こたえなんてほしくなかった

 恋人みたいな遊びができていたのはいつまでだっただろう。放課後一緒に帰ったり、街に出てゲーセンやカラオケに行って、帰りに鯛焼きを立ち食いしたり。

 部室に寄らせてもらってみんなの音楽に浸ったり、教室に二人きりで残ってあたしの落書きをじっと見られたり。


 ついばむようなキスと優しく絡まる指。

 悔しいことにまだ覚えている。


 人混みの初詣で肩をずっと寄せていたこと。校庭に舞い落ちる桜の花びらをいつまでも追いかけていたこと。真夏に呼び出されて電車で海へ行ったこと。思い出せばきりがないような、かなでの表情。

 三年のポスターもあたしが描いた。前の年より色数を絞った都会的なヴィジュアル。未尋みひろパパの文字入れも雰囲気ごと変わっていて、やっぱりさすがだった。

 ステージが終わったあと、あの階段の下で強く抱きしめられて、いつもより長くキスをした。


 でも受験が近づくにつれて、会う頻度は減っていった。自由登校でさらに。あたしが第一志望への入学をなんとか補欠で決めた頃、奏たちにデビューの噂が立った。

 卒業式のあとで、蕾をふくらませた桜の下に腕を引かれた。ためらいなく唇を重ねようとするのを、今度こそ許せなかった。

 会えなかった時間をなぐさめあうわけでもなく、ただ触れるだけで終わらせてしまうつもり? あたしの心を確かめもしないで?

 デビューの話だって噂でしか聞いてない。


 黙って逃げ帰って、あたしは長い長いメッセージを打った。


 初めから住む世界が違ったじゃないか。あたしなんかに、君にとってはささいなことにこだわるあたしなんかにくっついてないで、もっと広い世界に行ったらいい。

 もてあそばれただけなのだとしても、あたしはけっこう幸せだった。恋ってやつの甘さだってわかった。恨んでなんかない。だけどこれ以上一緒にいたらあたしはあたしを壊してしまう予感がするんだ。

 恋に引きずられて間違えたくない。大学で勉強するのも社会に出るのも、テキトーにできるほどあたしは器用じゃないし。

 だからさよなら。あたしのぶんまで遠くに、たくさんの人に見られるところに行ってほしいな。


 そんなようなことをひたすら書いた。思いつくまま書いて、ろくに読み返しもしないで送信した。

 返事は来なかった。それでいいと思った。あたしのことはきれいに忘れるか、きれいにただ覚えていてくれればいい。


 大学でデザインを専攻しながら、あたしは平凡な未来について考えていた。次の恋なんて都合よくやっては来なかったけれど、デザイン理論と美術史、それからデジタルがあたしを強くしてくれた。

 ツールが増えるのは良いこと。あたしの足りないところを補ってくれる。

 作品を言葉で説明することも、課題の条件から意図を読みとくことも覚えた。


 成績は悪くなかったし、学外活動も頑張っていたし。それでも就職活動は甘くなかった。

 さんざん落ちて、そのたびリクルートスーツがみじめだった。


 彼らの姿を画面ごしに見つけたのは、そんな日々のなかだった。

 大人になって、でもあんまり変わってないような気もした。制服は脱ぎ捨てて、華やかで洗練された衣装をまとっている。それは鎧だ。楽器は剣だ。


 CDを買うのに迷いなんてなかった。ジャケットのかっこつけたポーズはなんだかむず痒いけど。

 フィルムを外して急いでプレイヤーに突っ込んで、再生をかけながらシングルの歌詞カードを見て、へたり込んだ。詞を書いたのはあいつだ、奏だ。


 あたしの長い長いメッセージの答え。あいつにとってあたしがどう見えていたかってこと。どんなに好きだったかなんてこと。そんなの要らなかったのに。馬鹿みたいに一方的に、届くかどうかもわからない方法で、なんでよ。


 懐かしさなんて感じない。あの日の輝きそのままだった。でもあたし、こんなにキラキラして見えてたのかな?

 歌の中であたしは自分が思うより可愛くて、エネルギーに満ちていて、自由に色と形を操るイラストレーターだった。ステージの下から彼を支えて、インスピレーションを与える存在だった。

 キスの柔らかさも指の温度も、くすぐったいくらい痛いくらい言葉にあらわれていて。国語で赤点を取ったのが一度や二度じゃないなんて、もう誰も信じないだろう。


 面接用の作品集ポートフォリオをいじろうとしていたパソコンの電源を落とす。

 彼らを描くならアナログがいい。手に満ちる衝動をそのまま伝えられるから。

 アクリルガッシュなら、あの頃よりも馴染んでいる。筆だって。理論も経験も年月のぶんくらいは重ねている。今度は一週間もかからなかった。就活はちょっとばかりおろそかになったけど。

 緻密だけど強く。鮮やかだけど、まとまり良く。彼らの、少し大人になった骨格、表情。うねる抽象のなかに歌詞からモチーフを取ってちりばめる。


 描きあげた絵を梱包して、悩んだ末に赤のマーカーを取る。


「ファンアート在中」


 住所は彼らの事務所。捨てられたらそれはそれで。奏があたしにコンタクトを取らなかったように、あたしも直接押し付けはしない。


 あの日まだ君は名もない男の子で、あたしのはじめての恋人だった。君たちみたいに輝かしい道を行くことはたぶん、あたしには難しすぎるけど。

 だけど大丈夫。あたしはここにいて、あたしなりに頑張って、あたしの光を探すから。


 たとえもう道が交わらなくても、あたしの青春はきっと、君のものだったよ、奏。やっぱりなんか、悔しいけどさ。

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まだ君は名もない 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba

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