第11話 閾値
「雨、多いね」
その日も雨が降っていた。講義室前の傘立てに傘を置いたところで、後ろから玲の声がした。
「梅雨入りしたらしいね」
振り返ると、雨に濡れて髪がくしゃくしゃになった玲がいた。彼女は潰れた髪型を気にするようにいじりながら、最悪、と呟いた。
「傘は?」
「持ってきたけど、完全に横雨だったから全然意味なかったし」
傘立てに傘を無理やり入れながら、玲はそう言って不機嫌そうに講義室に入る。私もそれに続いて、適当に空いている席に座った。教養科目であったため、私も玲もあまり講義自体に興味はなく、講義が始まるまでの間、あまり見慣れない別の学科生たちをぼんやりと見つめた。
「ね。雨の中、どうやったら一番濡れないかな」
突然、玲がそんなことを言い出した。
「体を小さくして走るのが一番じゃないかな」
私の言葉に玲は小首を傾げて、本当にそうかな、と呟いた。
「走ると、前方向の雨を体が吸収するよね。腕と足も大きく降るから、より多くの空間を占有して、その分の雨を受けるじゃない」
「まあ、そうだけど。歩くよりはましじゃない?」
玲は黙りこむと、じっと前を見つめて動かなくなった。
付き合って二ヶ月。
大学でほぼ毎日顔を合わせている為、彼女のこうした動きが既に気にならなくなっていた私は前回のレジュメをぱらっと復習することにした。
講師が入ってきて講義が始まっても、玲はうわの空だった。教養科目であるため、講義室にいる学生の殆どにやる気がなく、特別玲が浮いているわけではなかったので、私は何も言わなかった。
講義が始まってから十分ほど経った時、不意に玲がルーズリーフに何かを熱心に書き始めた。
数式だった。
中身自体は簡単なもので、いくつかのパターンを書き出しているようだった。暫く彼女はそうやって熱心に書き続け、時々考えこむようにペンを止めたかと思うと、何かを思いついたように再びペンを走らせる。そんな様子が十分ほど続いた後、彼女は満足そうにルーズリーフを私に押し付けた。
「人間を立方体、雨粒も均一に存在する。雨は等速運動で降ってくる、と仮定しよう。こうやって、側面と上部で分けて考える」
数式を指しながら、彼女が小声で楽しそうに説明する。
「ほら、単位時間あたりでは、走ったほうが濡れる。でも、もちろん、走った場合は濡れる時間が減少するから、合計では濡れない。これは感覚的に納得できるよね。じゃあ歩いたら得する場合、走ったら損する場合の閾値はどこだろう」
私は、ちら、と講師の方を見た。講師は気にすることなく独り言のように講義を続けている。
「雨の傾きを操作してみる。どんどん傾けてみる。側部の影響が大きくなって、上部の影響は徐々になくなる。横殴りの雨。ほら、ここ。走ると余計に濡れて、歩くと逆に濡れないようになる。次に、雨の密度も操作して、目的地までのトータルで濡れる量の影響差を縮めてみる。どんどん縮める。これで雨の中を歩く方がどんどん有利になった。この二つで現実的な値を探してみると――」
そこで、講義室に一人の影は入ってきた。日向だった。
途中で顔を背けた私に釣られるように、玲も話を止めてこそこそと入ってくる日向に目を向けた。講師は途中で入ってきた日向を気にすることなく、独り言のように講義を続けている。
「ここ、いい?」
小声でそう言って、私と玲が何か言う前に日向は空いていた前の席に腰を下ろした。
「雨で道が凄い混んでてさ」
日向はそう言いながら荷物を置いて、前列に置いてあるレジュメをとりに向かう。私はそれを見送ってから、玲に視線を戻した。
「えっと、現実的な値を探すと、どうなるの?」
「……もういい」
玲は不機嫌そうに、ルーズリーフを足元の鞄に突っ込んで、それからつまらなさそうに頬杖をついた。レジュメをとりにいった日向が小走りで前の席に戻ってくる。
「Webに正解全部載せてくれるからこの講義楽だよね」
日向が嬉しそうに話しかけてきて、私は思わず苦笑した。
「逆に面倒じゃないか、それ。聞きながら書いてる方が頭に入る」
「後でやったほうがお菓子食べながら適当にできるじゃん」
日向はからからと笑って、それから講師の方を気にするように笑い声を抑えた。
私は隣の不機嫌そうな玲が気になって、ペンを止めた。日向はそれに気づかず、あるいは気にしていないのか、小声で話を続ける。
「今日もイラストサークル出るの? 私も出ようかなって思ってるんだけど、誰もいないと寂しいからさ。部長は毎日来てるんだよね?」
「……谷口部長は、デートがある時以外は全部来てるんじゃないかな」
「そっか。あの人、あまりそういうの出さない人だよね。なんか余裕あっていいな、そういうの」
玲は、喋らない。彼女は、私以外の人間と殆ど喋らない。人見知りなのか、日向のようなタイプの人間が嫌いなのか。あるいは両方かもしれない、と思った。
結局、玲は講義が終わるまで一言も喋らなかった。
「今日は私もサークル出るから」
廊下で日向と別れた後、玲は開口一番にそう言った。
「え?」
「京があの人といるの、嫌なんだけど」
玲が睨むように私を見上げる。以前にも似たようなことを言っていたのを思い出し、私は適切な言葉を探した。
「……俺は、その気ないよ。信じられない?」
「京の気持ちは関係ない。あの人が、京をそう言う目で視るのが嫌。耐えられない」
「日向には、多分、そういう感情はないと思うよ」
そのはずだった。高校時代でも、日向との接触は殆どなかった。イラストサークル内でもそれほど親しいわけでもなければ、二人っきりで食事に行ったことも誘われたこともない。こちらから誘ったようなこともない。
「そう。そういう感情はない。優ではない。でも、可、なの。勢い、雰囲気、流れ。そういうもので、可、になるの。もしかしたら、優、になるかもしれない。不可、ではないでしょ。その可能性が許せない」
玲は苛々するようにそう断言した。私は彼女の言葉を咀嚼しながら、慎重に言葉を選んだ。
「……別に、一緒に食事に行ったりとかはしないよ。でも、同じサークルに参加しているんだから、部室で顔を会わせることは仕方ない。そんなことでサークルを辞めたら、何もできなくなる」
「わかってる。私、別に無理を言うつもりなんてない。だから私もただサークルに出るってだけ。なに。それも嫌なの?」
「そういうわけじゃ。でも……暇じゃない?」
「いいよ。私、気にしないから。次、遅れるよ。行こう」
話を打ち切るように、玲が歩き出す。私は少し迷った後、言葉を繋げた。
「玲。次の休み、どこか行こうか」
玲は僅かに驚いたように振り返る。
「まだ詳細は決めてないけど、予定だけ空けといて欲しい」
彼女の表情に喜色が彩り、それから彼女は弾けるように笑った。
「部分点。加点」
全ての講義が終わって一階のエントランスホールに来た時、隣を歩いていた玲が不意に立ち止まった。
「先行ってて。トイレ」
私は頷いて、そのままエントランスから外に出た。外はまだ雨が降っていて、どんよりとした雨雲が頭上を覆っていた。
傘を開いて、部室のある棟に向かう。その途中、人影が見えた。傘も差さず、雨天を見上げる影。
その人影が秋月さんであることに気づいて、私は足を止めた。
秋月さんは雨を気にする様子もなく、頭上の雨雲に向かって右手を突き上げたまま動かない。
「秋月さん?」
近づくと、彼女はひどく緩慢な動作で私の方を振り向いて、目元にへばりついた黒髪をそっとかき分けた。
「通常、固有色は、私達にはその固有色とは異なった光で経験される」
彼女は唐突にそう言った。
ざーざーと五月蝿い雨音の中、それほど大きくない彼女の声は不思議とクリアに聞こえた。
「空にかざした手は、晴天であるならばスカイライトを浴びて変色し、コントルジュールによってフォームが浮かび上がる。でも、それだけじゃ正しくない」
秋月さんは雨の中、ゆっくりと腕を下ろしてそれを私に向けた。
「血液中のヘモグロビン、筋肉に含まれるミオグロビン。この二つの色素によって、太陽にかざした手は視覚によって赤く経験される。物体中のこうした特異性がわかっていない限り、環境光だけで全ての光を捉えることは難しい」
そして、彼女は無表情に言った。
「観察していたの。雨の中、空にかざした手。それを、私はまだ経験していない。だから、観察していたの」
「……風邪、ひきますよ」
秋月さんは表情一つ変えることなく、それもいい、と答えた。
「風邪という状態が視界に与える影響を、私はまだ良く観察できていない」
「……せめて、傘だけでも」
私が傘を彼女に向かって伸ばそうとした時、彼女の黒い瞳が私を正面から捉えた。
「いらない」
不要な影できる、と彼女の拒絶を受けて、行き場を失った傘が私と彼女の間で止まった。
肩に降り注ぐ雨が冷たかった。
「経験と訓練が、必要なの。訓練を受けていない人は、アスファルト、コンクリート、曇天。そうしたグレーの色彩を捉えられない。グレーの中に混じる色合いを捕まえるには、訓練と経験が必要。あなたは、あの雨雲の色が見える? 私には見える。決められた訓練を順番に行ってきたから。これも、構造を捉える為の訓練なの。放っておいてくれないかしら」
「訓練……」
私は何も言えなくなって黙り込んだ。
彼女は私を無視するように再び手のひらを雨雲に向かって突き上げる。
ざーざー、と雨は弱まる気配を見せず振り続けていて、雨音だけが私と彼女の周囲を支配していた。
「見えなくなったの」
ぽつりと、秋月さんが空を見つめたまま言う。
「昔は見えていたはずのものが、いつの間にか見えなくなってしまったの」
私は彼女の言葉の意図がわからず、何も言わずに次の言葉を待った。
「太陽の絵を描く時、幼い頃の私は真っ赤なクレヨンを手に取っていたの。その赤は一体どこから出てきたのかしら」
雨に濡れた彼女の横顔は、どこか泣いているようにも見えた。
「見えていたはずのものが、死が近づく度にどんどん見えなくなっていくの。忘れていってしまうの」
見えていたはずなのに、と彼女は呟いて、それから何も言わなくなった。
後には雨音だけが木霊して、私は傘を持ったまま動けなくなっていた。
彼女の言葉が、遠い情景を思い出させた。
記憶もあやふやな、遥か昔の、しかしとても懐かしい何か。
何かが沸き起こりそうになって、しかし、それはすぐに過ぎ去って、何も掴めない。
「京?」
不意に、玲の声がした。
振り返ると、傘を差した玲がいた。
「秋月さん……?」
私のすぐ横にいる秋月さんに気づいて、玲も近寄ってくる。しかし、秋月さんは玲を無視して、空を見つめ続けている。
玲はじっと秋月さんを見た後、私の手を取った。
「京、行こう」
私は迷うように、雨に濡れる秋月さんを見た。
「いいから。邪魔しちゃだめ」
邪魔。
その言葉を受けて、私は彼女の邪魔をしているのだ、とようやく自覚した。
「ああ……」
自然と、意味のない相槌が喉の奥から飛び出した。私は玲に引っ張られるようにして、秋月さんに背を向けた。
「かわいそうな人」
最後に、小声で玲はそう呟いた。
私は思わず、玲を見た。玲は前を向いたまま、言葉を続ける。
「ああいう人って、どこに到達しても満たされないんじゃないかな。それはきっと、限界を作らない芸術家としての才能だよね。でも、人としてはとても不幸」
雨の中、私は玲の言葉の意味を考えて、うん、とだけ答えた。玲はそれ以上、何も言わなかった。
部室のある棟に辿り着いて、傘を閉じる。玲は鬱陶しそうに濡れた前髪を払うと、それから微笑んだ。
「今日は何か描くの?」
「……良い数字があったら」
私の言葉に彼女は何故か嬉しそうに笑って、それから廊下を進んでいく。私もその後を追って、部室に入った。
中には、谷口部長と日向がいた。
「あれ。日影さん珍しいね」
谷口部長が玲を見て意外そうな顔を浮かべる。
「遊びに来ました」
玲はそう言って、愛想笑いを振りまく。普段ならそのまま邪魔にならないように端っこにいる事が多いが、今日の玲は携帯を手に私にひっついてきた。
「ね、京、これどう? なんか面白い色とかない?」
彼女が見せてきたものは、円周率を延々と記述したサイトだった。画面いっぱいに数字が羅列し、数学嫌いな人が見れば頭痛がしそうなものだった。
「円周率はあまり真剣に見たことないな」
私は彼女の携帯を覗きこんで、初めて見る色合いを探した。自然と玲との距離が近くなる。
「……熱いね」
谷口部長の呆れたような声。それから私は何となく日向の方を見た。日向はこちらに興味なさそうにデフォルメされたうさぎの絵を描いている。
「ほら、ここは。同じ数が続くところ」
玲がますます距離を縮め、身体が完全に密着する。
私は玲の意図をようやく理解して軽い疲労感に襲われた。
今日は、何も描けそうになかった。
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