第9話 ZFC公理系
理数博物館を全て回り終えたのは、十二時を過ぎてからだった。
出口のおみやげコーナーで三十分ほど時間を潰して、外に出る。よく晴れていて、風が気持ちよかった。
「ご飯どうする?」
玲が眩しそうに空を見上げながら聞いてくる。私は携帯を取り出すと、予め登録していた地図を呼び出した。
「近くにイタリアンがあるって。ランチタイムはバイキング形式みたい。混み具合はわからないけど、いってみる?」
「へえ。値段、大丈夫?」
「そんなに高くないみたい。品数は少ないらしいよ」
「じゃ決定だね」
玲はそう言って、す、と手を出した。私は僅かに迷った後、彼女の手を握った。
「お昼ごはんの後、どうする?」
どちらからともなく歩き出すと、彼女が上機嫌な様子で私を見上げた。
「そうだな。適当にブラブラしてみる? この辺り来たことなかったから、ちょっと見て回りたいんだけど」
「うん。知らないところ歩くのってワクワクするよね」
それから、言葉がなくなった。
理数博物館で頭を使って少し疲れていたせいか、沈黙も気にならなかった。
彼女との会話の半分は数学に関連する話だ。その範囲も広く、彼女との雑談は下手な講義を受けるよりも集中力が必要で、どんどん先へいくために気が抜けない。気を抜いていれば、置いて行かれてしまう。
無言のまま、大通りを渡って地図通りの目的地に向かう。視線を感じて横を向くと、玲が私をじっと見上げていた。
「京は、誰かとこうやってデートしたことある?」
「ないよ。高校の時は部活ばっかりだったし」
「ふうん」
玲が楽しそうに相槌を打つ。
「健全な高校球児だったんだ?」
「今思えば、野球馬鹿だったな。玲はなにか部活やってなかったのか?」
「帰宅部だったよ。数学以外、興味なんてなかったし。あ、でも先輩に数オリのメダリストがいてね、放課後はよく一緒にいたかな。それが部活みたいなものだったかも」
「へえ……先輩……」
脳裏に、放課後の教室で誰かと二人っきりで楽しそうに喋る制服姿の玲の姿が浮かんだ。同時に、僅かな不快感が沸き起こった。
「あ、ちなみにその先輩は女だからね。女子校だし。安心した?」
私の思考を読むように、彼女が悪戯っぽく笑った。
「ちょっとだけ」
それだけ答えると私は足を止めた。
「ついたよ」
メニューと値段の載った看板があり、奥に細い階段がある。少し、入りづらい店だった。
細い階段をのぼって二階に上がると、待ち用の椅子が並んだ空間の先にすぐ店があった。そのまま自動ドアをくぐって中に入る。
「意外と広いね」
玲が小さい声で囁いて、キョロキョロと周囲を見渡す。入り口からは想像できないほど、中は広かった。
店員に案内されて席につくと、玲は言いづらそうに私を見上げた。
「ごめん。タバコ、いい?」
予想外の言葉に、反応が一瞬遅れる。
「え、あ、うん。いいよ。もしかして気遣ってた?」
「うん……あんまり吸わないようにしてたんだけど……」
そう言いながら、玲は鞄からタバコを取り出すと、そっと火をつけた。
「京は、やっぱりタバコ吸う女の人はいや?」
ふう、と息を吐いてから玲はどこか自嘲するように言った。
「いや、別に……限度があるけど、ちょっとくらいならいいんじゃない?」
「そっか」
沈黙。
私は水に口をつけると、食べ物とりにいこうか、と切り出そうとした。しかし、それより早く玲の唇が動いた。
「ねえ」
タバコを吸いながら、玲の瞳が真っ直ぐと私に向けられていた。
「私達、まだお互いに知らないことだらけだと思うんだよね。聞かせてよ、きみのこと全部。私も全部言うからさ」
「全部……」
反芻すると、彼女は微笑んで頷いた。
「そう、全部。きみの中身、全部、知りたいな」
彼女の瞳が、私を射る。
正直なところ、この目が私は苦手だ。彼女の瞳は時折、酷く粘着質に感じることがある。
「と言われてもなあ……何から言えばいい?」
「ん、そんな難しく考えないでさ……前、兄弟はいないって言ってたよね。三人家族?」
「ああ。母親は専業主婦。父親は普通のサラリーマンだよ」
「ふうん……なんか、そういうのってよくわからないな」
玲はそう言って、視線を逸らした。
「前も言ったと思うけど、私、父子家庭なんだよね。基本的に父親は仕事で家には誰もいなかったし。なんだろう。母親っていうのがうまく想像できない」
「……別に、そんなの家によって違うんだから想像できなくてもいいんじゃないか」
「うん……まあ、そうなんだけどね。でも、同じ公理系の中に立っていたいわけじゃない?」
灰皿の上でタバコを揺らしながら、玲が薄い笑みを浮かべて言う。
「誰もが無意識にZFC公理系の中で思考する。でも、私だけZFC公理系を選択的に選んで、その枠組を意識しながら手探りで作業をすすめるのってなんか、すごく疎外感がない? まあ、こんなこと言っても仕方がないんだけど」
「同じ公理系の中に、立ちたい……」
彼女の言葉を繰り返すと、そう、と彼女は笑みを深くした。
「だから、京のことをもっと知りたいし、私のことも知ってほしいわけ」
そして、玲は立ち上がった。
「食べ物、とりにいこうか。それからゆっくりと色々なこと話したいな」
「ああ」
頷いて、立ち上がる。
もっと彼女のことを知りたい、思った。
「やっぱり、品数は少なかったね。値段考えたら仕方ないけど」
トレイにピザとパスタを盛り付け終わり、テーブルに戻ると玲が小声で囁いた。
「そもそも、パスタとピザってそんなに種類あったっけ。似たようなのはいっぱいあるけど」
「あー、大別するとかなり少ないかも」
玲はそう言いながらピザを一口齧ると、うん、と頷いた。
「イタリアか……すぐ出てくるのはフィボナッチだね」
一瞬、彼女の言葉についていけなかった。
一拍遅れて、イタリアの数学者、レオナルド・フィボナッチのことだと理解する。
普通のことを話していても、ふとした拍子に数学の話に飛躍するということが、彼女にとっては珍しくない。
彼女のこの思考の飛躍に慣れるのにはまだ時間がかかりそうだった。
「とても基本的なことだけど、フィボナッチ数列はいいよね。すごくスマートで綺麗だけど、ポテンシャルが凄い。虫や植物といった自然物の中に不思議と組み込まれていることがある。まるで誰かが数学的にプログラミングしたように。そこに必然性があるように思えてわくわくしない?」
「多分、分解能が足りないんじゃないかな。だから現象は見えるのに関係性が見えない」
私の言葉に、玲は嬉しそうに微笑んだ。
「それは私もよく思う。空間があるの。空間に、地球のような球体がある。その球体の影が、地面に落ちる。平面上に広がる影の、その一部を切り取った直線。それが、数直線。私達は零れた一つの軸だけすらも扱えなくて、観測しきれない。世界はもっと広大で、続いていて、でも私達の分解能では到底捉えきれない。決して捕まえられない」
物語を伝えるように、大事な日記を読み上げるように、彼女は言った。それから恥ずかしそうに笑った。
「ごめん。そう、キミのことを知りたいんだった」
「俺はもっと玲の数学観を聞いていてもいいけど」
「それはまた今度。京は生まれも育ちもこっち?」
玲が小首を傾げ、私の瞳を覗きこむように見上げる。
「そう。引っ越しとかは一回もなかったよ」
「ふうん。中学の時も野球してたんだよね。坊主だったって言ってたし」
「ああ。野球は小学校から地元のリトルリーグに入ってた」
「高校の時、バイトとかは?」
「土日だけ近くの小さいゲーセンで。受験に入って辞めたけど。玲は?」
「短期は何度か。長期はやったことないよ。お金だけは黙って出す親だったし」
玲は素っ気なく言って、もう一口ピザを齧る。
「……お父さんとは、あまり仲が良くないの?」
「さあ。悪くはないんじゃないかな。どちらかと言えば無関心な方だから喧嘩になったりしないしね」
私は何も言わず、彼女に倣うようにして手元のポテトを口に含んだ。
「離婚の原因だって、過干渉な母親と家庭に無関心な父親の摩擦が原因だったし。まあ、だから結構自由だよ。門限も曖昧だし」
彼女はそう言って薄い笑みを浮かべた。
私は彼女の話を聞きながら、以前も彼女は親に対して似たようなことを話していたことを思い出した。
あれは確か、将来は数学者になりたい、と言っていた時だっただろうか。
――うちもそこまで余裕があるわけじゃないけど、私は親の貯金使い潰してでも院いくよ。これで生涯の数学にかけられる時間が信じられないくらい変わるんだから迷ってなんていられない。
あの時、彼女は悪びれる様子もなくそう言い切った。
無関心な父親だと玲は言ったが、玲もそれと同じように父親や家庭に対して無関心なのだろう、と思う。
仲は悪くない。彼女の言葉はきっと嘘ではないのだろうけど、真実でもない気がした。
「ねえ、この後どうする? ブラブラするって言っても色々あるじゃない。私、出来れば本屋行きたいな。オススメの本結構知ってるんだけど」
彼女はそう言って、機嫌が良さそうに残りのピザを頬張る。
「ああ……いいよ」
私が相槌を打つと、彼女は、うんうん、と何度も頷いた。
それから、私達は色々なことについて話し合った。
彼女が言った通り、お互いのことについて。
大学のことについて。
とりとめのない雑談。
当然のように数学のことも。
彼女が言ったような、互いのことについて知り合うということは正直なところたった数時間ではできそうにないが、それでも前には進んでいるのだろう。
少なくとも、子ども嫌いだ、という彼女の言葉に面食らうことはもうない。
彼女がタバコを我慢する必要もない。
父親との関係について下手に踏み込むこともない。
悪いところも含めて、少しずつ彼女のことを知っていけばいい。
「そろそろ出ようか」
私が言うと、彼女も頷いて立ち上がる。
そのまま会計を済ませて外に出ると、私達はブラブラと歩きながら本屋を探した。
付き合わない?
初めは、その言葉に戸惑った。
好き、という感情はなかった。
でも、こうやって一緒の時間を過ごすことで、徐々にそれらしい感情が芽生えるのだろう。
「ね。あの店寄らない?」
玲が弾けるように笑って、私の手を引く。
私も釣られるように笑って、そのまま彼女の手を握り返した。
このまま穏やかにうまくやっていける。
確かな根拠は何もなかったけれど、そう思った。
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