第7話 フィリオ・アッシュという少女(フィリオ視点)
フィリオ・アッシュは物心ついた頃から薄暗い洞窟の奥で、暮らしていた。
小汚い男たちに囲まれた暮らしは当たり前の日常で、そこで殴られたり蹴られたりすることもいつも通りの日々だ。
当時はまだ名前もなかった。オイとかチビとかガキとか呼ばれていた。もちろん文字なども読めなければ、ほとんどの単語の意味も知らなかった。自分は彼らの憂さを晴らす存在で、ていのいい雑用を押し付けられる存在だった。
親という概念も大人という言葉も知らなかったが、ある時男たちが捕まえた少女の世話をしているとふと、牢の中の少女が話しかけてきた。
「あなたはここで暮らしているの?」
「親はいないの?」
「いくつなの?」
少女にとっては仲間が欲しかったのかもしれないし、フィリオを懐柔して逃げようとしていたのかもしれない。
残念ながら、彼女の話す内容をフィリオは少しも理解できなかったのだが。
少女は反応のないフィリオに根気強く話かけてきたが、ふとした折りには「お父さんが絶対に助けてくれるんだから」とつぶやいていた。
そこでフィリオは父親という存在を初めて知った。
言葉の意味を根気強く教えてくれたのも少女だ。
お父さんは誰にでもいる存在で、強くて優しい。怒ると怖い。叩いたりしない。いつも守ってくれる。とてもあったかくて安心できる。
すぐに少女は奴隷商に売られてしまったが、最後までお父さんが助けに来てくれると信じていた。
だから、次の標的を襲撃したとき、馬車の中に同じような少女がいたので思わずカシラの邪魔をしてしまった。
子供の浅知恵で、何も考えていないとっさの判断だった。
ただ、あれだけ少女が強く信じていたお父さんがこの子にもいるのだろうと思ったら、今度こそ助けにきてくれるのではないかと少し期待してしまったのだ。
「邪魔だ、どけっ」
カシラに蹴り飛ばされ地面を2、3度転がって、近くの木にぶつかって地面に転がったとき、やっぱりあれは少女の夢か願望だったのだと少し悲しくなった。
だが低い馬の嘶きとともに、何人かのうめき声がかぶさる。どさりと近くで倒れた音も続く。場の空気が変わったが、フィリオは痛みに目を開けることができなかった。
そのまま横たわっていると馬が近づいてきて誰かがそこから飛び降りた気配がした。そのまま木の下に転がっていた自分の体を確かめ始めた。そっと触れる手つきは優しくなぜか息が詰まった。
「おい、しっかりしろ!」
男の必死な声に、痛みに顰めた瞳をそろそろと開けると、碧い瞳がしっかりと自分を見つめていた。
洞窟の奥には天井が崩れて一部、池のようになっている場所がある。そこに月光が差し込んだときのような深い深い碧に思わず見とれた。
「意識はあるな。もう大丈夫だ、すぐに医者に連れて行ってやる」
「―――っ!」
安心させるように微笑んだ男の後ろからカシラが剣を振りかぶっているのが見えた。声を発しようとしたが音になる前に痛みで顔を盛大に顰める。
「お前ら傭兵だろうが! 同じ稼業が俺の邪魔すんじゃねぇ!」
カシラが刀を抜いて振りかぶっていた。
「おいおい、どこが同じなんだよって聞きたかったが、もう口もきけないか」
振り向きざまに男が払った剣はカシラの胴をまっふたつにした。
というか、彼がやったのだろうと思うがフィリオには何も見えなかった。切られたカシラ自身、何が起きたのかわからないほどの速さで繰り出されたのだろう。
どう、と倒れた音を聞きながら、男はフィリオを背中でかばうように立ち上がると剣を正面へと向ける。
「自分の腕一本で戦場を生き抜いてるんだ、向かってくるならそれなりの覚悟をしろよ?」
表情もわからなければ、声だけ聴いていると優しいような心地よいトーンのはずだ。だが、なぜか非情に寒い。男を囲んでいる者たちも動きを止めごくりと生唾を飲み込んだ。
「恰好つける前に、俺たちの仕事終わらせなきゃ大隊長にどやされるのは隊長ですからね?」
動きを止めた者たちをためらいなく後ろから切り捨てた別の男がため息まじりに声をかけてくる。
「せっかくの見せ場に水差すなよ」
ぼやいた青年には、剣を構えた時の鋭さは失くなっていた。周囲に指示を出した男はため息を吐きつつ、木の傍へとしゃがむ。
自分の周りにはいない優しげな表情に、フィリオはただ男を見つめることしかできない。
「かっこよかったぞ、ボウズ」
「カッコ…?」
「よく頑張ったってことだ。もうゆっくり休んでろ。後は俺たちが引き受けるから」
ふわりと頭に優しく大きな手が置かれた。なんだろうと思う間もなくなぜられる。思わず大きく目を見開いてぴきりと固まった。
初めての経験だったが、胸にぽかぽかと温かいものがあふれる。
お父さんだ、とフィリオは思った。
少女が語っていた誰にでもいる強くて優しくて怒ると怖くて叩いたりしないでいつも温かく守ってくれる。
お父さんが来てくれたんだ、と。
だから、彼がいなくなって男の部下が自分を救護院に連れて行ってくれた時も、救護院で世話をしてくれた人にもお父さんが助けてくれたと伝えた。
お父さんは血のつながりのある家族だなんて思いもしなかったからだ。
でもそのおかげで、名前のない自分はフィリオ・アッシュという名前を貰った。
そうして、お父さんがフィリオのお父さんになった。
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お父さんはベルグリフォン・アッシュという。
元傭兵で死神などという二つ名で呼ばれることもあるらしい。今は警備隊という仕事をして王都を守っている。
8歳になって街の私塾というところに通うといろんなことを覚えるようになった。
新しいことを覚えるとお父さんは褒めてくれる。それが嬉しくてたくさん勉強した。
隣の席の男の子と仲がいいのかとお父さんにからかわれたのもこの頃だ。だがフィリオは意味がわからないまま、すごく不愉快な気持ちになってしばらくはお父さんと話すのが嫌になった。すぐにベルグリフォンは謝ってくれて、二度と異性との話は出さなかったけれど、しばらくはもやもやしていて上手にお父さんを見られなかったのも事実だ。
10歳になって新しい男の先生が加わった。これまでは高齢の男の先生と女の先生だけだったが、若く見目のいい先生だ。わからないことがあれば先生に聞いていたフィリオは同じようにその先生に聞いて教えてもらった。それが誘惑したと言われた。
誘ったとか媚びているとか言葉を並べたてられて、ベルグリフォンはお父さん失格で、自分は悪い子供なのだと言われた。
体をべたべたと触られて不快で気持ち悪かった。いい子にしていないとお父さんが悪者になると言われなければ、大暴れしていたが、必死で我慢した。
たまたま通りがかった友達が騒いで止めてくれて最悪の事態は免れたらしいが、結果的には大ごとになった。我慢したのにやはりお父さんが悪者で、フィリオはどこかに引き取られる話になった。
お父さんに迷惑をかけたくなくていろいろと考えていたら、フェンバックが教えてくれた。それからガルフォードと一緒に先生の悪いことをした証拠を集めた。
なんとか解決した頃に、そういう触れ合いは好きな人とするものだと人から教えてもらった。
触られてもいいと思うのはお父さんだ。
だから、お父さんは好きな人だ。
そう答えたら、お父さんは確かに好きな人だろうけど、恋人とは違うのだと言われた。
恋い慕う人はお父さんとは違うらしい。
フィリオは腑に落ちないまま、13歳で学園に入学した。平民でも入試に通れば学園に入れる。学園に興味はなかったが、ベルグリフォンの強い勧めで言われるがままに入試を受けた。勉強ができるならばすべきで、知識を得られる機会があるならば積極的に行えというのが彼の考え方らしかった。そうすれば、状況判断も行動も浅はかな考えで困ることはなくなると淋しそうに笑った。
合格通知をもらったときに泣きながら喜んでくれたのも彼だ。お父さんが喜ぶことが何よりも嬉しいのでフィリオは結果に満足したが学園に通うのはやはり面倒だという気持ちもあった。
勉強はどこでもできるが、ベルグリフォンが頑張って稼いでくれたお金で通うほどの価値を見いだせなかった。
だが、すぐに行って良かったと感謝することになる。親友と呼べる友達ができたからだ。
レイナ・エーデットとサイカ・デーモ。
レイナは騎士の家系で伯爵位を持つ貴族だったが、騎士道に溢れた少女だった。
サイカは騎士の訓練にも取り入れられている体術道場の師範の娘で平民でもお金持ちだが、正義を信奉する少女だった。
花の盛りの13歳の可憐な少女が、男気溢れた様ではあるが、フィリオは純粋に恰好いいと思えた。
友人関係になるのに時間はかからず、すぐに親友とまで呼べるくらい仲良くなれた。
ある日、フィリオは思い切って二人に恋について相談してみた。
彼女たちも異性との碌な思い出はないのだが、それぞれ好きな人がいるらしい。
レイナは幼馴染みの少年で、サイカは道場に通っている兄弟子とのこと。
自分はお父さんに恋していると思うが、周りは違うという。本当にそうなのか、と。
レイナは体を触られてドキドキするならば恋だと言い、サイカはキスができるならば絶対大丈夫だと太鼓判を押してくれた。
お父さんとはお風呂にも入るし一緒に寝る。
だが、ドキドキしたことはない気がする。
なので、試してみることにした。
ベルグリフォンは一度寝てしまうとどんなことがあっても絶対に起きない。お父さんが寝たのを見計らって、キスをしてみようと考えた。
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