第8話 ある感情の芽生え
「お父さん、強くない? 気持ちいい?」
背中を泡立てた海綿でこすりながら、フィリオが聞く。浴室は暖かくバスタブに張られた湯からはほかほかと湯気があがり、視界を白くしている。ベルグリフォンは泡だらけのバスタブに浸かりながら、背中をフィリオに向けている恰好だ。
二人はもちろん裸だが、長年の習慣から照れることはない。
いつもの日常のひとこまなのだが、二人のことを知っている面々の表情は複雑だ。
「ああ、大丈夫だ」
「じゃあ、流すね」
バスタブの脇に置いてある桶にはった湯をてっぺんからかけられて、ベルグリフォンは雫を払うように頭を軽く振った。
「もう、頭を振らないでよ」
「悪い悪い。ああ、さっぱりした」
頭と背中を洗ってくれるのはいつもフィリオだ。
この至福の時間があるからこそ、一日の仕事が頑張れる気がする。
フィリオのほうに向きなおって足を伸ばすと、フィリオが横に座った。
「そういえば、行先が変更になったんだって?」
先に髪を洗い終えたフィリオが、器用に頭の上にまとめたお団子を揺らしながら首を傾げた。
「食料を追加で頼んだこと聞いたのか? そうなんだ。12隊のやつらが戻ってきていないらしくてな。鳥を飛ばしても連絡がつかないらしい。まあ遊んでるんだろうがな。遠回りになるが、ケーメクにいったん南下することになったんだ」
「ケーメクの砦に向かうってことは、大きな街がほとんどないね」
「そうだな。砦のすぐ近くに小さな村があったんじゃなかったかな。まあ、しばらくは野営だな」
こんなふうに二人で風呂に浸かる時間もないだろう。
外に出る間、それがツライ。
そもそも一般市民が大量に湯を使うのも珍しい。水資源の豊富な国内だからこそできることではあるが、薪の費用だって馬鹿にはならない金額だ。スズメの涙ほどの給金もほとんどが薪代に消えていると言っても過言ではないほどに。
湯を沸かしてタンクに貯め、それを水道管から流し蛇口をひねれば出てくる仕組みを取り入れたこの風呂はベルグリフォンが自作したもので、一般家庭ではあまり見られない仕組みになっている。
共同浴場での設備を調べて取り入れたので、なかなか凝った仕様だ。大量の湯を沸かすのに時間はかかるが、毎日の作業なので慣れてしまってからは生活に外せない。
共同浴場が苦手なフィリオためにわざわざしつらえたものだが、ベルグリフォンも十分に恩恵を受けているのでもちろん文句はない。
第四王子に嫁げば、そんな薪代に頭を悩ませる生活から解放されるのかと思えば、フィリオにとって悪い話ではないとは思う。
「フィリオ、その、な」
「何?」
きょとんと自分を見つめてくる瞳には、邪気など微塵もない。
だが、これが結婚という単語を含むと途端に豹変するのだ。
裸で鉄拳を食らうのはわりとダメージが大きい、と思い直してベルグリフォンは話題を変えた。
「お前の野営料理が楽しみだな」
「あのね最近、外での炊き出しの料理がマンネリ化してきたから、ちょっと考えたんだ。新作の料理を作るよ。リリアさんからも太鼓判押してもらったんだから楽しみにしてて」
「フィリオが作るものはなんでもうまいから大丈夫だ」
13隊が外へ出るときはフィリオもついてくるようになった。もちろん後衛の安全な位置にいてもらうが、炊き出しは基本的に彼女が指揮をとる。以前は隊の宿舎に預けていたり、学園の寮に一時的に住まわせてもらったりとしていたが、魔物退治から戻るたびにやつれているベルグリフォンを見て、我慢ができなくなったらしい。野営は隊員たちが持ち回りで作るが碌な味付けもない男料理に尽きる。日々フィリオの食事を食べているベルグリフォンの舌は贅沢になっており、必然的に食が進まないのだ。
ただし13隊だけにしかついてこないので他の隊から文句が出ている。
それを養い親の特権だとばっさりと切り捨てているのが現状だ。
じゃあさっさと嫁に出してくれと泣きつかれるところまでが一連の流れになっている。気立てのいいフィリオは独身隊員の憧れでもあるからだ。
もちろんフィリオが好きな相手ならいつでも嫁に出す覚悟はできている。一時は泣いてしまうかもしれないし、相手を一時的に再起不能にしてしまうかもしれないが。それでも彼女が選んだ相手なら文句は言わない。
そのはずだ。
だが、そんな日は今のところ来る様子はない。
ベルグリフォンが預かっている第四王子との話くらいだろう。本当に浮いた話が一つもないのだ。
年頃の娘としてそれはどうなのかと思わなくもないが、育ての親としては安心しているところでもある。
結局のところ、彼女が可愛くて可愛くて仕方がないのだから。
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