第3話 漸近
「結構適当なところだよね」
サークルの見学を終えた後、玲がぽつりと零した。
私はそれに反論しなかった。熱心なサークルではない、というのが正直な印象だった。
薄暗くなった駐車場。
日向佐織と別れた私たちは帰路についていた。
「ね。どこかで晩ご飯食べていかない?」
彼女が暗くなった空を見上げながら言う。私はまだ慣れない近辺の地図を頭に浮かべた。
「近くだとファミレスくらいしかないな。駅前までいけば色々あるけど」
「ファミレスでいいよ。面倒だし」
私は頷いて、敷地を出るといつもとは違う方向へ向かった。
「日影さんは、入りたいサークルとかないの?」
「ないよ。数学サークルとかあるみたいだけど、なんか合わないし」
「一応どこかに顔出しといた方が、後々交友関係広がってていいんじゃないかな」
押し付けがましくならないように注意を払いながら私は言った。
不意に、彼女の足が止まる。
「私、別にそういうのいいから」
「え?」
彼女の視線が真っ直ぐと私に注がれて、固定される。
「中身のないコーユーカンケイだとか、いらない。面倒で、邪魔なだけじゃない? 私、長瀬くんとはちゃんと中身のある付き合いしたいって思ってるよ」
彼女の黒い瞳が、車道から届くライトで暗闇に煌いた。
「長瀬くんは、そうじゃないの? 長瀬くんにとって、私はコーユーカンケイの中の一人なの?」
何かを見定めるように、感情の見えない彼女の瞳が私を射抜いた。
私は魔法をかけられたかのように彼女の瞳から視線を外すことができなかった。
「……いや」
声を搾り出すように、かろうじて答えを返す。
喉が異常に渇いていた。
「俺も、日影さんとは中身のある付き合いをしたいと思ってるよ。ちゃんと、理解を深めたいと思ってる」
私の答えに満足したように、彼女が微笑む。優しい笑みだった。同時に、粘りつくように固定されていた彼女の視線が外れる。奇妙な息苦しさから解放された私は、小さく息をついた。
「そう言ってくれると思ってたよ」
彼女は微笑を浮かべたままそう言って、再び歩き出す。
私もそれを追うように、再び歩き始めた。
ファミレスにつくと、彼女はメニューを広げて楽しそうに笑った。
「お腹減ったー。何食べる? 」
テーブルの上に広げられたメニューにざっと目を通す。その時、彼女がメニューの角を指差しておどけるように言った。
「ここの角度が何度か答えよ」
私は食べ物の写真から目を離して、メニューの角を見つめた。少し考えてから、彼女に視線を移す。
「地球が丸くないと仮定して?」
「あーあ。引っかからなかった」
彼女がつまらなさそうに言う。その時、ちょうど店員が水を持ってきた。それぞれ注文を伝える。
「長瀬くんって、兄弟とかいるの?」
店員が去っていくのを見ながら、彼女が口を開く。
「いないよ」
「ふーん。じゃ、一人暮らしでもあまり寂しく感じたりはしない?」
「今のところはそういうの感じないかな。日影さんは、兄弟いるの?」
「姉がいたけど、もう会ってないよ。親が離婚して私は父親。姉は母親についていったから」
さらりと口にした彼女の言葉に、私は思わず時計を見た。
「時間……大丈夫なの?」
「何が? ご飯の用意ってこと? 親はいつも外で食べてくるから大丈夫だよ」
それより、と彼女の視線がゆっくりと私に向けられる。
「兄弟もいないし、父親は仕事だし。私いつも家で一人だからさ、なんというか、結構暇なんだよね。その……また電話とかかけていい?」
先ほどまでの態度とは一転して、伏し目がちなどこか不安そうな目が私に向けられる。その落差に私は反射的に頷いていた。
「え、ああ……もちろん、いいよ」
「本当? また電話するね」
彼女が嬉しそうに笑う。
同時に、店員が食事を運んできた。
彼女の前にパスタが出される。絡み合ったそれは、彼女のフォークに巻きついて離れないように固まっていく。
「結構おいしいね」
彼女はそう言って、パスタを絡めていく。
私も自身の食事に手をつけたが、味はよくわからなかった。
休日がやってきた。
私は引越しのダンボールを片付けていた。
部屋にはまだ最小限のものしかない。必要なものをリストアップしてはいたが、中々買いに行けずにいた。
出てきたゴミをまとめ、分類していく。
区切りがつくと私は鞄からシラバスを取り出し、時間割を確認していった。休み明けには時間割の登録作業が待っている。二年次、三年次、四年次の講義の繋がりも確認していく。
数学そのものに関係する科目は大体が必修科目で、一つ落ちればそこから繋がる科目を二年次でとることができない。となれば三年次、四年次の時間割にも影響し、結果的にストレートでの卒業が不可能になるものが多い。それを見て、数学科の留年率が三割に達する理由を理解した。
下から三割は、ストレートでの卒業ができない。中の中の成績をキープしていてもストレートでの卒業組では下位に位置し、進学や就職にも影響するだろう。初めから上位の成績グループに入らないと後々後悔することになりそうだった。
次に一般教養科目を見ていく。同じ講義でも講師が違うものが多い。適当に単位のとりやすいと評判のものをとっていけばいいのだろうか。
シラバスと睨み合いを続けていると、携帯が鳴った。ディスプレイには日影玲の文字。
「もしもし」
通話ボタンを押すと、雑音混じりに彼女の声が届いた。
「あ、もしもし。長瀬くん?」
電話の向こうが外であることが雑音でわかった。
「ああ。どうした?」
「あのね。今、長瀬くんの家のすぐ近くまで来てるんだ。上げてくれない?」
一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。
徐々にその意味が頭の中に浸透し、咄嗟に散らかった室内を見渡す。
「ちょっと待ってくれ。片付ける」
「うん。待ってるね」
そう言って、電話が切れる。
私は携帯をベッドに投げ出すと、急いで部屋の片づけを始めた。
とりあえず目立つものをゴミ袋に突っ込んで、ベランダに放り投げる。片付けというよりは、応急処置である。
シラバスや入学資料など床の上でバラバラになっていたものをまとめ、本棚に突っ込んでいく。
五分ほどで室内にある程度の秩序が訪れた。私は携帯に手を伸ばすと、履歴から彼女の番号にかけなおした。
「もしもしー。片付け終わった?」
「ああ。待たせてごめん。もう大丈夫」
「じゃあ、行くね」
通話が切れる。直後、インターフォンが鳴った。
まさか、ドアの前で待っていたのだろうか。そう思いながら玄関に向かい、ドアを開ける。
「突然来てごめんね。色々持ってきたよー」
涼しそうな春服に身を包んだ彼女は、にこやかに笑って右手の買い物袋を持ち上げた。
「……大学に用事でもあったのか?」
彼女がこの辺りまで来るとすると、それくらいしか思いつかない。
「うん……ほら……図書館にどんな本あるのか気になって」
彼女はそう言って、それより、と私の後ろを見た。
「あがっていいかな?」
「ああ、うん」
私は頷いて、後ろに下がった。それに合わせるように彼女が玄関に入り、後ろ手でドアをゆっくりと閉める。
「お邪魔しますー」
ブーツを脱いだ彼女が玄関の上に上がる。
汚い部屋だけど、と私はどこかで聞いたような言葉を使って、彼女を部屋の中に案内した。
「へえー、何だかいかにも大学生の一人暮らしって感じの部屋」
彼女はキョロキョロと部屋を見渡すと、感想を零した。次に冷蔵庫に向かって歩き始めて、買い物袋を床に置いた。
「これ、中にいれとくよ」
私が答えるより早く、彼女が勝手に冷蔵庫を開ける。
「ほんと、何も入ってないね。あ、このプリン私も好き。コンビニの中だとダントツだよね」
微かな疲労感を感じた。
彼女の距離感が、近すぎる。
冷蔵庫を漁る彼女の後ろ姿に、思わず苦言の言葉が飛び出した。
「……他人の家の冷蔵庫を勝手に開けるのはやめた方が……」
私の言葉に、彼女が振り返って真顔で首を傾げる。
「なんで?」
「いや……」
私が言葉を濁すと、彼女は何かに気づいたようにバツが悪そうな顔をした。
「ごめん。私さ、女子高出身なんだよね。男の人との距離感とかよくわからなくてさ、なんか、ほんと、ごめん」
「女子高……」
初耳だった。
そういえば彼女と出会った日。隣に座ったのは彼女からだったが、直接話しかけたのは私の方からだった。それ以上の勇気がなかったのかもしれない。
今だって、彼女は他の学科生と全く接触していない。男女比が逆転した慣れない環境に戸惑っていたのだろうか。
距離感が合わない理由がわかった気がした。そして、私は納得してしまった。
「そう、女子高。だから、男友達とか全くいなくて。正直、長瀬くんとの付き合い方もよくわからないんだよね。普通、異性同士ってどうやって遊ぶのかな。そういうことが、よくわからない。そういうのってない?」
「え、ああ……俺も別に女友達が多かったわけじゃないけど……」
ぼんやりと相槌を打つと、彼女は途端に黙り込んだ。
何かを考え込むような沈黙。
そして、彼女の黒い瞳が私に向けられる。
「ねえ……」
どこか自信がなさそうに、彼女は言った。
「私たち、付き合ってみない?」
家のすぐ前の道路を、車が通る音がした。
開いたままの冷蔵庫。
床に置かれた買い物袋。
そのすぐ傍で立つ彼女の瞳は、伏せ目がちに私を捉えている。
私は彼女の言葉の意味を理解しようと努めて、そして誤魔化すように笑った。
「急すぎないか?」
私の言葉に、彼女は顔をあげて微笑んだ。
「それは、シチュエーションのこと? それとも、まだ知り合って間もないのにって意味?」
「両方だけど、俺たち、互いのこと知らなさ過ぎるんじゃないかな」
「そうかな。互いを知る為にそれなりの時間を過ごしても、恋愛対象に見れなくなる場合だってあるわけじゃん。付き合ってから理解を深めていくって方法もありだと思うけど」
「……まあ、そういうのもあるかもしれないけど」
私が同意すると、畳み掛けるように彼女が口を開いた。
「なんていうか、数学とか好きな人って滅多にいないわけじゃない? 私はそういう人と出会うの長瀬くんが初めてだったから嬉しかったんだ」
「……俺も数学好きな人と会うのは初めてだったけど、でも、いきなり付き合うっていうのは話が飛びすぎじゃない?」
「……長瀬くんは、嫌なの? 私のこと、恋愛対象として見れない?」
「……そうじゃないけど」
言葉を濁すと、日影玲はにこりと微笑んだ。
「なら、いいじゃん。難しく考えすぎじゃない? 世の中にはいきなり告白して付き合う人たちも相当数いるんだからさ」
「……日影さんは、他の人にもこうやって軽く告白してるの?」
疑問が、自然と口から飛び出した。
途端、彼女の顔から表情が消える。
「女子高で、男友達なんていなかったって言ったでしょ。怒るよ」
「ごめん。悪かった」
即座に訂正する。
正直なところ、ひどく混乱していた。
「長瀬くんって、女の人と付き合ったことないでしょ? 無意識に壁作ってない?」
私は、何も言わなかった。
彼女の言葉に、少しだけ思い当たる節があったからだ。
「私も、そういうところあるから。でも、それ、違うでしょ」
沈黙。
「ねえ、私たち付き合ってみない?」
彼女が、繰り返す。
私は諦めたように、両手をあげた。
「俺が悪かった。こちらからもお願いするよ。俺と付き合ってくれ」
彼女は歯を出して笑うと、漸近したね、と言った。
私はその馬鹿馬鹿しさに思わず笑ってしまった。
嫌な空気は、あっという間に消え去っていた。
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