まだ君は名もない
夏野けい/笹原千波
どうしてあたしなの
誰もいなくなったはずの教室で、落書きノートに影がおちた。
窓際に立ったブレザーのパンツ、長い脚。じりじりと視線を上げると、ボタン二つあけてちょっと崩したシャツに、大人みたいなのどぼとけ。赤みの強い明るい髪に、色白でそばかすが薄く散る顔。鼻筋はすうっと細くなめらかに通って、まぶたは控えめな二重。琥珀色の瞳が放課後の西日に透けている。
「……
疑問符つきでも即座に呼べたのを褒めてくれ。あたしと縁がない人種の筆頭なんだから。外見よし、運動神経そこそこ、軽音部。しかも素人のあたしからしても、こいつの歌は上手かった。こんどの学園祭でも大騒ぎになるんだろう。名は
恋のあれこれに興味のある女子なら悲鳴をあげて喜ぶシチュエーションだけど、あたしは冷や汗しか出ない。ぜったい、なんか、裏がある。
森瀬奏は背中に隠していた腕を出して、冊子をあたしの前にひらつかせる。ピアニストにでもなれそうな指。爪は短く整えられている。いかん、鑑賞している場合ではない。
冊子には見覚えがあった。ありすぎた。さーや先輩の描いた超絶美形吸血鬼の表紙。つまり、去年の部誌だった。
今年の表紙はナオ。締切は過ぎたけどまだ納品はされていない。頒布するのは再来月の学園祭。つまり、目の前にあるのは一年近く前のものだ。いったいどこから湧いたんだ。
「なぜあなたがそれを?」
自分のセリフに愕然とする。どこの姫だ。舞踏会でアクセサリーでも落としたか。なんにせよ同級生にあなたは、ない。
森瀬奏の指が確信をもってページを開く。断末魔の叫びを上げなかった自分の喉に感謝を。呼吸を必死に整えて紙面を直視する。魔法少女みたいなスカートで洋剣をふるう女の子と、燕尾服の魔法使い。そういやこんなの描いたっけ……だめだ、デッサン狂ってるし。
「なんの罰ゲームですかね」
「こっちは真面目なんだけど」
「は? だいたいなんであたしのペンネーム知ってんの」
「黒板」
「いやいやいや、さっぱり話見えないし」
「前描いてたじゃん、放課後。あれ見ていいと思ったんだよ」
ずるいよ。漫画なんて超名作くらいしか読まなそうな顔して、落書きから絵柄を見分けるなんてさ。
「あたしに何をさせる気なんです?」
「ポスター。俺らのライブのポスター描いてよ」
「はっ、え?」
「学園祭のステージの。まだ決まってなくて」
夢、みたいだ。現実味も実感もなくて。ぜんぶ、ぜんぶ諦めて普通に生きるって決めてこの高校に入ったはずだったのに。一年生のときも、二年の今日までも、無駄な夢なんて見なかったのに。
紙の埃の匂いが鼻によみがえる。編集部、散らかった机、メガネのおじさんのため息。中学の制服のほつれた袖、机の下でプリーツスカートを握りしめた自分の指。
挫折の記憶は消えない。忘れられない。たったひとつの光景さえ。
「あたしより上手い子なんていくらでもいますって。紹介しよっか?」
「
ぎこちなく真面目っぽく言うの、なんかカワイイ。じゃなくて。我が身に降りかかっているこいつはどういう事態なんだ。
シンデレラストーリーなんて求めていない。あたしが目指すのは、普通で、安定して、まっとうな感じの将来。高校生は子どもじゃない。夢見るだけじゃ生きていけない。
きらびやかな世界の方から、なんであたしに声をかけた。どうして放っておいてくれないんだ。そんな、期待したくなる、また憧れを追いかけたくなるような言葉を投げないでくれ。
森瀬奏が勝手にあたしの手を取る。乾いて熱い
「ちょっ、まっ……! やめ!」
引きずられて教室の出口へ向かっていた身体がふわっと解放される。手の熱はもうない。
「何? ちゃんと口で言ってよ。空気なんて読めないよ、あたし」
「ごめん」
「引き受けるなんて言ってないし」
「……ごめん」
「あたし、上手くないから。大勢の人に見られるようなのは、嫌」
琥珀の瞳が、かげる。あっ、まつ毛多いんだ。女の子が分けてほしがりそうなくらい。
「とにかくさ。俺らの音、聴いてくんない? 断んのはそれからにしてよ」
なんでかうなずいてしまって、あぁこの人には引力があるって、思ってしまった。きらきら光る、魅力っていうか人をひきつけるものがあるって。
太陽に憧れた人間は堕とされるのが当たり前なのに、見上げるだけなら優しく温かい。やっぱりずるいよ。
差し出された手に、そっと指を触れた。熱さはもう、怖くなくなってしまった。
エスコートというには荒々しく、あたしを部室へ連れていく。夕日の落ちる階段をくだって、埃っぽい廊下を奥へ奥へ。
張り紙だらけのドアを開けば、乱雑な音の衝撃が来る。リズムもメロディもない。チューニング、だろうか。
電子的で人工的で、圧力がすごい。
遅れて入った室内は散らかっていた。壁いちめんの本棚からこぼれる楽譜らしいプリントアウト。無数にあるCDのケース。狭い中に点々と転がる音響機器に、あちこちを走り回る電源コード。重なり、ひしめき合うポスターは古びたものから真新しいものまで。
パァン、と鮮やかに、森瀬は両手を打ち鳴らした。
音が止まる。三対の瞳がいっせいにあたしをとらえた。
ドラムを叩きかけた形のまま止まっているのは、真っ黒なポニーテールにぱっつんの前髪の女の子。座っていてもわかるくらいすらりと背が高くて、猫みたいにつんとした顔。
あとは弦楽器の男子二人。ギターとベースの見分けかたは知らない。栗色のツンツン頭と、目元を長い前髪で陰にしているのと。光と影めいた組み合わせ。
誰も口を開かないうちに、森瀬はひとりひとりを指差して言う。
「ドラムス、
ツンツンしてるほうがベースね。ギターってなんとなく華やかなイメージだけど、鬱蒼としたほうなんだ。ドラムじゃなくて、ドラムス。彼女がいちばん強そう。偏見かな?
そして今度はあたしが指差される番。
「こっち、五組の斎藤
簡単すぎて笑ってしまいそう。ほかのメンバーはなんにも疑問に思わないのかな。
森瀬はスタンドつきのマイクの前に陣取る。紅一点、神沢さんがスティックでリズムを刻んだ。
瞬間。凝縮された音の、研ぎ澄まされた神経の、たぶんこれは爆発だった。
星でも炎でもないけれど、広がっていくなにか。音にだけ満たされた宇宙。肉体が揺さぶられる振動、神沢さんがポニーテールを振り乱して激しくリズムを叩きつける。
手の動きを追えばメロディはギターから。戸島くんの前髪に隠された目元に表情は読めないけれど、微笑む唇には色気なんて感じてしまって。
ベースの外村くんも満ち足りた顔で身体を音楽に任せている。
森瀬は第一声から世界を自分のものにした。色彩。音のくせに、声のくせに視覚がカラフルにおかされていく。ふだんの暮らしにはなかなかない、熱帯雨林の鳥みたいな色合い。
リズムとメロディが紡がれていく。楽器も、声も、正しくて豊かな感じがした。
森瀬の発音は清く、明確。歌詞自体はそんなに特別じゃない。ライトでわかりやすい恋の歌。なのに無数の色に絡めとられていくような、呼吸を奪われているような。
そうか、だから音楽は言葉の届かないところまで行くんだ。知らない国の歌だって、響きだけで好きになれる。
曲が終わる。余韻が胸から消える前に、あたしは部屋から飛び出す。息が切れるまで走って、鼓動の速さをごまかした。
色も形も、止められないくらいはっきりと広がってしまった。もう戻れないくらい聴いてしまった。描かないなんてありえない。でも、あの人たちに見せるかは、別ってことにしておきたい。
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