第8話 チャンパーノウン定数
駅から理数博物館までの道沿いにはちらほらと家族連れの姿が見えた。小学校低学年ほどの小さな子ども連れが特に目立つ。
前を歩く小さな兄弟らしき二人が子ども特有の甲高い悲鳴ともとれる声をあげて走りだし、追いかけっこを始める。その様子を見て、車道に飛び出したりしないだろうか、と不安な気持ちに駆られた。
「子供のああいう元気な姿って一歩間違えば事故に繋がりそうで見ていてちょっと怖いよね。可愛らしいんだけど」
自然と零れた言葉に、玲が冷ややかに答えた。
「そう? 私、子ども嫌いだからうるさいとしか思わない」
私は続けようとしていた言葉を飲み込んで、繋いだままの手をじっと見つめた。
数学について語り合っていた時はあれだけ近く感じられた距離が、途端遠く思えた。
そして、思い知らされる。
付き合う事になったとはいえ、私と彼女を繋ぐものは数学という学問しかない。私達にはそれ以外の情も、信頼も、思い出も何もない。
私と彼女はまだ本質的に友人未満の他人で、相互理解というものが圧倒的に足りていない。
今はまだ、彼女と私の関係は本当に形だけのものだ。
彼女についての理解を広げていなければならない、と思った。そして数学以外の繋がりも広げていかなければならない。
「あ、見えてきたよ。結構駅から近いね」
彼女の言葉で、前方に理数博物館が近づいていることに気づく。
「随分と大きいね」
無意識に呟きが零れた。
「出来たばかりだしね。都内の小中学校の課外学習とかよく来るから結構大きくなったのかな」
赤茶色の外壁をした理数博物館が近づいてくる。周辺は広場のようになっていて、スピーカーやら機材を広場に広げている人がいた。大道芸人だろうか。まだ朝ということもあり、そこまで人通りは多くない。
外で二人分のチケットを買ってから館内に入る。照明が控えめで僅かに薄暗く感じるが、出来たばかりということもあり内装は清潔感があり綺麗だった。
入場ゲートの係員にチケットを渡し、順番に中に入る。通路に進んで歩くと、はじめに人間の手を模した石像があった。
「数の始まり……三万年前の原始人は、一という数とたくさんという概念しか持たなかった。やがて一つと二つを分けて考えるようになり、一、二、三と続いた。今もなお、ボリビアの一部の民族では一から三しか数が存在せず、それ以上はたくさんという数字で処理をしている。やがてこれらは、四という数字を表現する時、二と二という表現を用いるようになり、言葉の組み合わせによって大きな数を表現するようになる。二進法の誕生である。やがてこれらの底の数は人間の最も身近な道具である手足の指の数を基にするようになり、現在の十進法へと繋がっていく。人の手足は、最も使い古された計算機である」
玲が朗読するように抑揚をつけて読み上げ、肩を竦める。
「恋人や夫婦が常に一緒にいることが求められている国だったら、四十進法とかが流行ってたのかしら?」
「どうだろう。数字の記号だけで四十もあるとパソコンとかのキーボードが大変なことになるし、ある程度コンパクトに収まるところで勝手に収束するんじゃないかな」
「ああ、印刷技術が出てくる辺りの文明レベルで不要な記号は徐々に破棄されていくね。あまりにも大きすぎて整理出来ない場合は中国語のピンインみたいな発音記号で変換するようになるのかな。そういう意味では原始的だった二進法が一番優れてるね。桁数が跳ね上がるけど、必要に応じて十六進法に変換して圧縮できるし」
雑談を交えながら、通路を進んでいく。バビロニアの計算機が展示してあり、その使用方法について詳しい解説がついている。流し読みしながら、楽しそうに数学について語る玲の横顔を見た。
「あは、六十進法だって。バビロニア人は相当な捻くれ者だったのかな。こういう数学の考え方一つとっても、当時の気候や地質、宗教や勢力図が綺麗に反映されてて面白いよね。水害に悩まされていたエジプト人の数学体系は本当に合理的で、実用的な幾何学に特化している」
玲の言葉を聞きながら、それなら玲の数学観にも彼女の暮らしてきた環境などが反映されているのだろうか、とぼんやりと思った。
数学には強い意欲を見せるが、大学ではそれ以外に興味を向ける事は決してない。その執着心はどこから生まれているのだろう?
「ねえ、京が数学でこれまで一番感心したり驚いたことってなに?」
展示品が天文学と数学の繋がりに入った時、玲がくるりと私を見てそう尋ねた。
私は少しだけ悩んだ後、ガウス平面かな、と答えた。
「数直線という考え方自体、文明がかなり発達してから生まれたものだよね。何の疑いもなく、この数直線に全ての数字が入っているのだと思ってた。この一次元的な数直線を二次元的なガウス平面にまで広げるなんて考えもつかなかった。初めてこの概念を知った時、なんというか目眩みたいなのを感じたよ」
「世界が広がる瞬間って、凄いよね。うん。数学の面白いところは、こういう得体のしれない広がりが色々な分野に散らばってるからだと思う」
彼女は展示品を眺める為に腰を屈めながら、私はね、と言葉を続けた。
「私はね、チャンパーノウン定数が一番好きだよ。この中には全ての有限パターンが入っている。私の電話番号、京の電話番号はもちろん、アスキーコードで表した源氏物語、京が生まれた瞬間の映像のバイナリコード、既に絶滅した生物のDNAのパターン。便宜的に数字で表せる全ての有限パターンが詰まっている。私が生まれてから死ぬまでの情報を電子的にバイナリで記録できるとするならば、私の生涯も予めこの数字の中に詰め込まれている。ある時点での全ての細胞にコードを割り振ったとすれば、その身体構造そのものも記録されている。もし、宇宙に終わりがあるならば、宇宙の果てがあるのならば、宇宙が生まれてから死ぬまでの全ての状態もこのチャンパーノウン定数に入っている。この概念の中に、あらゆる事象が圧縮される。そのどこまでも広がる広大さに、畏敬に似た何かを感じて仕方がないよ」
「全てのパターン……」
現在社会では、よほど複雑で精密性を求められるもの以外はバイナリデータで表現できる。
文字。音楽。映像。計算機で表せられるようなものの全てが、チャンパーノウン定数のどこかに既に存在している。
無理数であり、超越数でもある。循環しない、ということはそういうことだ。決められたパターンを繰り返さない以上、無限に新しい数列を作り出していくのだ。
「……円周率も、無理数で超越数だよね。あれも全ての有限パターンが入っているのかな」
私の言葉に、玲は残念そうに首を横に振った。
「ううん。円周率についてはまだ証明も否定もされていない。不思議だよね。数学定数の中で最も重要なもので昔からあるのに、まだ殆ど何もわかってないなんて」
本当に残念そうに彼女はそう言った。
わからないことを悔しがるように。
「ねえ、展示コーナーはここで一旦終わりみたい。向こうにちょっとしたゲームがあるよ」
入り口から続いていた通路を抜けると、広場になっている大部屋があった。参加型のちょっとしたアトラクションが置いてある。さっきまでの通路は殆ど人がいなかったが、ここには小さいこどもを連れた親子の姿がちらほらあった。昼に近づけば、もっと人が増えるのだろう。
「あれやってみない?」
玲が目を輝かせて、一つの筐体を指さす。素数シューティングと大きなタイトルがついていた。どう見ても子ども向けのものだったが、彼女はそれを気にした様子もなく、ずかずかと低年齢層の中に入っていく。
「二人プレイできるみたいだよ! 一緒にやろうよ」
三、四人の家族連れが並んでいる後ろに玲が陣取り、はやく、と急かす。私は思わず苦笑して、彼女の後を追った。
「画面に素数が出たら撃つのか」
前の子どもが銃を持って画面に向かって撃ってるのを見て、タイトルと合わせて何となくルールを理解する。画面下には素数について丁寧な解説があって、いくつかの例が載っていた。はじめは例に載っている素数しか出ないが、ゲームが進むにつれて徐々に数字が大きくなっていくようだった。
「もうこれはトップを狙うしかないね」
玲は不敵な笑みを浮かべ、子どものようにはしゃいでいる。
子ども嫌いと言っていた割に、こういうのは嫌いではないらしい。
そして、私達は大人気なくランキングトップを取った。当分、この記録が破られることはないだろう。
そして、この結果もチャンパーノウン定数には既に刻まれている事なのだろう、とふと考えて落ち着かない気分になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます