死の方程式

月島しいる

第1話 友愛数

「たまにさ、周りが凄く馬鹿に思えない?」

 どこか気だるそうに彼女はそう言って、誰もいなくなったイラストサークルの溜り場を見つめた。

 随分と傲慢な言い草だ。

 けれど、彼女にはその発言を負うだけの素養があった。つまり、相応に頭の回転が速かった。

「……凡人の俺からすれば、そうは思えないけど」

 私は彼女の言葉に慎重に反発してみせた。

 正面から否定しても無駄だと分かっていたから、遠回しに宥めたつもりだった。

「そう?」

 彼女は興味なさそうに答えて、それから足元の絵に目を向けた。私の書いた絵だった。

「京はやっぱり、まともな絵描いてるね。これ、ウラムの螺旋をモチーフにしてるでしょ? うん。凄く綺麗だよね。その中に更にいくつかの数列を組み込んでオリジナリティを出してるのが凄く良いな」

 彼女はそう言って、特殊な素数パターンを基にした私の絵を褒める。

「基本は三原色? 重複箇所は色を加算してるんだね。ほら、緑はフィボナッチ数列だ。赤は……待って。今考えるから」

 彼女、日影玲(ひかげ れい)は先ほどまでの周囲を見下した様子とは一転して、楽しそうに笑う。私はその変化に些細な疲労感を覚えながら、彼女に絵の説明を始めた。

 私、長瀬京(ながせ きょう)はこの日影玲と付き合っている。もちろん友人としてではなく、恋人としての意味で。

 そうなるに至った経緯を、少しだけ振り返ろうと思う。





  死の方程式





 大学という教育機関、研究機関には様々な専門分野がある。

 文学や文学史を扱う文学部や、薬学などを扱う薬学部。電子工学や建築などの工学部。エトセトラ。数えればきりがない。

 私が入学したのは、都内にキャンパスを設けるある大学の理学部数学科だった。

 数学科。

 この存在を知らない人が世の中には多数いる。

 「数学科です」と言うと不思議そうに首を傾げて「卒業後、どういう仕事に就くの?」と聞かれることも多い。こうした反応の原因は、大学は就職の為の通過点に過ぎないという風潮が日本全体に根付いてしまっているからだろう。その是非はここでは置いておくが、私はただ純粋に数学が好きで、将来のことなど微塵も考えていなかった。正直に言うならば、就職のことなど頭になかった。社会に出る前の最後の猶予期間を、自分の好きなように使いたかった。それだけの理由で、私はこの数学科を選択した。

 数学科に入ったばかりの私たち一回生は教科書を買い揃える前に、気になる講義を見て回る時間が与えられていた。けれど一回生の選べる講義というのは少なく、極力単位を取ろうと時間割を組めば、必然的に似たり寄ったりのものとなる。意識的に特定の講義を捨てたりすれば自由度は跳ね上がるが、私はシラバスを睨みながら実に平均的であろう時間割を組み、講義に臨んだ。単純に、そうした方が知り合いが作りやすいと思ったからだ。

 初めての講義は、線形代数だった。

 講義室の席は既に半分近く埋まり、どこかよそよそしい雰囲気が漂っている。半分近くの席が埋まっていると言っても、偏りが見られた。後部の席が集中的に埋まり、前列が空いていたのだ。

 私は少し迷った後、最前列の誰もいない席に腰を下ろした。「大学生活は頭の良い友人がいるかどうかで難易度が変わる。前列に座っているやつらと仲良くなれ」と高校時代から連絡を取っている先輩からアドバイスを貰っていた為だった。

 講義の開始までは少し時間がある。まだ教科書も買っていない為、予習することもできない。自然とスマートフォンに手が伸び、ネットに繋いで面白くもないニュースを見て暇を潰すことになった。

 転機が訪れたのは、そんな時だった。

「ねえ、隣いい?」

 すぐ近くから放たれた声に、私は驚いて顔をあげた。声をかけられたことに驚いたのではなく、それが女の声だったからだ。数学科は圧倒的に男のほうが多い。

 見上げると、まず肩までかかる綺麗な黒い髪が目に入った。次いで、どこか強気な印象を受ける双眸。高い鼻に、ぷっくりと厚い唇。綺麗めに整えられた服装のせいか全体的に痩せ気味な印象を受ける。

 可愛いというよりも、綺麗な女の子だと思った。

「嫌かな?」

 僅かな沈黙を拒絶と解釈したのか、女が淡々と確認作業を行う。

「いや」

 私は女の声を反芻するように声を絞り出して、首を横に振った。

「空いてるよ。どうぞ」

「ありがと」

 彼女はそう言って、隣に座ると腕時計に目を向けてから一冊の本を鞄から取り出した。数学史についての本だった。

「数学史……好きなの?」

 思わず、口から言葉が飛び出た。

 彼女はこちらを振り返ると、そ、と朗らかに笑った。

「矛盾をなくす為にひたすら概念を拡張していく様子がとても綺麗だと思う」

「綺麗?」

「そう。意味を、壊していく。壊れることによって、世界が広がる。凄く、綺麗」

 彼女はそう言って、笑った。

 聞いたことのある言い回しだった。

「失楽園?」

 私が問いかけると、彼女は嬉しそうに笑った。

「そう。楽園性を取り戻す為に、信じられないほどの天才たちが散っていく。特に……」

 自然と、会話が弾んだ。

 他人と数学の話で盛り上がるなんてこれまでに経験したことがなく、数学科に入ってよかったと心から思った。多分、彼女も同じ気持ちだったんだと思う。だから、講義室に講師らしき初老の男が入ってきた時、この会話が終わることを寂しく感じた。

 一瞬で講義室が静かになる。私たちもそれに倣うように口を閉ざした。

 初老の男が一回生の講義について説明を始める。メモを取り出してペンに手を伸ばした時、隣からそっとメモが差し出された。ちらりと目を向けると「220」という数字が小さく書かれていた。

 220。一体何のことだろう。

 自然数……偶数……。

「あぁ……」

 答えに辿りつき、自然と小さい声が零れた。

 220は友愛数の代表例だ。それ自身を除いた約数の和が等しくなるような2つの自然数の組み合わせを友愛数という。

 そして、220の対になる数は284だ。

 私はそっと講師の方を確認してから、彼女が差し出したメモに284と素早く書き込んだ。満足そうに彼女が笑う。

 友愛を示す数字の片割れをわざわざ差し出した彼女の意図を考えて、何となくバツが悪くなった。「友達になろう」と直接言われたような気恥ずかしさがあった。それでも、悪い気はしなかった。むしろ、数学について話せる友人を得たことが嬉しかった。

 彼女はメモを鞄にしまってから、新しいノートを取り出してメモを真面目に取り始める。私もそれを真似するように、意識を講義に向けた。

 出欠の取り方、具体的な評価方法、ゼミの話、教科書について。

 数学とは何の関係もない説明で90分があっという間に過ぎていく。

 大方の説明が終わると、少し早いが今日はこれで終わりにする、と講義を締めた。途端、講義室が僅かに騒がしくなる。私は筆記道具を鞄にしまいながら、隣の彼女に目を向けた。

「次、何とってる?」

「生命科学」

「やっぱり一回生は殆ど一緒だね」

 私は相槌を打って、それから思い出したように言葉を続けた。

「名前、聞いてもいい?」

「日影玲(ひかげ れい)。君は?」

「長瀬京(ながせ きょう)。よろしく」

 私がそう言うと、彼女は朗らかに笑った。

「互いに数学に縁のある名前だね」


 私たちはそれから一緒に講義を回った。

 彼女は快活な性格をしていて、よく喋った。

 初対面の人に対して意識的に会話が途切れないようにしているのではなく、それが彼女の自然体のようだった。

「じゃあ、長瀬くんは本当にこの近くに住んでるんだ?」

「そう。実家から通うと片道二時間半かかるから」

 昼休み。

 学食で私たちは昼食をとりながら、少しずつ互いの理解を深めていた。

「へえ。今度遊びに行ってもいい?」

 定食を食べながら、彼女が無邪気に言う。私は一瞬答えに詰まった後、いいよ、と言った。

 どうせ社交辞令だ。それでも、不用意な言葉に思えた。

「自炊とかしてるの?」

「まだ一度も。調理器具も揃ってない状態なんだ」

 私が肩を竦めると、彼女はクスクスと笑った。

「だめじゃん。する気はあるの?」

「いつかはね」

「それ絶対やらないパターンだよね」

 そうかもしれない、と私は定食に箸をのばす。

「日影さんは、家近いの?」

「まあまあかな。電車で四〇分くらい」

 そこでふと、彼女が思い出したように言葉を続けた。

「あ、そうだ。長瀬くん、高校だとなんか部活やってたの?」

「……ずっと野球をやってた」

「やっぱり。全体的に筋肉ついてるもんね。じゃあ、ここでもサークル入ったりするんだ?」

 その質問に私は僅かに躊躇してから、いや、と答えを濁した。

「いや……右肘故障して……もう無理だから……」

 え、と彼女の表情が強張る。

 その反応を見て、もう少し言い回しを工夫すればよかった、と後悔した。

「え、あ……ごめん……」 

 彼女も後悔したように目を伏せる。

 一瞬で彼女の持つ快活さが失われ、嫌な沈黙が落ちた。

「……だから、野球とは関係ないイラストサークルに入るつもりだよ」

 沈黙を、気まずさを払拭する為、私は咄嗟に口を開いた。彼女が意外そうな顔をする。

「イラスト?」

「水彩画、好きなんだ。風景専門だけど。それ以外も色々やってみたくて」

「……へえ、意外。長瀬くんって結構マルチだね」

「全部中途半端だけどね」

 私はそう言いながら、沈黙を何とかできたことに安堵していた。そして、言葉を続ける。

「共感覚って知ってる?」

「きょうかんかく?」

「知覚が、普通の人と少しずれてるんだ。俺の場合は、数字を見ると色が重なって見える。例えば、1は赤。2は緑……みたいな感じで。12だと紫に見える」

「……数字に、色が?」

「そう。組み合わせによって、色が変わる。同じ数式でもいじったりすると、全体の色調が変わったり。何の役にも立たないけど、たまに凄く綺麗な数式とかパターンが見える。これを使って数学と絵を組み合わせたいなって前から思ってて。だからイラストサークルに入ろうと思ってる」

「すごい……それ、本当に凄いことなんじゃないの?」

「そんな大層なもんじゃないと思うよ。何の役にも立たないし。数字に対して共感覚持ってる人が数学で成功するわけでもない」

「ねえねえ。じゃあ、オイラーの等式は何色に見えるの?」

 小さな子どものように目を輝かせて食いつく彼女に私は思わず苦笑した。

「綺麗なライトグリーンだよ。少し光って見える」

「じゃ、三平方の定理は?」

「全体的に青緑っぽい。オーロラみたいな」

「今まで見た中で印象的だったものとかある?」

「マクスウェルの方程式かな。それぞれ全く違う色をしてるのに、全体として不思議なまとまりがある。言葉では上手く説明できないんだけど……」

「すごい……一種の超能力じゃない?」

 どこか羨むような目で見られ、私は居心地の悪さを誤魔化すように首を横に振った。

「そんなんじゃないよ。何の役にも立たない」

 そう言って、私は時計を見る。次の講義までもう少しだった。

「そろそろ昼休み終わるよ。次、語学だよね」

 私が指摘すると、彼女は慌てたように時計を確認して、それから半分以上残っているトレイの上の皿を見つめ、うー、と情けない声を出した。

 その姿が本当に情けない感じで、思わず笑ってしまった。


 次の語学の講義は、つまらないものだった。

 私も彼女も必修科目である為に義務的に受けているだけで、興味などなかった。

 彼女はつまらなそうにノートの端に数式を書いていた。とりとめのない色が踊っていた。

 講義が終わると、彼女は退屈そうに背伸びして、やっと終わった、と愚痴を零した。

「今日、これで終わりだよね?」

 私が確認の問いを発すると、彼女は欠伸しながら頷いた。

「あ、そうだ。連絡先教えてよ」

 廊下に出たところで彼女が言う。

 今更のようにまだ連絡先を交換していないことに気づき、私は慌てて携帯を取り出した。

「はい」

 彼女が、連絡先を見せる。

 ネイピア数らしき数列といくつかの文字列が混ざっていて、私は思わず苦笑しながら彼女の連絡先を登録した。

 その時、不意に後ろから声がかけられた。

「あれ? 長瀬じゃん」

 振り返ると、人ごみで溢れる廊下の中、すぐ近くに日向佐織(ひむかい さおり)がいた。私と同じ高校出身の彼女は、嬉しそうに笑った。

「数学科だっけ? 学部違うから会う機会ないと思ってたけど、世間って狭いもんだね」

「日向は語学部だっけ?」

「そう。ごめん。私、まだ講義あるからいくね。また連絡するよ」

 そう言って、日向は人ごみの中へ消えていく。それを見送っていると、すぐ近くから低い声が届いた。

「今の、知り合い?」

 振り返ると、すぐそばに日影玲の姿があった。

「ああ、高校が同じだったんだよ。特別仲がいいわけでもないんだけど」

「ふーん……」

「じゃ、帰ろうか」

 私がそう言うと、彼女は頷いて人の流れに沿うように歩き始めた。

「あ、そうだ」

 彼女が思い出したように言う。

「帰ったら、電話するね。私、メールとか好きじゃないから」

「え? あぁ……」

 思わず、私はたじろいだ。こちらを見つめる彼女の視線が、どこか粘着質なものだったから。

「絶対、電話するから」

 彼女は世間一般的に見て美人で、そんな彼女にこう言われれば普通は悪い気がしないだろう。

 しかしこの時は何故か、得体の知れない不安感が胸の奥から湧いた。

 そして、この直感が間違いではなかったことを、私は後に知ることになる。

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