第7話 等比級数の和
大型連休が迫っていた。
大学内ではそれぞれグループのようなものが完成しつつある。いくつかの講義を通して私もサークル外の知り合いが出来ていたが、大部分を玲と過ごしている為に交友関係は極めて狭いものとなっていた。
彼女は相変わらず、数学以外に興味を向けることは殆どない。学科内で極少数の女性グループとたまに言葉を交わす程度のようだった。その偏り方には一抹の不安を覚えるが、私が干渉すべきものではないように感じられた。
数学科の講義では、早くも脱落者が出始めていた。特に既存の概念の破壊の必要性を始めに説いていた解析の授業では、早くも理解が追いつかないということが珍しくない。数学科全体が、数学という学問に対して認識を新たにすることを求められていた。
そして私と彼女の関係は、あれから全く進んでいなかった。デートらしいことも全くしていない。一度休日に遊びに行こうと誘ったが、彼女の希望で図書館で数学について話すだけになってしまった。難しい、と思った。
「連休、予定ある?」
食堂で一緒に昼食をとっていた玲が思い出したようにそう言った。
「一度実家に帰って墓参りに行くくらいかな。玲は?」
「高校の時の友達と会うくらいかな。基本暇なんだよね。ね、どっか行かない?」
ずい、と玲が身を乗り出す。
「……行きたいところがある感じだね」
私の言葉に玲はにっこりと笑うと、パンフレットをとりだした。
「理数博物館だって。都内だし、日帰りで行けると思う。ね、行ってみない?」
私はまじまじとパンフレットを見た後、思わず彼女顔を見つめた。
「これ、家族向けじゃない? 夏休みの自由研究用というか……」
「いいじゃん。結構面白そうだよ。ほら、結構いい技術使ってる」
そう言って、玲は写真を指差した。確かに設備は立派なものが使われていて、少しだけ興味が惹かれた。
「うん……こういうのも、たまにはいいかもしれない」
「本当? じゃ、いつにする?」
「金曜日は?」
「オッケー。決まり!」
そう言って、彼女は嬉しそうに笑った。
◆◇◆
朝の九時半。待ち合わせ場所に現れた彼女は、私を見つけると控えめに右手をあげた。私もそれに応えるように小さく右手をあげ、彼女の元に歩み寄った。
薄手のすっきりとしたパーカーに、プリーツのミニスカート。それにお気に入りらしきロングブーツとハンドバッグ。長い黒髪と合わさって、いつもより大人びて見える格好だった。
「待った? って一応聞いとくね」
「今来たところだよ、と一応答えておくよ」
私の返答に彼女は満足そうに笑うと、行こっか、と歩き出した。
「開館十時からだよね。昼過ぎには大体回れるかな」
「軽く調べたけど、子ども用のコンテンツが多いから、そんなに時間はかからないんじゃないかな」
私鉄の駅構内に入り、改札を通る。大型連休ということもあり、ひどく混んでいた。
「京は、自由研究とかで科学博物館とか行ったことある?」
都合よく停車した電車。人が出るのを待ちながら、玲が振り返って私を見上げる。
「あるよ。でも、あまりよく覚えてないな。太陽系の大きな模型があって、自由研究の為にメモに写したことは覚えてる。でも、どういうところだったかってのは全然覚えてないな」
「惑星か。男の子なら興味あって記憶に残りそうだけど」
「逆だよ。その頃は多分、宇宙が怖かった時期だから」
電車に乗り込みながら、答える。
「怖い?」
「そういう時期って、ないかな。無限に広がる宇宙のことを考えるとどうしようもなく不安になるとか」
「ああ……あったね。小さい頃は、怖かった」
彼女は昔を懐かしむように微笑んで、吊り革に掴まった。
「理屈に合わないんだ。無限に続く空間。無限に続く時間。どこにも果てがない。それが直感的におかしくて、得体の知れない恐怖心があった」
「無限って概念は、変な錯覚を引き起こすよね。ずっと考えてると、頭おかしくなりそう」
「うん。そう、それ。多分それが、俺が数学に興味を持ったきっかけだよ」
「きっかけ?」
彼女の瞳が私を真っ直ぐ見上げる。私は頷いた。
「小学生の時、割り算と掛け算をならうじゃないか。それで、一度割ったものは掛けなおすと同じ数に戻るっていうことも習う。でも、実際に1を3で割ると、0.333...になって、それに3を掛けると今度は0.999...になる。1掛ける3割る3は1になるはずなのに、別々に計算すると0.999...になって何かが欠ける。その薄気味悪さが凄く怖かった」
「無限小数との出会いだね」
「そう。無限って概念が、子どもの時は凄く怖かった。宇宙と一緒だよ。それにほら、ちょうど死を意識し始める年齢でもあるよね。死んだ後、無限の無が訪れる。無限に意識がなくなる。それはどういうことだろうって突き止めて考えていくと、凄く怖かった。それと同等の怖さを、俺は目の前の数式に感じていたんだと思う」
「何で、こうなるんだろうって?」
「そう。ちょっと背伸びして従兄弟に教えてもらったら、等比級数の和の公式が出てきた。こういう理屈で1=0.999...が導き出されるって聞いて、でも、よくわからなくて」
「それで、数学に興味持ったの?」
「そう。これを何とかしたら、得体の知れない恐怖感や不安感をどうにかできるんじゃないかって思って」
「うん。無限って子どもの時は凄い怖い。でも、大きくなるといつの間にかどうでもよくなる。そういうものだって、割り切ってしまう」
「感性が衰えてるんだと思う。全部がどうでもよくなって、麻痺してる。数学って、歳をとると新しい発見ができなくなるって言うけど、多分、こういう感性が衰えてるからだと思う。綺麗な数列と、醜い数列の区別が段々できなくなる。数式から、何かを感じることができなくなる。ほら、数学者は年をとると自殺する人結構いるけど、こういう感性の衰えに絶望しているんだと思う。それが一番の理由ではないだろうけど、そういう人も一定数いるんじゃないかな」
それで、と玲の目がじっと私の心の奥を見透かすように固定された。
「その得体の知れない恐怖はどうにかできたの?」
私は少し考えた後、首を横に振った。
「1割る3掛ける3が1に戻らない理由は中学に上がってからわかったよ。戻らないと思い込んでいただけ。0.999...と1が等しいということを知らなかったし、納得できなかった。単純に定義と厳密性の問題だったんだけど、俺はそれに気づかなかった」
「大多数の人がそうでしょうね。そもそも、二つが寸分違わず等しいと知ったところで、それに納得できない人が後を絶たない」
私は頷いた。
「まず、数字を抽象的に見ることができないんだと思う。昔の幾何と同じだよ。面積を測る為に発達した古典的な幾何学では、負の数が長い間意味をなさなかった。数字から現実の何かを想像してしまって、記号的に操作することできない。それと同じ。だから、1という数字でケーキを思い浮かべて、0.999という数字から少しだけ欠けたケーキを思い浮かべ、それらが等しくないと判断してしまう」
目的の駅につき、扉が開く。私は玲から目を離すと、ゆっくりとホームに出た。
「解析の講義で、はじめに教授が言ってたよね。数学は厳密ではないって。確かに皆、数学や数字があまりにも厳密なものだと思い込んでいるんだと思う。だから、数学の持つ本質的な曖昧性や二重性というものを無視してしまうんじゃないかな」
そこで、私は言葉を止めた。デート中に話す内容ではない。
行こうか。そう言って、階段に向かう。
「ねえ」
彼女の声とともに、袖が後ろに柔らかく引っ張られた。
振り返ると、彼女が真剣な顔で私の目を見つめていた。
「それで結局、無限に対する恐怖も解けたの? 永久の死に対する恐怖も?」
あまりにも真剣な顔で問われた為、私は言葉に詰まった。
冗談交じりに答えることを許さないような、鋭い視線だった。
黒曜石のように黒く透き通った彼女の瞳の奥で、何らかの感情が蠢いて見えた。しかし、その感情の名前を推察することは叶わず、私は奇妙な圧力に負けて目を逸らした。
「……麻痺して、どうでもよくなったよ。もう、そんなこと考えることもなくなった」
私の返答に、そう、と彼女は穏やかな顔で答えて歩き出した。そのまま横を通り過ぎた時、彼女の横顔が一瞬だけとても悲しそうに見えた。
「玲?」
私の言葉を無視するように、彼女は私の前を歩き、そして振り返った。
「早くしないと混むよ」
さっき一瞬だけ見せた陰は跡形もなく消え去り、彼女は笑顔でそう言った。
「……ああ」
私は頷くと、彼女を追うように足を進めた。肩が並んだ時、どちらからともなく手が絡み合った。
頭上では空がよく晴れていた。
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