第14話 ゲーデルの不完全性定理
心地良いまどろみの中、意識が浮上する。
最初に感じたのは温もりだった。
目を開けると、玲の寝顔があった。
ゆっくりと身体を起こし、時計に視線を向ける。
十一時半。
随分と寝てしまった。
背を伸ばすと、背骨から小気味良い音が響いた。
シングルベッドに二人で寝ると、あまり寝た気がしない。寝返りが打てないせいか、身体の節々が痛かった。
それでも最近は朝まで眠れるようなった。なにしろ、夏季休暇に入ってから玲はずっと家に帰らずに泊まりこんでいる。いい加減身体が慣れてしまっていた。
しばらく玲の穏やかな寝顔を見つめてから、私はベッドから降りてキッチンに向かった。
1kのキッチンは本当に形だけのもので、使い勝手は最悪だった。最近は殆ど使っていなかったが、たまにはマシな朝食を用意しようと冷蔵庫から卵を取り出し、器に割り入れる。
その時、ベッドから呻き声が響いた。
振り返ると、玲がもぞもぞと起き上がるところだった。
「おはよう」
声をかけると、彼女は何故か気まずそうにシーツに手を気にする素振りを見せた。
「ごめん。汚した」
短い言葉だった。
理解が及ばず、キッチンから離れて玲の元に向かう。
玲は私を見上げながら、そっと掛け布団をあげてみせた。
そこにあったのは血痕だった。
そこでようやく事態を理解し、ああ、と意味をなさない言葉が口から漏れた。
「多分、ずれたんだと思う」
「……えっと、シャワー浴びてきたら? 適当にハイター浸けとくから」
「うん。ごめん」
玲は小さな声で言って、そのまま棚からバスタオルと着替えを取り出して浴室に向かった。
私はそれを見送ってから、血で汚れたシーツを見下ろした。
ここ数日で随分と玲の持ち物が増えた。バスタオルだって、シャンプーだって歯磨きだって彼女専用のものだ。共同生活には慣れてきたが、未だに戸惑う事も多い。
汚れていたシーツと敷きパッドを取り外す。
処理した後、部屋に戻ると玲の研究ノートが目に止まった。
無題のそれは、すでに使い古されてボロボロになっている。
拾い上げ、表紙を捲る。
書き殴ったかのような数式が並んでいた。
いくつかは私でも知っているような有名な難題で、大勢の数学者たちが証明に取り組んでいるものだった。
ノートを捲っていくと、玲がそれらに順番に挑戦し、放り投げていくのが見て取れた。
飽きっぽいと思う一方で、それを正しいとも思う。
フェルマー予想なんて、350年に渡って多くの数学者を葬り去ってきた。天才と呼ばれた人たちがそれを解くために人生を賭け、何もなしえずに死んでいった。
唯一、フェルマー予想を解いたアンドリュー・ワイルズは200ページにも渡る論文を書き上げたが、殆どの数学者はそれを理解すらできなかった。その解が正しいと判断した審判だって6人がかりで章ごとに分割して解釈していくしかなかった。
証明を成し遂げても、それが正しいのか誰もわからないことなんて往々にあるのが数学だ。だからこそ、誰もが理解者を欲している。
玲もきっと、理解者を欲している。
きっと、それが私の役目なのだと思う。
「盗み見は感心しないな」
玲の冷たい声。
顔をあげると、玲が裸で立っていた。
髪から滴る水が、フローリングを濡らしていく。
「っていうか、見ても面白くないでしょ? それ、ただのお遊びだし」
玲はそう言ってゆっくりと近づいてくる。
ひたひたと足跡が床に広がっていった。
「私、誰かの考えた問題で自分の人生潰す気ないんだよね」
それにさ、と玲の冷たい目が私の目を覗き込んだ。
「答えがある保証もないしね」
中学時代、教師がこう言っていた。
数学には必ず答えがある。だから面白いのだ、と。
けれど、それは嘘だ。
ゲーデルは不完全性定理を証明してしまった。
数学には、正しいとも正しくないとも判断できない命題が存在すると証明してしまった。
それが正しいと保証されたものであっても、証明することが永遠に不可能なものがこの世界には存在する。
そして、このゲーデルの不完全性定理すら、真の意味で理解できている者は数えるほどしかいないと言われている。
百年前の定理すら現代に生きる大半の数学者が心の底から理解し、納得できないのが数学の世界だ。
どれだけ正しくても、それを理解できる者は殆どいない。
正しいことを提唱しても、学会に相手にされなくて自殺した数学者だっている。
数学自身の持つ正しさは、先鋭化するにつれて誰も理解できなくなっていく。
だから、誰もが理解者を欲している。
「私はね」
玲の唇が、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「もっと単純で、綺麗なものを見つけたいの」
私の手にあったノートが、玲に奪われる。
玲はそのままノートを放り投げると、薄い笑みを浮かべた。
「無限に続く対数の底、無限に続く円周率、不可視の虚数。それらが結びつくと、-1になる。全てが必然で、これらはただの人工物ではない特殊な記号であると確信できる。私は、そういう綺麗なものを自力で発見したい」
だから、と玲の目が私に向けられた。
いつもの粘着質な視線だった。
「私のこと、もっと見ててよ。必ずやってみせるから。こんなお遊びじゃなくてさ」
足元に落ちたノートが、玲の足で踏みつけられる。
傲慢という言葉を体現するような存在が、そこにあった。
「京には歴史を目撃する特等席と、はじめにそれが正しいと判定する権利をあげるよ」
かつて天才少女と呼ばれた日影玲は、未だその歩みを止めようとしない。
死の方程式 月島しいる @tsukishima_seal
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