第6話 エントロピー
「秋月さんの絵、凄かったね」
部室から出て帰る途中。私の右側を歩く日向が紺碧の夜空を見上げながら、どこか達観した様子で言う。
「うん……」
私は相槌を打って、それから左隣の玲を見た。玲は絵自体に興味がないのか、何も言わない。
「私たちは素人基準で上手いって褒めるけど、秋月さんはもうプロ基準で考えてるから自分の絵に納得できないのかな。認識してるステージが違うんだよね」
日向はそう言って、私を見上げる。
「長瀬は絵を描いていてプロになりたいって思ったこと、ある?」
「ないよ」
即答した。プロなんて、意識したことがなかった。ただの趣味で、暇つぶしでしかなかった。
そもそも、夢、というものを持ったことがなかった。幼稚園の時だって、夢なんてなかった。それでも、自分の夢を発表しなければならない時があって、私は子どもながらに先生や親に気を遣って、いかにも子どもらしく正義のヒーローになりたい、と言った。心の底では、私が正義のヒーローになれるなんて微塵も思っていなかった。
昔から、高い目標を持てない性格だった。何かになった自分、というものを上手く想像することができなかった。自己評価を高くすることを恥ずかしいことだと思っていた。
数学だって、そうだった。玲に言われるまで、数学者になることなんて考えたこともなかった。ただの趣味だった。普通に学校に通って、大学にいって、サラリーマンになる。そうした一般的な道以外を意識することが馬鹿らしく思えていた。そんなものは叶わない、と根拠もなく思い込んでいた。それは今だって、変わらない。
「私も、ないかな。なれたらいいな、と思ったことはあるよ。でも、プロになりたい。プロを目指そう、なんて考えたことはないよ。だから、絵のことで悔しくて泣いたことなんてないし、絵がうまい人に嫉妬したこともない。でも、プロを目指してる人は、別なんだろうね」
私は、何も言わなかった。
普通より少し上手い。それだけで、私は満足してしまう。それ以上の上を目指そうとは思えない。必死になれない。
「私は、わかるよ」
不意に、玲が言った。短い言葉が、凛と響いた。
「負けるのが、嫌なんだと思う。追い越されるのが、嫌なんだと思う。才能のある人は、無限に後から生まれてくる。気を抜いていたら、すぐ追い抜かれてしまう。後が、ないんだよ。与えられた立場は、すぐ奪われてしまうから」
駐車場を出る。そこで彼女は足を止めた。
「ねえ、なんか気分悪くなってきちゃった。京、ちょっと家あげてくれない?」
私が答えるより先に、玲がしなだれかかってきた。暗闇の中、その表情は見えない。しかし、甘えるような声が響いた。
「ごめん。私たち、こっちだから」
私の同意を待つより早く、玲は私にしなだれかかったまま、日向に向かって申し訳なさそうに言った。
「え、あ、うん。その、大丈夫? お大事にね」
日向が困ったように首を傾げて、それから私に一度だけ目を向けた後、すぐに踵を返した。
「え、ああ。じゃあ」
反射的に口を開いた時、既に日向は背を向けて歩き出していた。
「じゃあ、行こっか」
玲が街灯の下、薄明かりの中で微笑んで、腕を絡めてくる。とても気分が悪いようには見えない。
「玲?」
名前を呼ぶと、玲は私を引っ張るように歩き出した。そして、前を見たまま口を開く。
「私が女子高出身だって、もう言ったっけ?」
「聞いたよ」
そう、と彼女は絡めた腕に力を入れる。
「男の目がないから、共学より皆奔放でさ、色々なところが見えやすいんだよね。もちろん、嫌なところも」
そして、彼女が横目で私を見る。
「多分ね、京が思ってるよりは女の子って好きな相手が彼女持ちかなんて気にしないよ。むしろ、彼女持ちだけ狙う子もいるしね」
一瞬、彼女の言っている意味が理解できなかった。あまりにも唐突な話題だった。
「それ――」
「私が言いたいのは」
私の声を、彼女が遮る。
「彼女がそうかってことじゃなく、そういうタイプが存在するってこと。大事なのは、自己評価なの。競争して、勝つ。自分の優位性を明確に示す。それが大事な人っていっぱいいるじゃない。むしろ、大多数がそういうところあるでしょ。だから、警戒してるわけです」
くるり、と彼女が足を止めて正面から私を見上げる。
「言ったでしょ。秋月さんの気持ちがわかるって。負けるのが、嫌なの。気を抜いてたらすぐ抜かれてしまう。何だってそうじゃない? それがわかってるから、早めに芽を摘んでおくべきだと思ったわけ。大体、彼女がすぐそばにいるのに、一緒に帰ろうとするのってどうかと思わない?」
私は一瞬言葉を失って、それから気づいた。目の前で軽薄な笑みを浮かべる玲がとても幼く見えた。
「玲は――」
無意識のうちに、手が彼女の頬へ伸びた。
「――まわりに味方と敵しか、いなかったんだね」
彼女の目が大きく開く。
彼女の唇が、何かを紡ごうと動く。しかし、そこから音が発せられることはなかった。
「どうする? 理由なくなったけど、このままうちに来る?」
私が問いかけると、彼女はようやく調子を取り戻したように、もちろん、と答えた。
「彼女が彼氏の家に上がることに、理由なんていらないでしょ」
「たしかに」
私は小さく笑って、それから彼女と並んでマンションに向かった。
四月の夜はまだ肌寒い。私は少し迷った後、彼女の手をとった。冷たかった。彼女が僅かに驚いたようにこちらを見て、それから微笑んだ。
「あったかい」
「俺は冷たいよ」
私の言葉に彼女は、エントロピーは増大するのです、と拗ねたように夜空を見上げた。
「そのうち、温度差も何もかもなくなるよ」
「それまでどれくらいかかるのかな」
私が問いかけると、私計算好きじゃないから、と彼女は楽しそうに笑った。
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