第2話 ガロア理論

 約束通り彼女から電話が入ったのは、私がシャワーを浴びた直後だった。

「もしもし」

 濡れた髪を拭きながら、左手で携帯を手に取る。

「もしもしー。長瀬くん? 電話越しだと声渋いね」

 日影玲の快活で軽い声が届く。

「今何してるのー?」

「シャワー浴びてて出たばかりだよ」

「わ、セクシー」

 からかうように電話の向こうで笑う彼女に、私も釣られて笑った。

「私はね、今ガロア理論がんばってるところです」

「ガロア?」

 予想外の言葉に、思わず聞き返してしまった。

 ガロア理論。一人の天才が築いた定理の集合体だ。大学に入ったばかりの学生が理解できるようなものではない。

「そう。色々なテキスト読んで頑張ってるよ。必要になる前提知識が膨大でちょっと面倒」

 私は、言葉を失っていた。

 私は数学が好きだ。好きなだけだった。

 誰もが驚くような発見を繰り返してきた訳でもないし、一瞬で複雑な定理の証明が出来るわけでもない。

 同じ数学科でも、その才能には格差がある。数学が好きなだけで、新しい発見なんて何もできない人なんて山ほどいる。私はその集合に内包されている。

 でも、彼女は違うのだ。私はそのことに気づいて、愕然としていた。

「テクニックも複雑でね、でもこれだけのテクニックを総動員する必要があるんだって考えたら燃えるよね」

 言葉が出ない。

 電話越しに聞こえる彼女の声が、妙に遠く聞こえた。

「長瀬くん?」

「……ガロア、か。凄いな。俺はまだ全然理解できる気がしないよ」

「そうかな。時間さえかけたら大丈夫だよ」

 そうとは思えなかった。多分、私には理解できない。

「あ、そうだ。長瀬くん明日三コマ目からだよね? お昼ごはん、学食で一緒に食べていかない?」

「……ああ。いいよ」

 突然、話題が変わる。

「よし。じゃあ決定。またねー」

 電話が一方的に切れる。

 私は携帯を見つめた後、思わず溜息をついた。

 中途半端に乾きかけた髪が、冷たかった。


 翌日。

 日影玲は約束通り、学食で待っていた。

 私は彼女を見つけると、トレイを持って真っ直ぐ向かった。彼女も私に気づき、軽く手をあげる。

「おはよ」

「おはよう。早いね」

 彼女は、本を読んでいた。プログラミングについての本だった。

「プログラミング……もう、勉強してるんだ」

 私の問いに、彼女は顔をしかめた。

「やり方が綺麗じゃないし、好きじゃないんだけど、それでも総当りとかは機械にやらせるしかないしね」

「……日影さんは、本当に数学が好きなんだね」

 私の言葉に彼女は何か思うところがあったのか、一瞬だけ動きを止めた。

「うん……好きだよ。でも、周りは誰も理解してくれない。小さい頃は、違った。私が難しい問題を解くと、皆して褒めてさ。将来は数学者だなー、なんて言ったりして。テレビ局の取材陣がくると、誇らしそうに教育方針とか語ってさ。本当、都合のいい奴ら」

 諦めと憎悪の混ざった声だった。

 その落差に驚くより、彼女の言葉にあった「テレビ」という単語が気にかかった。

「……テレビ?」

「そう。天才数学少女なんて持てはやされた輝かしい時代が私にもあったのです」

 彼女は茶化すように肩を竦めて、それから本を閉じた。

「まあ、昔のこと。今は長瀬くんみたいな数学を共有できる人もできたし、満足だよ」

 彼女はそう言って、無邪気に笑った。

 不覚にも、綺麗だと思ってしまった。


 数学科と言っても、数学ばかりが続くわけではない。

 昼食後の講義は、昨日に引き続いて興味のない退屈なものだった。

「後ろの方に行かない?」

 彼女の提案で後部の席に座っていた私たちは、二日目にしてだらだらと講義を受けていた。

 彼女は相変わらず、無関係な本を読んでいる。

 プログラミング。確か、二年次からのはずだった。

 彼女は私よりどれほど前を歩いているのだろうか。

 そんなことを考えながら、あっという間に九〇分が過ぎた。

「有意義な時間だったね」

 彼女は本を鞄にしまいながら、皮肉っぽく笑った。

「次、解析だったよね。楽しみだな」

 教授、なんか凄いらしいよ。

 最後に彼女がそう付け加えた言葉の意味を、私はすぐに知ることとなる。

「諸君は、壮大な勘違いをしている」

 解析を担当している老教授の第一声がそれだった。

「君たちは、文科省によって洗脳され、誤った数学知識を身につけている。君たちは数学という学問を誤解している」

 そして、老教授は黒板に勢いよく書きなぐり始めた。

「連続、極限、収束、微分。随分と曖昧な概念だと疑問を持ったことはないかね。実数とは何だ? 極限は、どこにある? 君たちは、それを理解しているのかね?」

 また、と老教授は黒板に矢印を書く。

「これは線形代数の範囲だが、ベクトルについてどう学んだかね。ベクトルとは、大きさと量を持つ矢印である。そんな認識は、捨て去る必要がある。逆だ。本来のベクトルとは、ベクトル空間の元のことである。矢印や行列はこのベクトル空間の別の表現に過ぎず、それ自体がベクトルであるわけではない」

 そして、老教授の視線が講義室を走った。

「さて、毎年多くの学生が勘違いしたまま数学科に入る。数学は厳密な学問で、必ず答えが導かれるはっきりとした学問だと。そんな概念は、この一年で悉く破壊されるだろう。君たちがこれまで学んできた高校数学は曖昧に満ちたものだった」

 老教授は大きく息を吸い込み、それから言った。

「私の役割は、君たちの概念を破壊していくことにある。ここであらゆる概念が破壊され尽くして、君たちの中で新たな概念が形成されるだろう。二年次以降では、その作り直した概念すら破壊される。この数学科では、きみたちが考えているような数学は行われない。面倒な計算作業などは、求めない。私が諸君に求めるのは作業ではなく、創造である。そして、君たちは本当の厳密性に近づいていくことになる。私はその為のツールを君たちに伝えることになる」

 そして老教授は宣言する。

「さあ、破壊を始めよう」




 老教授は、終始私たちの無知を指摘する形で講義を終えた。

 無知の知、というやつだろうか。

 数学像の再構成には、それが不可欠のようだった。

 講義が終わった後、講義室には独特の空気が漂っていた。

 不安。懐疑。不信。それらが綯い交ぜになっている中、彼女は普段と変わらない様子で立ち上がった。

「面白い講義だったね」

 彼女はそう言って、微笑む。

「破壊。言い得て妙だと思う。それまで信じられてきた当然の事実を破壊することによって、純粋数学は発展してきた。数学者は、破壊的であるべきだと思う」

 私はその全てを受け入れるような微笑みに、視線が釘付けになるのがわかった。

「じゃ、帰ろっか」

 彼女が歩き出す。

 私は残った筆記道具を鞄に詰め込むと、彼女の後を追った。

「ね、長瀬くんの家ってどっち方面にあるの?」

 廊下を歩きながら、彼女が興味津々といった様子でたずねてくる。さっきの講義の独特の雰囲気にまだ浸っていた私は、それでようやく日常に戻った。

「本当にすぐ近くだよ。東口の方から見えるくらい」

 私はそう言って、一緒に階段を下りていく。

「長瀬くんは、休みの日とか何してるの?」

 少し後ろを歩く彼女の声が耳に届く。

 前方から集団が階段を上がってくるのが見えて、私は壁際を進みながらその問いに答えた。

「画材詰め込んで、絵描きにいったりしてるよ。当分、生活に必要なものの買い物とかで終わりそうだけど」

「ふーん。彼女とかいないんだ」

「いないね。高校の時は野球小僧だったし」

「もしかして坊主だったりした?」

 彼女が少し笑いながら言う。

「中学生の時は丸坊主だった。高校では流石になかったけど、あまり長いと良い顔されなかったな。一応、野球の名門だったから」

 階段を下りて、そのまま外に出る。良く晴れていて、気持ち良い風が吹き抜けた。

 駐車場を通り抜け、キャンパスを出る。そこで私は足を止めた。

「見える? あの少し茶色っぽいマンション」

「ちょっと古い感じだね。オートロックもない?」

「ないよ。学生ばかりだから、新興宗教の勧誘とか結構来るみたいで気をつけるように言われた」

「へえー」

 彼女が相槌を打って、マンションを見つめる。そのまま彼女が動かなくなった為、私は別れの言葉を切り出した。

「じゃ、また明日」

 そう言って、マンションに向かって歩き始める。

「うん。また明日」

 彼女はそう言って、私とは反対の方向へ歩き始める。

 風が少し、冷たかった。


 家に帰ってから、私は何となくカレンダーを見つめた。カラフルな色が宿っている。

 子どもの頃は、私と同様に他の人にも数字に色が重なって見えるのだと信じていた。この色にはある程度の法則があって、日付を見るだけでその日が何曜日なのか何となくわかった。これを両親が不思議がったのをきっかけに、私は自身が稀有な知覚を持っていることに気づいた。

 私たちは、今見ている世界が他の人と同じものだと信じて疑わない。けれど、多分、同じ世界などどこにもないのだと思う。私たちの世界はそれぞれ位相がずれているように、見え方が違っていて、だから理解もずれる。そして、それこそが多様性を生み出し、あらゆる分野を発展させていく。

 中学の時、不思議なくらい駆け引きのうまい投手がいた。彼には打者の心の動きが見えていたのではないか。そう思ったこともある。そうした見え方が、才能という壁を作り出す。知覚しうる情報だけでは超えられない認知的な壁が、どこかにある。私は今でもそう思っている。

 そして、彼女のことを思い出す。

 日影玲。

 天才数学少女、とかつて呼ばれていた彼女には、普通の人と違う何かが見えていたのだろう。彼女は私の共感覚を羨ましがっていたが、彼女もそれに似た特別な知覚を持っているのだろう、と思った。

 数学という分野では、本当に何らかの特別な能力があるのではないかと疑いたくなるような人間がたまにいる。

 いや、数学だけではない。過去の自然科学、工学の発展を支えてきた人間には、常人には理解できないような何かを感じることができる。

 ウィリアム・ハミルトンはラテン語、英語、ギリシア語、ヘブライ語を五歳までに読めるようになっていた。十歳の時には更に五つの言語も加わった。ユークリッドの原書を読み漁り、更に十二歳の時にはプリンキピアを解した。そして彼は十五歳から本格的に数学を独学で学び始め、その三年後、主席で大学に合格する。

 怪物的だ。

 しかし、こういう怪物的な人間がいなければ、世界はここまで発展しなかった。

 神の寵愛を受けたような人間が定期的に産み落とされ、鈍重な人類全体を遥か前方へ引っ張っていく。それが自然科学の歴史だった。

 私はそのことに、畏敬に似た何かを感じられずにいられない。

 だから、私はこの共感覚を特別なものだとは思わない。この知覚能力は、きっとただ他の人と本当にずれているだけの差異でしかない。これを有効活用する術はないと思う。必ずしも多様性が有効性に繋がる訳ではない。

 それでも、と私は思う。私が感じる数字と色の関係を絵として残していれば、後で特別な何かを持っている人がそこから新しい何かを発見するかもしれない。だから、私は筆をとるのだ。


 イラストサークルの見学に向かったのは、大学に入学して数日後のことだった。

 私は日影玲以外の友人をまだ作れずにいた。

 周囲ではグループというべきものが形成され始めていたが、私の隣には日影玲がべったりという状態で、他の学科生との交流は酷く乏しかった。

「イラストサークル? 私もいく」

 日影鈴に見学に行くことを伝えると、意外にも彼女が興味を示し、一緒に見学にいくことになった。

「あ。長瀬?」

 イラストサークルに向かうと、日向佐織がいた。

 同じ高校出身の彼女の姿を見ると、何となく安心した。それほど仲が良いわけでもなかったのだが、慣れない場所において見知った顔というものは予想以上の安堵感をもたらすらしい。

「日向もイラストサークルの見学?」

「うん。あの……ちょっと恥ずかしいんだけど、漫画とか描くの好きで……」

「へえ……知らなかったな」

 高校の時、彼女はどちらかというと派手なグループに属していて、そうした趣味があるとは露とも知らなかった。

「長瀬も、絵……描くの?」

「水彩画を少しだけ。色々やってみたくて」

「へえ……知らなかった」

 日向佐織が素直に驚いた顔を見せる。

 そこで彼女は私の隣の日影玲に視線を移した。

「ああ、ごめん。彼女、同じ数学科の日影さん」

「どうも」

 日影鈴がどこか無愛想に頭を下げる。意外と人見知りするのかもしれない。

 そういえば、彼女が私以外と話しているところを見たことがないな、と思った。

「あ、私と長瀬くんは同じ高校だったの。日向って言います。よろしくね」

 対照的に日向佐織はにこやかに笑って自己紹介する。

 日影鈴は何も言わずもう一度頭を下げると、それっきり黙りこんだ。

 沈黙を避けるように、日向が言葉を続ける。

「あ、見学に来たんだよね。一緒に話聞きにいこうか」

「そうだな。日影さん、いこう」

 私が日影玲に声をかけると、彼女は真っ直ぐ私を見たまま無言で頷いた。

 まただ、と思う。

 べったりと粘つくような視線。

 私はそれを無視するように、三人で先輩方からサークルについて説明を受けて回った。

 日影玲は終始無言で、私のすぐ後をついてきた。奇妙な疲労感が、私の中に蓄積していくのがわかった。

 そしてその後、彼女が日向佐織と言葉を交わすことはなかった。

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