はじめてをあげる

 スケッチブックにシャーペンと水性マーカーのラフを描くのに一晩かからなかった。描き上がっても夜明けまで眠れなかった。

 はっきりとは思い出せないリズムとメロディ、そして歌詞。ただ色だけで胸がいっぱいだった。楽器やポーズの資料はとりあえずネットで探すだけで足りた。本格的に描くなら、またクロッキーから始めるべきだけど。


 いつものあたしとちょっと違うカラー。ヴィヴィッドで熱くて、激しい。


 構図はいたってシンプルに。四人並んだ演奏シーン。それぞれの楽器から、指から、鮮やかに色が広がる。背景は音楽に呼び起こされたままの抽象。


 スケッチブックを鞄に入れるとき、迷いで手が震えた。安全という意味なら、切り離して部屋に置いておくほうが確実。

 それをしない未練が悔しい。期待してしまう自分が嫌い。

 気に入ってもらえるかも、とか。誰かに認めてほしい、とか。いまさらなんの意味もないじゃないか。自分の醜い欲をなだめるために、下手くそな絵をさらしてわらわれるリスクをおかすのか。


 結局、鞄に入ったラフを忘れたいだけの一日になった。

 数学で当てられて答えられない。英語の予習を忘れたことすら忘れている。現代文の音読ではつっかえつっかえ。

 放課後になる頃には疲れ果ててぐったりしていた。ずるずると足を引きずって下駄箱にたどりつく。部活がない日でも掃除が終わるまで待って教室で落書きしたり、課題をやったりすることは多いんだけど、今日はとてもそんな気分にはなれなかった。


 ローファーへと伸ばした腕がさえぎられた。


 森瀬の手だった。骨格の整った甲から指。顔をあげるのも重くて、顔を確かめるなんてとんでもなくて。しかたなくうつむいたままでもっと頭を下げる。


「ごめんなさい。昨日、挨拶もしないで帰りました」

「いいよ、そんなん。無理やり誘ったの俺だし」

「ううん。あたしが失礼だっただけ」


 顔が上げられなくなる。罪悪感ばっかりふくらんで、ラフ押し付けて逃げたくなる。暴走したのはあたしのほうで、引っ張られて聞かされたのはたしかに強引だったけど、謝罪くらい受け取ってもらえなかったら、困る。


「あのさ、絵、描いちゃった」


 ほら。余計なことを言わされるのはあたしだ。


「え、もしかして持ってんの? 見ていい?」


 ここで嘘をつけるくらい器用だったら、あたしはあたしとして生きていない。せめてほかの人に見られたくなくて、鞄に入れかけた手を止める。


「どっか人のいないとこに、移動していい?」


 彼らの部室に向かう人気のない階段。昨日より早い時間で、窓から入る光はまだ白っぽい。

 一階の、階段の裏はぽっかりとあいている。子どもが押入れに隠れるみたいに、あたしたちは三角のスペースに立った。鞄からスケッチブックを取り出す。


 ページにある色が、森瀬の瞳に反射する。まぶたがぱっと大きくひらいて、琥珀色が明るくなる。


「すごいよ、これ、一日で?」


 閉じたスケッチブックがあたしの腕に戻る。予想もしない衝撃が、それに続いた。

 森瀬の身体がぶつかる。かたく抱きしめられる。息が苦しいくらいに。体温が肌にまとわりつく。耳にかかる吐息が熱すぎる。


「リリカって呼んでいい?」

「なんでよ」

「だめ?」

「しらない、べつにいいんじゃない……ねぇそれより離して。お願いだから」


 離れたら離れたで、空気の冷たさが寂しい気もして。あたしってそんなに人肌恋しいタイプだったっけ?

 またもや手を引かれて部室に連れ込まれる。

 今度は誰も楽器を手にしていなくて、そこらへんの椅子や壁にもたれているのがやたら絵になっていた。顔がいっせいにこちらを向く。


 あたしはたちまち取り囲まれて、スケッチブックを開かされる。ヒュー、と細く口笛を吹いたのは誰だろう。

 神沢かんざわさんが優雅な飼い猫みたいに目を細めた。


「これ、ラフでしょ? このまま進めてくれたら嬉しいなぁ。文字入れとか印刷とかは任せてくれて大丈夫だから」

「神沢さん、そういうの出来るんですか? ならどうしてあたしに」

未尋みひろって呼んでよ。同学年なんだし。やるのは私じゃなくてパパ。デザイナーなんだ」

「だったら最初から未尋さんのお父さんに」

「やだよ! だって私の写真をメインにしたがって、いっつも止めるのに時間かかるんだもん!」


 笑いが起きる。


「あっ、さん付けもいらないから!」


 未尋が叫んだ。森瀬はまだ身をよじっている。


「そうだ、普段は何で描いてる? サイズとか指定しといたほうがいいよね」

「普段は水性マーカーかな。でもポスターならアクリルガッシュとかのほうがいい?」

「慣れてるほうでいいよ。自由に描いてほしいし」

「イラストではあんまり慣れてない、んだけど。アクリルのがいいかもって思ってるんです。にじみがなくてパキッとして、オシャレな感じ」

「ん、任せるよ。アナログならB4くらいでじゅうぶん。あんまり大きいのは貼れないから。画材はいいと思うほうで! ねぇかなで、聞いてる? いいでしょ?」


 森瀬はやたら自信たっぷりに、にっと歯を見せて笑った。


「俺が最初に信じたんだけど?」


 廊下まで出て送ってくれた森瀬が、あたしの肩を叩く。振り向くと、頬にむにっと指が入った。

 この人、やたらスキンシップが多い。


「カナデって呼んで」

「わかった。そうする」

「今呼んで」

「奏、くん」

「くんとか要らないから」

「……奏」

「ありがと」


 奏はひらっとあたしから離れて、ゆるゆると手を振った。わかんない奴。


 次の回の練習風景をはじめから終わりまでクロッキーさせてもらったあと、あたしは二週間かけてイラストを仕上げた。

 アクリルガッシュを家で使うのなんてほとんどはじめてだった。時々部室に顔を出して、途中経過を見せたりもした。未尋はいつもピカピカの言葉であたしを褒め、奏はあたしの髪をぐしゃぐしゃにする。つむじ風みたいに。

 漫画家にはなれないとわかってからも、絵だけがあたしのしたいことだった。時間を忘れられるのも一生嫌いになれないと思うのも。


 大学くらい行っときなさい、という親の言葉をありがたく受けて、あたしは美大に行くことを望んだ。放課後と週末の画塾、学科の予備校。セオリーに解体されていく美術はあたしをげんなりさせもしたけど、こうして新しいことを始めるとちゃんと力になっているのがわかる。

 デザイナーだってイラストレーターだって、あたしには遠い夢だ。普通の企業に就職することになるのかもしれない。むしろその可能性のほうが高いんじゃないか。だけど、勉強すれば確実に上手くなれる部分があることは、あたしにとって救いだった。


 ケント紙を未尋にたくして、あたしは大きく息を吐く。あたしにできることはぜんぶした。あとはもう、任せるだけだ。

 無数の色彩のなかで音楽をする彼らが、あたしにとって特別になる。描くには観なくちゃならない。深く、こまやかに観たものを、遠いままにしておけるわけがない。


「色校が上がったよぅ」


 未尋に見せられた、つるりとしたポスターに息が止まる。余白にCMYKのカラーチャートがついていて、デザインの現場みたいだ。

 バンドの名前と日時、場所。曲名に至るまでがシンプルで洗練されたフォントで並ぶ。何一つほかの色を邪魔しないのに読みやすい。

 プリントされてもぜんぜんそこなわれていない極彩色が彼らの姿を取り巻いている。


「すっごい……さすがプロのデザイナー」

 美大に行ったら、こんなの当たり前にできるようにならなきゃいけないのかな。できるようになるのかな。

 未尋はポニーテールを揺らして首を振る。

「素材は全部莉里花りりかじゃん、もっと胸張りなって。じゃ、このまま進めてもらうよ」

「うん、ありがとう。ありがとう!」


 学園祭が始まる。


 いつもだったら部誌の自分のページを飛ばして読むのと、ナオあたりとだらだら展示を回るくらいが楽しみだった。

 突然やってきた、漫画でもありえないようなチャンス。貼り出されたポスターが目に入るたびに、あたしは顔が熱くなった。光沢紙の鮮やかな印刷は普通紙にコピーされたほかのチラシたちから浮き上がって見える。

 校庭のステージはいつもなら遠目に眺めるだけなのに、今日はすごく近く、大きく感じる。

 あそこに彼らが、奏たちが立つのだ。


 あたしはプログラムを握りしめて客席という名のただの広場に立つ。

 制服姿は派手なコスチュームより強い。楽器はどんな武器よりもかっこいい。誰もが彼らの熱に惹かれている。曲が始まる前から。


 むしろ祈りたくなるのは、もう他人じゃなくなってしまったから。急に現れたあたしにも、彼らは昔からの友だちみたいに接してくれた。


 奏が歌詞を書きたくて、国語の成績はいつも二だったのに図書館に通うようになったことを知っている。

 未尋が幼い頃からドラムを習って、指に血がにじむほど練習をしていたこと。華奢に見えるその指の皮膚がとても厚いことを知っている。

 今の明るさからは信じられないけれど、ベースの外村にはイジメを受けた過去があって、それから逃げるために楽器ばかり触っていた日々があったことを知っている。

 ギターの戸島は中学でようやく音楽に出会って、溺れるほどの努力とすさまじい才能でキャリアの長い他のみんなに食らいついてきたことを知っている。


 あたしは彼らの音を聴く。ひとつの波も逃さないように。


 やっぱり色にあふれていて、胸に強く響く。ステージ用に増幅された音の波はあたしを揺らがせて過ぎていく。

 泣いたっていいはずなのに涙は出なかった。ただぼんやりと、熱にうかされていた。


 片付けの日に、みんなが打ち上げに呼んでくれた。部室に集まってカラオケに繰り出すんだとか。

 あれだけ弾いて歌って、まだ音楽から離れられないなんてさ。


 教室まで奏が迎えにきた。いつもの階段を手をつないで降りて、なのにふわふわする高揚感で何も感じなかった。

 階段の裏に引き寄せられて、あたしは抗えない。乱暴に振りほどけば逃げられたはずなのに。

 奏の琥珀色の瞳がまっすぐにあたしを見ていた。


「ねぇ、キスしていい?」


 嫌じゃ、なかった。ロマンチックなシチュエーションに浸ってみたい気もした。でも。


「だめだよ。なんで付き合ってもないのにそんなことしなきゃならないの?」

「好きだ。付き合って」

「遅いよ」

「どうしたらいい? なんて言ったら好きだって信じてくれる?」


 いっそあたしが唇を奪ってやりたかった。主導権はあたしにあるって叫ぶみたいに。

 でもあたしはキスのやりかたなんて知らない。


「はじめてなんだよ、わかんないよ。本当にあたしがいいの? あたしじゃなきゃいけないの?」


 奏は笑わなかった。すこしも。


「リリカが好きだ」


 落ちてくる唇を、今度は拒まなかった。柔らかく触れられて、温かくて、わけがわからなかった。きっと一瞬だった。離れるまでの時間が計れなかった。好きだと言ったときと同じ瞳のまま、奏はあたしを見ていた。

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