第12話 グラフ理論

 連日のように雨が降っていて、洗濯物が溜まる一方だった。

 じとじとした部屋で干すことに抵抗感があった為、その日、私は講義後に一度家に戻ってから近所のコインランドリーに洗濯物を突っ込んで、それから時間潰しを兼ねて部室に向かった。

 部室には秋月さんしかいなかった。私がドアを開けると同時に彼女は絵を描いたまま目を合わせず口を開いた。

「部長は今日は来ない。最後の人が戸締まり」

「はい」

 私は邪魔にならないように最低限の答えを返すと、そのまま隅で図書室で借りてきたグラフ理論の本を取り出して、適当な図を見繕った。

 面白そうなグラフがあると、それをスケッチブックに移して出来るだけ普通の木のように書いていく。適当に書いていたら何かそれっぽく見えないだろうか、という程度の落書きだった。

 いくつかのパターンを描いてそれっぽいのが出来上がると葉っぱを付け足して本物の木に近づけていく。これを玲に見せたらどういうグラフかすぐに気づくだろうか。そんなことを考えながら何十分も時間を潰していると、不意に影が差した。

「一般的に、枝が三つに分かれる木は、全ての枝が同様に三つに分かれる」

 抑揚のない低い声。

 振り返ると、秋月さんが背後に立って私のスケッチブックを見下ろしていた。

「あ……そうなんですか。でも、すみません。これ、元々数学のあるグラフを元にしたものなんです。だから、あまり気にしないことにします」

「グラフ……」

「はい。プログラミングで利用されるある木構造を上下に反転させたものです」

「そう。意味のない指摘だった」

 秋月さんはそれだけ言うと、静かに自分の席に戻っていった。秋月さんからこうやって話しかけられることは非常に珍しいことで、私は思わず会話を繋げる言葉を無意識のうちに探して選びとった。

「絵、ってただ過去にみたものを記憶に頼って描いてるだけじゃ駄目なんですね。今まで、全く意識したことがありませんでした。光とか、物質中の特異性とか、植物の遺伝的な決定事項。そういうことが抜けてしまえば、全て嘘になってしまう。知りませんでした」

「そう。だから、画家は構造を捕まえる為の訓練を行う。絵の訓練ではなく、構造の理解を行う。人を描くために解剖学の知識を一通り修め、光の特性を捉え、相対性を排除して色彩を見分け、その色に近づけるための色の混合を総当りで覚えていく。東西古今の建築法を把握して、あらゆる物体の規格、スケールを記憶していく。でも、数学的なアートを基本としているあなたには必要ないこと」

 珍しく饒舌に、秋月さんはそう語った。

 彼女の瞳はもう、キャンバスに向けられて動かない。

「秋月さんは」

 自然と、口が動いた。彼女の絵に対する熱に対しての疑問が、自然と飛び出した。

「どうして絵を描かれているんですか?」

 口に出してから、ひどく失礼な質問のように思えて、私は取り繕うように言葉を繋げた。

「楽しいから、でしょうか? それとも、尊敬しているアーティストが――」

「納得したいから」

 私の言葉を遮るように、秋月さんの低い声が響いた。

「私は今見えている世界を理解して、納得したい」

 彼女の瞳は、いまだにキャンバスを捉えて離さない。

 しかし、彼女の言葉は力強く私の耳を打った。

 憧れや模倣。そうしたものとは到底かけ離れていて。

 感情や欲求。それとも次元が違う。

 衝動ともいうべき何かを彼女から感じて、そしてそれを感じることによって秋月さんの絵に対する熱意に対して納得のようなものが得られた。

 本物と偽物。

 その二つの分類があるとするならば、彼女は間違いなく本物だった。

 憧れのような感情が、私の中で渦巻いた。それは、私が偽物である証拠。でもきっと、彼女はそうした憧れという感情を他人に抱いたことがないのだろう。

「秋月さんは、画家になりたいんですか?」

「別に。けれど、超えなければならない。フェミールは、たった十七の顔料しか使っていなかった。あの人達は不幸だった。今はもう、状況が違う。それくらいは、超えなければならない。私もいずれ大勢の人たちに追い越される。不幸になる時がくる。でも、今は、この時点では、超えないといけない。そこからようやく始まる。そうでないと、納得なんてきっとできない」

 秋月さんはそう言って筆を動かし続けている。私は何も言えなくなって、彼女の絵を黙って見つめることしかできなかった。

 不意に、秋月さんの筆が止まる。それから立ち上がると、彼女はドアに向かって歩き始めた。

「戸締まりお願い」

 秋月さんはそれだけ言って、部室から出て行く。私は広々とした部室の中で立ち尽くして、それから時計を見た。既に洗濯が終わってる時間。

 部室から出る直前、秋月さんの絵が目に入った。

 未完成の、絵。

 素人目には八割は完成しているように見えた。これも、だめだったのだろうか。

 私はそれに目を奪われた後、努めてそれを無視するように部室の鍵を閉めた。

 廊下の先に見える外は、雨に包まれている。私は傘立てから黒い傘を取り出すと、そのまま外に向かった。

 雨が降っている。

 雨雲にかざした手をじっと見つめていた秋月さん。

 雨を数学的に捉えようとしていた玲。

 私はただ、コインランドリーに向かう為だけに雨の中を進む。

 そしてふと、小さい頃を思い出した。

 雨の中、投げ込みをしていた幼いころの私。天気も気候も関係なく、がむしゃらだったあの時。

 遠い昔の出来事だった。

 あの頃の私はもう、どこにもいない。

「そろそろ試験勉強か」

 解析についての理解が怪しい。もう一度復習する必要があるな、と思考を強引に日常に戻す。

 他人から与えられたカリキュラムを、まずは消費しなくてはならない。

 じとじととした雨が、鬱陶しかった。




◇◆◇




 その日は午後からしか講義がなかったため、エントランスホールで玲と待ち合わせをしていた。

 窓際の休憩席でぼんやりと学生の出入りを見つめていた私に、ゆっくりと歩いてきた玲がだるそうに手をあげる。心なしか、顔色が白く見えた。

「玲?」

 休憩席から立ち上がると、彼女は曖昧な笑みを埋めて小首を傾げた。

「軽い頭痛がするだけ。薬は飲んだから大丈夫」

「……昼飯、どうする? 食欲は?」

「うん。頭がちょっと痛いだけだし」

 頭痛持ちなんだよね。彼女はそう言って、食堂に繋がる廊下に向かって歩き始める。

 三コマ目と四コマ目の講義は必修科目だ。私は彼女の顔色を観察してから、それほど無理はしていない、と判断した。薬が効いているだけかもしれないが、講義を受けるだけなら大丈夫だろう。

 食券を買って、私が交換している間に玲には席取りにいってもらった。席に戻った時には彼女は額を抑えて目を閉じていた。

「食欲は?」

 彼女の前に親子丼を置くと、うん、と短い言葉が返ってきた。もそもそとスプーンを手にとって食べ始める。それを確認した私は、僅かに安堵して自分の食事に手をつけた。

 結局、彼女は半分以上を残した。


 三コマ目。彼女は講義を聞かず、だるそうに顔を伏せていた。薬が効いていないのは明らかだった。

 板書をすぐに消す教授と競うようにルーズリーフに証明を書きなぐりながら、私は何度も玲の様子を伺っていた。心なしか、頬が朱いように見える。

「熱、あるんじゃないのか」

 小声で話しかけると、そうかも、と玲は顔を伏せたまま答えた。その間も板書を順番に消していく教授。私は取り残されないように再びノートをとる。

 玲の体調は回復せず、悪化しているように見えた。三コマ目が終わり、僅かに講堂が騒がしくなる中、玲はだるそうに立ち上がる。

「……玲、無理しない方が」

「……後一時間半だけだし。心配しなくていいよ。たかが頭痛だし」

 玲は鞄を手に取ると、そのまま出口へ歩き出す。たかが頭痛。そう言われるとそれ以上は何も言えず、私は小さく息をついた。

 廊下に出ると、見慣れた顔と目があった。日向だった。

「あ、長瀬。私、今日サークル出るからね」

「え、ああ」

 そうしているうちに、玲はどんどん先へ行ってしまう。また、とだけ言葉を返して私は足を早めた。

 次の講義室は同じ階だ。そのまま廊下を進んで、玲と並んで中に入る。出来るだけ目立たない後ろの席に座るなり、玲は机に突っ伏して動かなくなった。どうやら、本気でしんどくなってきたらしい。

「今度、ノートコピらせて」

 くぐもった声。ああ、とだけ答えると、彼女はそれっきり動かなくなった。

 試験が近い為か、普段より僅かに人が多い講義室。

「解析、本気でやばいんだけど」

 近くの席から、そんな言葉が届いた。それほど騒がしくない中、自然とその後の言葉も聞こえてしまった。

「中学、高校の時は、数学が楽しくて仕方なかったんだけどさ。なんかさ、最近違うなって感じてきた。俺、本当に数学が得意だったのかなって、それすらも分からなくなってきて」

 私は、意識的に教科書を開いて続きを聞かないように努めた。

 それでも、それは聞こえてしまう。

「今度の成績次第で、辞めるかもしれない」

 教科書を握る手に不自然に力が入って、紙に皺が寄る。私はそっと力を緩めると、皺を伸ばすように教科書を撫でた。

 その時、教授が講義室に入ってきた。周囲が徐々に静かになる。それ以上の言葉を聞かなくてよくなったことに、私は内心安堵していた。

 他人の挫折の瞬間など、出来れば見たくない。

 私は大きく息を吸うと、ペンを手に取って先ほどの言葉を忘れようといつも以上に講義に集中した。隣の玲は、突っ伏したまま動かなかった。


 四コマ目の講義が終わってすぐ、玲は身体を起こした。その動きは緩慢で、活気が無い。

「終わった?」

 そう言いながら立ち上がる玲の顔は、青白い。

「ごめん。ちょっと」

 突然、玲が出口に向かって走る。机に彼女の鞄が置いたままで、私はそれを手に取ると、その後を追った。

「玲?」

 声をかけた時、彼女は既に廊下に出ていた。追いかけると、玲はそのままトイレに入っていった。

 嘔吐だろうか。

 五分ほどで、玲は出てきた。

「最悪」

 短くそう言って、玲は額を抑えた。頭痛も酷いらしい。

 大学から駅まで距離がある。私は僅かに迷った後、一つの提案をした。

「家、駅より近いけど。休んでいく?」

「ごめん。甘える」

 覇気がない声で玲はそう言うと、ふらふらとエレベーターに向かって歩き出す。私はそれに並ぶと、一階エントランスまで降りて外に出た。曇ってはいるが、幸い雨は降っていない。

 東口からキャンバスを出て、そのまま通い慣れた道を進む。その間、玲はだるそうに私の後を歩いていた。

「着いたよ」

 赤茶色の外装のマンションの前に来ると、玲も心なしか安心したような表情を見せた。

 二階まで階段で上がり、鍵を開ける。その間、玲は終始無言だった。

「おじゃまします」

 私が入った後、玲がそう言ってブーツを脱ぐ。

「ベッド、使っていいから。吐き気ある?」

「ちょっと。気持ち悪い」

 玲が上着を脱いで、ベッドに倒れ込む。その間に私は浴室から洗面器を持ってきて、横に置いた。

「一応置いとく。下は安いカーペットだし、別に気にしなくていい」

「ん、ありがと」

 弱々しい玲の声。さっきまでの青白い顔色とは違い、頬がほんのりと朱い。

 薬箱の中に入れていた体温計を取り出して、玲に手渡す。

「一応、測った方がいいと思う。偏頭痛じゃなくて、風邪じゃない?」

「かも」

 もぞもぞと布団の中で玲が体温計セットする。その様子をぼんやりと眺めてから、視線を時計に移す。四時半過ぎ。まだ外は明るい。

「休んで落ち着いたらタクシー呼ぼうか」

「うん」

 弱々しい玲の姿が、どこか新鮮だった。

 体温計の電子音。体温計を取り出した玲が小さく呻く。

「八度二分」

「結構高いな」

 引っ越してまだ四ヶ月。クーリングの道具が家にはない。

「薬局行ってくる。すぐ戻るから」

「うん」

 小さな返事。私は立ち上がると、玄関に向かった。

 後は薬と、スポーツ飲料もいるか。ついでに胃腸薬なんかも買っておこう。いつか使うかもしれない。

 まだまだ買い足りないものが結構あるものだ。そういえば、近辺の病院もよく知らない。一度調べておかないと。

 外に出ると、生ぬるい空気が私を包んだ。灰色の雲間から明るい日差しが差し込んでいる。梅雨明けも近いかもしれない、と思った。

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