第4話 二項定理

「京は、これでいくの?」

 休み明け。

 私たちは大学の自習室で時間割の登録作業をしていた。

 小さく区切られたブースの中で、私は玲と一緒に一つの端末を覗き込んでいた。

「これが一番いいんじゃないかな。一般教養に拘りなんてないだろう? 単位をとりやすいものだけ選んでおけばいい」

 私の言葉に玲は少し考えから、そうだね、と頷いた。

 玲。京。

 私たちは、互いを名前で呼ぶようになっていた。彼女が、それを望んでいたから。いいきっかけになったと思う。少なくとも、苗字で呼び合うのは友人としても相応しくないと思っていた。

「私も全部同じにしとこうかな」

 学内サイトからログアウトすると、入れ替わるように彼女がキーボードを引っ張って操作を始める。

 元々似たような時間割だったものが、完全に同じものとなる。彼女は申請ボタンを押すと、満足そうに笑みを浮かべた。

「これで大学内はずっと一緒にいられるね」

「ああ……それで、どうする? まだ時間あるけど」

 次の講義までまだ時間がある。時計を見ながらたずねると、すぐに答えが帰ってきた。

「売店前のほうでゆっくりしようよ」

「わかった。行こうか」

 シャットダウンしてから、鞄を持って立ち上がる。彼女も同じように立ち上がった。

 二階の売店前には割と大きな休憩スペースが設けられている。講義の合間や暇つぶしによく利用されるようだが、私はまだそこを利用したことがなかった。

「フラッシュ暗算とか、やったことある?」

 売店でお菓子とジュースを買い込んで空いた席に座ると、私は何気なくそうたずねた。特に意図があった訳ではない。昨日たまたまそういうアプリを見つけただけで、彼女はそういう計算も得意なのだろうか、と気になっただけだった。

「ほら、簡単にできるの見つけて。ランキング上位が結構凄いよ」

 私が携帯のディスプレイを彼女に見せると、彼女は興味なさそうに一瞥して冷たく言った。

「こういうランキングの人たちって、素の計算が得意というより反復で習熟しただけでしょ」

 こういう人たちはそんなの練習して何がしたいんだろうね、と馬鹿にしたように彼女は笑った。突然の嘲笑に、私は驚いて言葉を失っていた。

「私は、別にこういう計算得意じゃないよ。それを悪いこととは思わないし、むしろ計算や暗算ができるから何って話。そんなのに時間費やしたくないし。でも、数学好きにはたまに計算速い自慢する馬鹿いるよね。なんていうか、システムエンジニアやプログラマ志望の人がキータイピングの速さを自慢するくらいズレてるなって思わない? 数学に反復なんて意味ねーから」

 彼女は心底馬鹿にするように言って、同意を求めてくる。あまりにも酷い言い方に、私は思わず反射的に反論しようと思って、寸でのところでそれを抑えた。

 慎重に、彼女の言葉を検証する。

 数学に反復は意味がない。計算能力があるからといって、数学能力に反映されるわけではない。それは、事実だった。

 エルンスト・クンマーは簡単な九九もできないくらい計算が苦手だったが、彼が偉大な数学者であることに変わりはない。数学能力というものは、そういうものだ。混同されがちだが、算数と数学は決定的に違う。計算能力が早いだけの人間には二項定理を発見することはできない。虚数の存在を受け入れることはできない。数直線を二次元的な平面として新しくとらえることもできない。それが学校の一教科としての数学ではなく、学問としての数学ができる、ということだ。

 システムエンジニアに求められるものは、タイピング能力ではない。建築士に求められるものは、釘打ちの丁寧さや早さではない。そんなものは、必要ではない。求められるものは全く別のもの。本質的な数学は、反復ではなく先天性の才覚に依存し、後天的な数学的バランス能力によって肯定されうるものだ。

 彼女の言葉は、間違っていない。しかし、肯定されうるものでもない。

「……確かに、数学能力と算数能力は別物だよ。でも、あまりそういうこと他人に言わないほうがいいよ。理解と納得はべつものだから」

 私の言葉に、彼女は一瞬目を見開いた後、薄い笑みを浮かべた。

「へえ。京は叱ってくれるんだ。うん。なんか嬉しいな」

 私は彼女の意図を測り損ねて、ただ黙って彼女の目を見つめることしかできなかった。彼女は私の視線を受けながらも、涼しそうに薄い笑みを浮かべるだけで何も言わない。

 理解を諦めて、彼女の言葉で気になっていたことをたずねる。

「玲は……数学者になりたいの?

「そう。だから院まで進学するよ。OLなんてまっぴら。京は違うの?」

 即答だった。迷う素振りを見せない彼女とは反対に、私は歯切れの悪い答えしか用意できなかった。

「……お金があったらね。院まで行くのは、親に負担かかりすぎるから」

 彼女はお菓子を口に含みながら、残念そうに唸った。

「ふーん。うちもそこまで余裕があるわけじゃないけど、私は親の貯金使い潰してでも院いくよ。これで生涯の数学にかけられる時間が信じられないくらい変わるんだから迷ってなんていられない」

 悪びれる様子もなく、彼女はそう言い切った。

 言葉が出てこない。

 黙りこんだ私とは反対に、彼女は尚も言葉を続ける。

「京は、数学者になりたいって思ったことないの?」

 数学者。

 考えたこともなかった。ずっと遠い世界のことのように思っていた。

「……数学の教師にでもなれたらいいなって漠然と思ってるだけで、数学者なんて考えたこともないよ」

「なんで? 数学が好きなら、そこがゴールでしょ。まあ、本来はスタート地点なんだろうけど」

 なんで。

 単純な疑問に対する答えを私は用意できない。

 無理だと思っていた。初めから諦めていた。だから、その為に努力したことなどなかった。ただ好きだから、グダグダと数学を続けていた。

 でも、彼女は違うのだろう、と思った。彼女は本気で数学者になろうと考えている。だから、算数と数学を混同するような真似に厳しく当たったのかもしれない。

「今からでも遅くないじゃん。一緒に院行こうよ」

 彼女はそう言って、身を乗り出してくる。

 数学者。

 院。

 考えたこともなかった世界。

 普通に大学を出て、会社員として過ごすのだと疑わなかった人生。

 この時、初めて私が抱いていた漠然とした将来像に新しい可能性が見えた。

「京って、変に未来狭めてない? まだ何にでもなれるでしょ」

 なれるのだろうか。

 私が、数学者に?

 博士に?

 なれるのだ。博士号をとれば、名実とともに博士に。それは大学を卒業して与えられる学士という学位と比べて特別なものでは決してない。

「……考えてみるよ」

 私はぼんやりとそう答えていた。

 まだ何にでもなれる。

 この時の私には、彼女の言葉が正しく思えた。

 正しく思いたかったのだろう、と私は後にこの時を振り返ってそう思う。

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