かって放り投げると、彼女は上手くそれを受け取ってもぞもぞと服の中に体温計を滑りこませた。そこで彼女は不思議そうに私を見た。

「京って午前の講義なかったっけ?」

「自主休講にした」

 玲は一瞬意外そうな顔をした後、ふうん、とだけ呟いてごろんとベッドに寝転がった。

「ただの風邪なのに」

「大事な講義でもなかったから。解析とかだったら行ってたよ」

「解析、か。そんなに不安?」

「自分の理解度がよくわからない」

 正直に言うと、彼女は笑みを浮かべた。

「理解した、なんて思わないほうがいいよ。どうせあとで全部引っくり返されるんだから」

 そして、彼女はだるそうに寝返りを打ちながら仰向けになった。

「全ては暫定性の上に成り立ってるんだよ。教科書の解説なんて、その場限りの嘘っぱちばかりじゃない。数式と証明以外は話半分で聞くべきだよ」

 そこで体温計の電子音が響いた。体温計を取り出した玲が機械的に数字を読み上げる。

「七度二分」

「頭痛とかは?」

「何もなし」

「安心したよ。テレビ、つけていい?」

「うん」

 テレビの電源をいれると、昼のニュースがやっていた。

『欧州を中心とした局所的バブルは今後、大きく広がる恐れがあり――』

 アナウンサーの淡々とした声。それに混じるように、玲の声が届いた。

「京のにおいがする」

 からかうように笑いながら玲が毛布に顔を埋める。

「……ごめん。洗っておく」

「悪い意味じゃないって。なんかさ、落ち着くよ」

 玲はそう言ってそのまま目を閉じる。

「ごめん。もうちょっと寝る」

 その言葉に毒気を抜かれて、私はキッチンに向かった。

「午後から大学行くから、昼食だけ用意しておく」

「うん。ありがと」

 簡単な料理だけを作って、私は家を出た。

 よく晴れた空。

 暑い。

 ふと思い出して、太陽に手をかざす。

 手のひらが赤く見えた。

 秋月さん風に言うならば、赤く経験された、というべきか。

 とても小さかった頃、こうやって無意味に太陽を見上げた気がする。

 空を見上げなくなったのは、一体いつからだろう。

 すぐに大学の敷地に到着する。駐車場を抜けて、そのまま学舎の中へ。

 フロアを移動し、目的の講義室に一直線に向かう。中に適当に知り合いの学科生のグループを見つけて、近くの空いている鞄を下ろす。

「この席いい?」

 そう言いながら、私は席についた。

「いつもの彼女さんは?」

「風邪ひいて休み」

 話している間に講義が始まる。時間ぎりぎりだったようだ。

 適度にノートをとりながら、適度に力を抜く。

 板書がまとまっていない教授だ。レジュメも不要なものが多い。必要なものだけチェックして、後は廃棄のための印をつけていく。

「この教授、後期もあったよな」

 うんざりしたように隣の人が耳打ちしてくる。同意見だった。

 終盤になって、範囲と重要度の説明が始まる。午後からだけでも出席して正解だったようだ。

 そのまま講義が終わり、私は真っ先に席を立った。

「じゃ」

「おう」

 廊下に出て、そのまま一階のフロアへ向かう。

 置いてきた玲のことが気になった。熱も殆ど下がり、それほど心配はいらないと思ったが、病人であることに変わりはない。

 外は太陽が眩しかった。

 空調との効いた室内との気温差が激しく、自然と汗が滲み出る。

 引っ越してから殆ど毎日通っている道。見慣れたそこを進めば、十分も経たずに家に着いた。

「ただいま」

 玄関から中を覗くと、ベッドで寝る玲の姿が見えた。

「おかえり。早いね」

 だるそうな声。

「徒歩十分だから」

 そのまま本棚に向かい、教科書を取り出す。

「また勉強? 京って結構真面目なんだ」

「すべき事はしておかないと」

 テーブルの前に腰を下ろし、ノートを開く。

「ね、ちょっとだけなら手伝えるよ、私」

 ひょこ、と玲がベッドから身を乗り出す。

「……玲は、自分の分はいいのか」

「うん。まあ、今のレベルならそんなに」

 玲はそう言って、余裕のある笑みを浮かべる。

 この時、私は随分と自信過剰だな、と玲を危惧した。危ういと思った。

 しかし、私のその危惧は無意味なものだと、すぐに判明する。


 前記試験。解析学Ⅰ。

 数学科一年生の受講者のうち、及第点に達した者は僅か三割に満たなかった。

 必修科目の中で最も重要な科目であるこれを落とした者は七割にも昇り、後期における補講が決定した。カリキュラムの都合上、この全体の七割の学科生は後期で再び単位を落とせば留年が決定する事になる。

 玲はその中で、最高得点に近い得点を叩き出した。

 Webサイトに貼りだされた膨大な数の補講決定者。それを見ていた玲がクスクスと笑う。

「うん。やっぱり京も合格したね」

 私の学籍番号は、補講決定者のリストの中にはなかった。

 殆ど欠番がなく続く学籍番号。その膨大なリストは、単純な事実を示していた。

 才能の有無である。

 得意科目を聞かれれば真っ先に数学と答えたであろう人々。高校の時は数学において学年でトップレベルの成績を維持していたであろう人々。教育カリキュラムから外れた数学書籍を好んで読み漁っていたであろう人々。

 その七割は、たった半年間の講義についていけず脱落していた。

 これは、明確な振るい落としだった。

「まあ、早めに適正の有無がわかったほうが親切だよね」

 玲は補講者リストを冷ややかに見つめながら、それから興味を失ったようにブラウザを閉じる。

 そして、いつもの酷薄な笑みを浮かべるのだった。

「ねえ、どこか遊びにいこっか」

 夏季休暇が、始まる。

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