第5話 ユークリッド幾何学
全ての講義が終わってから、私は再びイラストサークルへ向かっていた。見学ではなく、正式に入る為だった。
「本当に入るんだ」
後ろを歩く彼女が、どこか意外そうに言う。今回も彼女は私に付き添うといって聞かなかった。
「あまり真面目なとこじゃないでしょ。時間無駄にするだけと思うけど」
「それでも、いい刺激にはなると思うから」
私はそう言って、部室の前で息を吸った。
二度、ノックする。
はい、と女の声がした。ドアを開けると、縦に長い部屋に六人の男女がいた。その中に、日向沙織の姿もあった。
「あ、この前見学に来てた子だね。今日も見学?」
前回の見学の時にも顔を合わせた女の先輩が気さくに声をかけてくる。
「いえ、今日は入部届けを出そうと思って」
「あ、本当? 今日は二人目だね。ほら、こっちの女の子もそうだよ。同じ一年だし仲良くね」
先輩がそう言って、すぐそばにいた日向沙織に目を向ける。日向は控えめに笑って、彼とは元から知り合いです、と答えた。
「あ、そうなんだ。同じ学部?」
「いえ、俺は数学科です。たまたま高校が一緒で」
「へえ。数学科? そんな感じには見えないけど」
先輩が意外そうに私を見つめる。それから私の後ろの玲に目を向けて、そっちは? と言った。
「私も入部希望です」
玲の言葉に、私は驚いて彼女を見た。彼女は私に構わず、滑らかに言葉を続ける。
「絵は全然なんですけど、前から興味があって。彼が入るからっていうのもあるんですけど」
玲は人当たりの良い笑みを浮かべ、極自然に言葉をつなげていく。部室の奥でこちらを見ていた男の先輩が興味を持ったように口を開く。
「なに? きみら付き合ってんの?」
「はい。付き合ったばかりです」
玲が躊躇なく答えると、日向が意外そうに私を見た。その後ろで先輩たちが一斉に冷やかすように笑う。
「彼氏持ちか。はい残念でした」
おどろけるように笑い合う先輩に、玲はただ笑みを返すだけだった。
「えっと、一応部費って形でお金とったりするけど、大丈夫? 絵自体に興味ないんなら損するよ」
女の先輩が確認するように言うと、玲は素直に頷いた。
「大丈夫です」
「それならいいけど……まあ、熱心な人も少ないしね。一応、ここって毎年プロになる人がいるんだけどさ」
先輩はそう言って、肩を竦めた。それからずっと黙っていた私に目を向けて、説明を始める。
「私、部長の谷口。で。見学の時にも言ったかもしれないけど、ここの共有パソコンは好きに使って大丈夫です。一応、一通りのソフト入ってるから、家で出来ないこととかこっちでやるといいと思う。あ、ディジタル? アナログ?」
「アナログですが、色々やりたいと思ってます」
「うん。じゃあ使い方とか分からなかったら適当に誰かに聞いたら答えてくれるから遠慮なくね。ペンタブも共有のだから好きに使っても大丈夫。個人のペンタブ持ってきてる人もいるから見慣れないもの使う時は確認するように。画材は基本的に各自で用意。で……」
部長の谷口さんは途中で言葉を切ると、部屋の隅の本棚を指差した。
「あっちの本棚にある資料とかは昔の先輩が置いていったものばかりだから、好きに使って大丈夫。ただし勝手に切り取ったりは勘弁ね。漫画も結構置いてあるけど、好きに読んでいいよ」
本棚を見ると、雑多な本が並んでいた。人体デッサン。解剖学。世界の風景の写真集。パース。水彩画。油絵。イラストツールの解説本。民族衣装の写真集。ポーズ集。配色集。デザイン集。
普段全く描く機会がないジャンルの本も揃っていて、なるほど、と思った。一人で描くよりは、こうしたサークルに身を置くほうが遥かに視野が広がるだろう。
「基本的に緩いサークルだから、無理に出る必要はないよ。全く絵描かずにダベってるだけの人もいるし」
谷口部長はそう言って、椅子に座り込む。そして玲に目を向けた。
「えっと、そっちの彼女も数学科?」
「はい」
「数学科の人が入るの珍しいな。それも二人も。留年率高いらしいし、この人たちみたいにサボったらだめだよ」
谷口部長が顎を向けた先には、三人の男先輩がいた。そのうちの一人が隣の先輩の肩を叩いて大きく笑った。
「これな、二年生四回やってるんだよ。悪い見本だから参考にな」
「どうも、悪い見本です。って、この紹介の仕方おかしいだろ。大先輩なんだから敬え」
低い笑い声が響く。四回留年してるという先輩は、少し老けて見えた。一体何歳なのだろう、と疑問に思いながら私は曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。入るサークルを間違えたかもしれない、と思った。
不意に、後ろのドアが開く気配がした。振り返ると、髪の長い女が立っていた。
「あ、いいところにきた。こっち、入部希望の……」
「長瀬です」
日影です、と玲が続く。
「あ、そうそう。長瀬くんと日影さん。で、こっちは三回生の秋月(あきづき)ね。当サークルのエースです」
秋月と呼ばれた彼女は、何も言わず小さく頭を下げた。長い髪が垂れ、わずかに乱れる。暗そうな人だ、と思った。
「エース?」
「そう。絵をみたらわかるよ。うちらの中だと一番プロの立場に近いからね」
谷口部長がすぐ近くの棚から冊子を取り出し、それを差し出す。受け取って中身を見るとコンクールの受賞作品が並んでいた。その中に、秋月菫という名前があった。
「これ……」
自然と目を引く絵だった。海中都市。そう題された絵には、海に沈んだ都市が映し出されていた。縮小されていた為細部はよく見えないが、それでも自然と目のいくつくりをしている。
「驚いた? 今でも結構ファンいるんだって。秋月よく部室で絵描いてるから、アナログ派なら参考にしたらいいんじゃないかな。勉強になると思うよ」
秋月さんはもう一度小さく頭を下げると、無言で私たちの横を通り過ぎて壁にかけられたカレンダーの前に向かった。ボールペンで予定らしきものを書き始める。その時、私はふと妙なことに気づいた。秋月さんが書いた日付らしき数字には、色が踊っていなかった。ボールペンの黒いインクがのっぺりと広がっているだけ。
「なに?」
私の視線に気づいた秋月さんが振り返る。恐ろしく低い声だった。
「いえ……」
私は誤魔化すように視線を外した。どこか生気のない暗い瞳が、夜の海のような、底知れぬ暗闇を連想させた。
少しだけ、苦手な人だと思った。
秋月さんが部室の隅で描き始めるのを、じっと観察する。
キューブ形の固形絵具とパレット。
その前で、彼女は素早く筆を走らせていく。
「日向さんは、ディジタル派だったね。どういう絵を描くの?」
「あの、漫画的なものです。最近はポップ系のキャラクタも描きます」
後ろのほうから、谷口部長と日向の声が届く。それらが気にならないほど、私は目の前の光景に目を奪われていた。
空白が、瞬く間に暗い色で彩られていく。そして、それらはすぐ新しく別の色で上書きされ、立体的に世界が産まれていく。
無秩序に暗い色が踊っていただけの世界は、瞬く間に秩序ある空間へ整形され、奥行きが発生する。
考える様子もなく、休む事無く筆が踊り続ける。そこに思考や迷いは見られない。ただひたすら新しい世界が広がっていく。その光景に、私は圧倒されていた。
「わ、かわいい!」
後ろから、甲高い声。谷口部長のようだった。振り返ると、極端にデフォルメされた二頭身のクマの絵を見せる日向と、頬を緩める谷口部長の姿があった。
単色で塗られたクマは確かにうまくデフォルメされていた。谷口部長が何度もかわいいと言う。日向は褒められて嬉しそうに笑っていた。
視線を、秋月さんの絵に戻す。彼女は無言で描き続けている。それに呑まれている私も、何も言わなかった。言葉が出てこない。単純な一言で褒めることは、秋月さんの絵と彼女の姿勢、技量を貶めるような、そんな気がした。
「数学科だっけ。珍しいな。でも、実用性がないと就職で不利じゃない?」
「そうですね。多くの数学には実用性がないように見えます。でもそれは、数学の問題ではなく私たちの理解力の問題だと私は考えています」
玲と男の先輩話し声。目の前に広がる秋月さんの世界に塗りつぶされるように、その会話はどこか遠くのもののように思えた。
「理解力の問題?」
「ラマヌジャンという数学者がいます。当時植民地だったインドで生まれた彼は数学について体系的に学んだことはなかったけれど、定理だけを網羅した書物と出会ってから、数学にとり憑かれ、異常な数の不思議な定理を発見しています。夢の中で女神が教えてくれた、と説明した彼の不思議な定理群は、その多くが役に立たないと思われていましたが、今では素粒子論などに関係することがわかりました。ユークリッドだって、そうです。彼は数学が実用的であるか、なんて問題にしませんでした。むしろ、これが何の役に立つのか、と問いかけた弟子を追放までしました。でも、誰も価値がわからなかったユークリッド幾何学をニュートンは二千年後に天文学や物理学を大きく発展させる為の強力な道具として用いました」
暗かった世界に、明るい色が灯る。光が、現れる。
「リレーなんです。数学は天才たちのリレーです。普通の人には利用方法が想像もできず、それを道端の石くらいにしか認識できません。でも、それが人類の宝であることに、本当に一握りの天才だけが気づいて、それを次の世代へ繋げていきます。本人たちも、それが何の役に立つかわかっていないことが殆どです。でも、綺麗なんです。無限に存在するパターン。その中で、輝きを持つパターンがあります。直感的に、感覚的に、それが特別な定理であることがわかるんです。美しいからです。それが存在するのは必然的である、とわかるんです。そして、人間社会がある段階に達してその数式を受け入れる素養が整った時、その価値がようやく評価されるんです。数学は、科学に先立ちます。科学は遅れて、数学の正当性を証明します」
だから。後ろから玲の熱の篭った声が響き続ける。私は依然として、目の前で色が広がる光景に釘付けになっていた。
「だから、実用的であるかどうか、を論ずることに私は意味を見出せません。これが何の役に立つか。それは、愚問だと思います。自信過剰で、ナルシストで、冒涜的です。想像力の欠如を示すサインでしかありません。無価値に思えるのは、私たちの理解力が届かないから。そう、考えています。だから、就活における数学の有利性なんて、考えるだけ無駄です。それは私たちの理解を超えたところにあって、予測たりうるものではない。そう思いませんか?」
「え、ああ……本当に数学が好きなんだね」
玲の舌が回り続けている。熱を帯びた声。
天才。
その単語が、私の頭に焼きつく。目の前で完成に近づいていく絵は、まさしくそれそのものだった。
迷う事無く、最良の座標に、最良の配色がなされていく。そのパターンには必然性を感じざるをえない。
後ろでは、谷口部長と日向がデフォルメされたクマのイラストについて意見を交し合っている。少し離れたところでは、玲が先輩の一人に数学の魅力を説いている。
秋月さんは喧騒の中、ひたすら絵を描き続けていた。私以外、誰も彼女に注目していなかった。私だけが新しい世界の誕生に立ち会っていた。
彼女の筆を持つ手は、止まらない。
あれだけ暗かった世界が、今は光に満ちていた。そこには確かな空間があった。
色合い。パターン。それを、綺麗だと思う。
似ている、と思った。
綺麗な数式と、似ている。それらが持つ特殊な色合いと、目の前の絵は似ている。
数式に色が見えるように、目の前の色のパターンの中に数式が見えた気がした。
そして、絵が完成する直前。彼女の筆が初めて止まった。
秋月さんは筆を置いて、それから席を立った。
「なに。今回もだめなの?」
立ち上がった秋月さんに谷口部長が声をかける。秋月さんは何も言わず、こちらを振り向いた。そこで、私は息を止めた。
秋月さんは、泣いていた。無表情だった顔を悔しそうに歪めて、涙を流していた。
突然のことに、私は呆然と無遠慮に彼女を見つめていた。彼女は私に視線を向けることなく、黙って私の前を横切り、そのまま部室から出て行ってしまった。
重い音とともに、扉が閉まる。私は説明を求めるように、谷口部長に視線を向けた。
「あー、あの子ね、完璧主義というか何と言うか、最後まで絵を描く事のほうが稀なんだよね。少しでも納得できないところがあるとああやって泣き出して描くのやめちゃうの」
「納得できない? これが?」
私は完成間近の絵に目をやって、そして理解できないと思った。私の様子を見て、谷口部長が困ったように笑い、そして投げ出された絵のもとへ近づく。
「まあ、私たちみたいな一般人から見て完璧な絵でも、あの子にとってはそうじゃないんだから仕方ないよ。見えてる世界が、立っている世界が違うから」
どこか諦めたように、谷口部長は秋月さんが散らかしたままの画材を慣れた様子で片付け始める。
部屋の隅では、玲が興味なさそうに絵を見つめていた。
かわいそう。
小さく彼女が呟いた言葉が、妙に耳に残った。
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