後編
「あの花屋の店員、あんたの元カノだったんだな」
病室に呼び出された永司は要求に応じず、別の話を切り出す。朋未の件だ。
「なんだ、彼女から聞いたのか。探偵ごっこのつもりかい?」
「あんたを追い詰めたいとかこの仕事を降りたいとか……そういうわけじゃねーよ。ただ真実が知りたいだけだ。なにも知らないままあんたに利用されるのは癪だし」
「そうか……まあいいか。良好な関係を築くために話して欲しいと言うなら、話そう」
舜一が嘆息を漏らした。永司の嘘偽りない言葉と真っ直ぐな眼差しを受けて、腹を括ったようだ。
「朋未は……僕が一方的に振ったんだ。元々病弱だったんだが……手の施しようがないほど病魔におかされていると判明してね。こんな後先ない人間が彼女の人生を縛るのは違うと思ったわけさ。新しい男を見つけて幸せに生きて欲しかった」
「彼女は……知ってるのか?」
「知らないはずだ。少なくとも僕はわけを話していない。言えば彼女は僕のことを忘れないだろう?」
「そんな……そんなことって」
病気を理由に別れを告げたのだろうということは永司もなんとなく気づいていた。
だがまさか、わけも話さず一方的に別れを切り出したとは思わなかった。男の強がりにカッコよさは微塵もなく、ただただ悲しい気持ちでいっぱいになる。
「お金にも家族にも人にも恵まれた。不幸という不幸はない人生だったよ。唯一……肉体だけは恵まれなかったけどね。見ての通り、死神が魂を掻っ攫うのを待つ身さ」
「だから俺の肉体を使って朋未さんに会いにいったのか。最後に一目見ようと」
「君の体を借りたのはもちろん仕事のためだ。だが……魔が差してしまったんだ。話せなくても、せめて彼女の顔を見にいきたかった。幸せに暮らしているのか。新しいカレシはいるのかどうか。そしたらいつの間にか常連客になっていたよ。どうやら未練タラタラなようだね、僕は」
呆れるように舜一が肩を竦めてみせる。うんざりしているような言動だが、口角は緩んで見えた。本当に好きで、別れるのは不本意だったのだろう。
「あー、やば。なんか俺まで悲しくなってきた」
「どうしてだよ。ここは憤るところだろう?」
「こういう話に弱いんだよ。あんたが朋未さんを想って別れたのはわかるし、朋未さんがなにも知らずにいるのもつれぇ」
たった数回しか会っていないが、見てわかるということもある。朋未という人間からは思慮深さが滲み出ていた。彼女は舜一が病気と知っても想い続けていただろう。
「お人好しだな、君は」
永司の心境なんてお構いなしに舜一が笑った。
「うっせー! なにも言わずに巻きこんだのはそっちだろ!」
「ははは、それもそうだ」
行動の真意を知った。朋未のことも仕事のことも。永司を利用するのはあくまで自身の後処理のためだった。舜一の言葉に嘘偽りはない。
「決めた! 最後の瞬間まで俺の体使えよ。俺になにができるかはわかんねーけど、できることは協力する」
「けどお金は要求するんだろう?」
「それはまあ……仕事だし?」
「君は素直だな。わかった。契約はこのまま続けよう。ただし他言無用で頼むよ?」
永司は彼の言葉に大きく頷いた。雇い主と雇われ者という関係は変わらない。だがそこにささやかな友情が芽生えていた。
*
「いらっしゃいま——あ、永司さん! いらっしゃいませ」
「どうも」
永司は再び花屋に足を運んでいた。無論舜一には言っていないし、彼の意識は体に宿っていない。
朋未の現状を色々聞こうと思い、訪れたのだ。後ろめたさがある舜一は踏みこんで聞くことができないだろう。彼なりに気を遣った行動だった。
「今日もお花を買いに?」
「ええ、まあ。休みですけど……この辺は近所なので散歩がてら寄った感じです」
しかし唐突に彼女のことを聞くわけにもいかなかった。他愛もない会話をしつつ、チャンスを待つ。
「わあ、ありがとうございます。永司さんのような常連さんがきてくれるのすっごく嬉しいです!」
屈託のない笑顔が光り、つい魅入ってしまう。きっと彼女はここの看板娘なのだろう。
朋未のような愛想がよく、美人の店員がいれば常連客もいっぱいいるはずだ。自分はそのうちの一人でしかないと永司は思った。
——それでも足を運んでしまうのは舜一のためか……それとも?
夢の銀杏並木が脳裏を過ぎる。
「どうかしましたか?」
疑念を振り払うように俯くと、朋未が心配げに顔を覗きこんできた。
「なんでもないっす! ちょっと最近できた友達のこと思い出して」
「あ、そうなんですね! どんな方なんですか?」
「本当は真っ直ぐなのに素直じゃないっていうか……人を想い過ぎるあまり変な遠ざけ方するんですよね。不器用なやつです」
朋未に会いにいっていたことを問い詰めた時のあの態度。今思えば、あれは余計なことに巻きこまないための舜一なりの気遣いだったのだろう。
「そういう人っていますよね。最初は印象悪いし、わかりづらいけど……知れば知るほどよさがわかっちゃうんですよね。なぜか」
彼女が思い耽るように、待ち望むように店の外を眺めた。誰のこと言っているのかは永司にもわかる。
明るい顔から一転した儚げな横顔。それは毒そのものだった。
「そいつ……今入院してるんですよ。重い病気で」
「え?」
「あ、いや!」
図らずも二人で舜一の話をしていたことを失念していた。不意に滑らせてしまった事実を慌てて否定しようとするが、言葉が続かない。
「花束……そのためだったんですね」
「……そうです」
丸く収めるために咄嗟に嘘をつく。確かに病室に飾られているが、永司本人が見舞いのために買ったものではない。
「今日は……別のにしましょうか? チューリップは花びらが落下しちゃって縁起悪いとも言いますし——」
「気にしないで大丈夫だと思います! あいつもチューリップ気に入ってるから!」
珍しく朋未がおずおずと尋ねてきた。しかし永司は言下に否定する。自分のついた嘘に耐えられなかった。
「わかりました。じゃあ花束、作りますね」
結局、この日はなにも聞けず終いだった。得たものと言ったら花束だけだ。体を貸す報酬と比べたら花の値段は微々たるものだった。
白と黄色のチューリップ。きらびやかな色合いのこの花が縁起が悪いとは到底思えない。
ふと、なにも知らずにチューリップを買っていたことに永司は気づく。どうして縁起が悪いのかも、この花束にどんな想いがこめられているのかも。
店から数歩歩いて立ち止まり、空いた右手でスマートフォンを操作する。
——検索ワードは『チューリップ 花言葉』。
目を見開き、花屋の方を振り返る。そこには屋外に花を運ぶ朋未の姿があった。
*
「いきなりですけど、今カレシとかっているんですか?」
翌日、大学の帰りに花屋を訪れた。今度は単刀直入に聞くと決めていた。あの花束の意味をどうしても確かめたかったのだ。
舜一曰く——
「オススメを聞いたら彼女がそれを選んだんだ。それ以降は毎回同じのを頼んでる。会いにいくための口実として買っていただけだからね、元々」
——ということらしい。白と黄色のチューリップの花束を選んだのは朋未だったのだ。
「あ、もしかして永司さん、私のこと口説こうとしてます?」
「い、いや別にそういうわけじゃ!!」
彼女が無邪気な顔を見せるが、永司には悪戯な笑みに見えてしまう。ドギマギし、否定するように慌てて胸の前で両手を振る。
「え、違うんですか? じゃあ、別に教えなくても——」
「ああー!! やっぱ好きっす! めっちゃ好きっす! だから教えてください!!」
聞けず終いではきた意味がなくなってしまう。誠意をこめて頭を下げる。
「なんか言わせたみたいでごめんなさい。別にもったいぶるつもりはなかったんですけど」
頭を上げると朋未が困惑した表情を浮かべていた。それを見た永司はたまらず居住まいを正す。これ以上は困らせられなかった。
しかし彼女が継いだ言葉は意外なものだった。
「カレシはちょっと前に別れてからはいません。前のカレ以上の人がいると思えなくて。本当は忘れて前を向くべきなんでしょうけど……なんか忘れられないんですよね。多分、理由がわからないまま別れちゃったからかな。今も昔も……この先も。どんなに似た雰囲気の人が現れても、私が好きなのはただ一人だけなんだと思います」
その言葉に牽制する刺はなく、大切な思い出に浸っているようだった。静かに胸に宛てがわれた手は大切な思い出の温かさを確かめている。
永司は聞こえないように「敵わないな」とこぼした。
「私って重い女ですかね?」
「そんなこと……そんなことないと思います。少なくとも俺は一途で素敵だと思います」
「ありがとうございます。伝わるかどうかはわからないですけど、私は待ってみようと思うんです。彼がくる時を」
昨日と同じように彼女は店の外を眺めていた。
黄色のチューリップの花言葉は「望みのない恋」。そして白いチューリップの花言葉は「失われた愛」。永司にその花束を渡したのは自分への戒めか。それとも舜一の意思に気づいていたのか。
「きっときますよ。ええ、きっと」
永司は微笑みながらまた嘘をついた。本当は自分の肉体を通して舜一は会いにきていた。今も二人は同じ想いを抱いているのだ。
けれどそれは言えない。他言無用だと言われたこともあるが、永司の中でやるせない想いが渦巻いていたからだ。
——なにも悪いことはしていない。失ったものもない。なのに俺はどうしてこんなにも悲しく感じるんだ?
いつもの花束を買い、花屋を後にした。帰路に向かう足が重い。
あれからも何度も何度も夢を見ていた。朋未と手を繋ぎ、笑い合う夢。
あたかも自分が朋未のカレシだと思いこみそうになるが……それは違う。永司の記憶ではない。彼女が手を繋いでいたのは自分じゃないのだ。
「俺はこの愛の花束の架け橋でしかない……か」
聞けば虚しさに苛まれるのはわかっていた。記憶の混在のせいとはいえ、永司もまた朋未に惹かれていたのだから。
*
数日後、舜一が珍しく「病院の中庭へ散歩にいこう」と誘ってきた。仕事ではない。今までなかったことで困惑したが、永司は素直に応じることにした。
中庭に着くと車椅子を止め、永司は並ぶように近くのベンチに腰をかけた。肌寒い風が吹いているが日差しは強く、春の陽気のようで心地よかった。
「なあ、永司。君も……朋未のことが好きなんだろう?」
車椅子に座った彼がぽつりと尋ねた。その言葉を聞いて息が詰まる。
「どうして……それを?」
「君の意識が徐々に顕在化したように、体を借りるたびに僕も君の意思を感じられるようになったんだ。だから君の気持ちくらいわかるよ」
あの日からずっと心の靄が晴れなかった。好意と友情のジレンマ。好意が強くなればなるほど「朋未は今も舜一のことを想っている」という事実を伝えられなくなっていたのだ。
「だったらなんだよ……釣り合わないから俺に諦めろって言うのか!? そもそもあんたがあんな記憶を俺に植えつけなきゃ……!」
舜一は大事な雇い主であり、協力すると誓った友人だ。けれど、自分の気持ちに目を背けることができなかった。
永司は剥き出しの感情を吐き出し、隣の男を睥睨した。「あんたに体を貸さなければこんな気持ちを抱かずに済んだのに」と恨むように。
「落ち着いてくれ。そんなこと言ってないだろう」
「あんたといると自分が嫌になる! 同じ顔のはずなのに、俺にはなにもない! 富も地位も名声も! 想いも通じない! 挙句、あんたからおこぼれをもらって惨めに生きてる! 俺にないものを全部! あんたが持ってる!」
あの日感じた虚しさは嫉妬だった。
どんなに自分が金を得て、舜一に近づいても勝てない。朋未が自分に好意を向けることはない。彼と同じ人間にはなれないのだ。
言いようのない敗北感が胸に残った。永司はあの日知った真実を奥へとしまい、封じこむことにした。自分だけが事実を知っている優越感。それが彼の劣等感を抑える役割を果たしていたからだ。
「そんなことはない……君の方が僕よりもずっとスタイルがいい。お洒落のセンスだっていいじゃないか」
「おちょくってるのか?」
抑揚のない声で呟く舜一に苛立ちをぶつける。乾いた笑いすら出てきそうだった。
「本心だよ。なにより……僕には時間がない。それが一番羨ましい。君が望むなら近藤舜一としての人生をあげたっていい。代わりに君の人生をくれるならね」
「なんだよそれ……」
「欲しいものを手に入れるために死ね……って言われて応じるわけもないよな。どんなに欲しても、結局人間は我が身が可愛いんだ。わかっただろう? 君にないものを僕が持っているのと同様に、僕にないものを君も持っている。僕からしたら君は恵まれた人間なんだ」
永司はなにも言えない。よく知っているはずだった。舜一は一番欲しいものが手に入らない人間だと。自身の矮小さに嫌気が差す。
「『隣の芝生は青く見える』ってよく言うだろう? そういうことだよ。君の芝生も僕の芝生も遠くから見たらきっと青いんだ。けど……僕たちは芝生の青さに気づけない。自分が恵まれていることに気づけない。いや……見えないのかもしれないな」
舜一が達観したように青空を眺める。どこまでも続いていく快晴の空。永司にとっての舜一、舜一にとっての永司……互いの存在はあの空のように澄んで綺麗に見えていたのだろう。
「他人だからこそ相手のよさがわかる……ってことか?」
「ああ。仕事を依頼するにつれ、僕は君のよさを知った。素直で人間臭い永司は信頼できる人間だと……僕は思っている。どんなにお金を受け取っても、頑なにそのモッズコートを買い替えなかっただろ? 君はよいものより愛着を優先する人間なんだろうな」
「それは……」
図星だった。今着ているモッズコートを手放せない理由。それは苦労して稼いだ金で買ったものだったからだ。安物でも欲しくてたまらなかったものに違いはない。お気に入りだった。
「僕からもらった報酬でやったことなんて大したことないんだろう? 友人と遊んで、美味しいものを食べて、いいところに住んで……ってところか」
「どうしてわかるんだよ」
「豪遊してたらもっと金を要求するだろう? 普通はさ」
「あ……」
ボロアパートから引越した。欲しかったものや美味い飯には金を惜しまなかった。けれど実際は大したことない出費だ。
この契約がいつまで続くかわからない。そう考えると永司は湯水のように金を使うことはできなかった。
「話がだいぶ逸れてしまったな。実は……今日は君に契約の満了を告げようと思ったんだ」
「あんた……まさか」
嫌な予感がし、胸が騒つく。
「ああ、そのまさかさ。今日、診察で言われたよ。僕の命は保って一ヶ月らしい」
予感は的中した。永司の察していた通りだった。仕事ではなく話すために呼び出したとなれば、理由は数える程度しかない。
「あの装置を使えば……あんたの意識はこの世に残るんじゃないのか? 意識が残ればほかの体に宿ることだってできるんじゃないのか?」
「確かに可能かもしれない。クローンを作って意識を移せば、僕は再びこの世に生まれ出ることができるかもしれない。体が不自由な人の魂を解放するためにあの装置に出資したわけだからね」
「じゃあ死なない……のか?」
一縷の望みにすがるように永司は恐る恐る尋ねた。
「いや……意識を保存できたとしても、それが実現化するのは何十年も先だ。法整備もしなくちゃいけないし、確実にできるようになる保証はない。僕自身はこの世から去ることを……受け入れるしかないだろう」
「だったら俺の体に——」
「それはできない」
舜一がきっぱりと言葉を遮った。生気が失われつつあるにもかかわらず、そのまなじりには強い意思が宿っていた。
「お互いの意識の顕在化は僕たちの意識が一つになりかけている証拠だ。今までは抜き出すことで意識の混濁を避けてきたが、永遠に君の体に居座れば……きっと近藤舜一でも遠坂永司でもない別の誰かになってしまう。それは僕の望みじゃない。言っただろう? 隣の芝生は青く見えるって。僕よりも永司がこの世界で生きるべきだ」
意識の顕在化に記憶の混在。これ以上続ければ自我が危うくなるのは永司自身も理解していた。互いの気持ちを理解し、夢として記憶を垣間見るこの状況は……普通じゃない。
「だけど……だけど!」
駄々をこねる子どものように言葉を繰り返す。なにも持っていない自分ではなにもしてやれない。最後の希望であった自分の体を貸すことも拒絶されてしまった。
「それにあの研究に出資したのは自分が助かるためじゃない。体の不自由な人たちのためだ。それが……人生の使命だと思ったからね。僕が助からなくても、研究が滞りなく続いて日の目を見れば……それでいいんだ」
舜一がどうしてそこまで仕事を頑張るのか、やっと腑に落ちた。
永司の体を借りてまで仕事を続けたのは、体の不自由な人を救済するという使命を最期まで全うするためだった。彼は生き残ることなんて最初から考えていなかったのだ。
それでも一つだけ永司には疑問があった。
「朋未さんに未練はないのかよ。あんなにタラタラだったのに……あんた、このまま黙って死ぬのかよ!」
あんなに彼女の未来を案じていた男がどうして急に割り切れるのか。問い詰めざるを得なかった。
「そうだ。僕はこの体のまま、残り一ヶ月の余生を送る。けど……君と別の契約を結びたい」
「別の契約……?」
「君に……全部あげようと思う。お金も地位も……僕の想いも全部。君が僕の分まで生きてくれ。だから……朋未を頼む。今日はこれを伝えたかったんだ」
舜一の言葉とともに静けさが訪れる。まるで二人の時間が停止したかのように。
真っ先に永司の気持ちを尋ねたのはこのためだった。舜一は全部託すつもりだったのだ。だからこの世に未練がない。
「違う。違うんだ、舜一。俺が欲しかったのは……そうじゃないんだ」
欲しかったものが手に入る。なのに永司は咄嗟に否定してしまう。
ただの憧れだった。芝生が青く見えただけ。少しでも近づきたい、勝りたいと思っただけなのだ。『代わり』になりたかったわけじゃない。
「俺はあんたにはなれない……無理だ」
——俺は舜一の『代わり』にはなれない。朋未さんが想っているのは俺じゃないんだ。
舜一は目先の幸せではなく、誰かの幸せのために自分の人生を賭していた。そんな信念のある男だから朋未も惹かれたのだろう。
永司は痛感する。自分とはあまりにも違い過ぎると。埋まらない差は如実に現れ、手が届かない。
「君にしか頼めない」
芯の通った瞳が射抜く。永司は逃れるように視線を地面に落とした。
——余命わずかな相手に俺は嫉妬していた。
自己嫌悪が心を苛んだ。引き受ける資格がない。そんな罪悪感で胸がいっぱいだった。
「考えさせてくれ……」
それでも否定はできなかった。もし舜一の最期になにかできることがあるとしたら……きっとこの『依頼』を受けることなのではないかと思ってしまったのだ。
「そうか……わかった。さて……病室に戻ろうか。ちょっと……無茶し過ぎたらしい」
舜一は冗談めかすように微笑みを向けていた。まるで『友達』と他愛のない話をしていたかのように。
*
大学の講義中、嫌な通知が震えて響いた。大学病院の研究員からのメッセージだった。永司は内容を見た次の瞬間、教室を慌てて飛び出していた。
「頼む……! 間に合え……!!」
あれから一週間が過ぎたが、その間舜一とは会っていない。見舞いにいこうとも思ったが、断られてしまったのだ。その理由がまさか容体の悪化だったとは夢にも思わなかった。
もっと警戒するべきだったと永司は悔いた。舜一は大事なことをいつも隠す。
「あの大バカヤロウ!!」
苛立ちを脚にこめて、全速力で街を駆けていく。タクシーを拾い、向かう先は大学病院だ。
「舜一……!!」
病室に着くや否や永司は彼の名を叫んだ。
目に映ったのは呼吸器をつけられた死際の病人の姿。そんな舜一に呼応するように花瓶のチューリップの花びらが落ちていた。
「やあ……永司」
マスク越しのくぐもった声が病室内に響く。まだ息はある。
「やあじゃねぇよ!! なんで黙ってたんだよ!! 俺たち友達じゃないのかよ!? 友達だから遠ざけようと思ったのか!? 朋未さんのように!!」
余命一ヶ月というのは嘘に違いなかった。朋未同様、最後の最後で永司も遠ざけたのだ。でなければこんなに早く危篤状態になるわけがない。
「そうかもしれないな……」
「生きろ舜一!! 生きろよ! 俺にはまだ、あんたに話さなきゃいけないことがあるんだ!!」
舜一の手を握る彼女がいないのがもどかしかった。「せめて自分だけは」と、永司は強く強く彼の手を握り締めた。
返事は未だに返ってこない。捲したてる永司のペースにはもうついていけないようだった。だからこそ……永司は喋るのをやめなかった。自分の言葉が生きる希望になると信じて。
「俺は……お前に隠していた……! 朋未さんは今でもあんたのことを想ってるんだよ!!」
「花言葉……だろ? それくらい……僕だって気づいてたさ。知っていながら……僕はなにもできなかった臆病者だったわけだ」
舜一は呼吸補助のマスクを外し、最後の力を振りぼって言葉を紡いでいた。自嘲するような悲しげな声だ。
「え……?」
「いいんだ……僕以上に彼女のことを真剣に考えてくれている人がいるって……わかって嬉しかった自分もいたから。男と見こんで託すとしたら……君しかいない」
「なにバカなこと言ってんだよ! 俺には無理だ! 生きてあんたが幸せにするんだよ! なあ!!」
なんの反応もなく、言葉が虚しく流れていく。永司は悟った。彼はもう諦めているんだと。
だがそれでも永司は必死で言葉を綴り続けた。
「俺の想いはあんたの記憶の借り物でしかないんだぞ!? そんなやつに……そんなやつに託すなよ!」
「借り物だったら……あんなに憤りはしないさ」
「けど!! 俺が引き受けたらあんたそのまま逝くつもりだろ!!」
「はは……そうだね。けどこれが人間として普通の最期なんだ」
「普通の……最期?」
氾濫する川のごとく流れていた言葉が勢いをなくす。舜一の真意が見えず、問い返さざるを得なかった。
「ああ。人は……いつか死ぬ。けど……その限られた時間の中で使命を全うし、意思を託すんだ。そうすれば……死んでも想いはこの世界に残り続ける。想いのバトンを……受け渡して繋いでいくのが僕たち人間だ」
「それをあんたが……あんたが言うのかよ!」
「確かに……僕が言うのはおかしいか。あんな研究に出資しておきながらね。けど……最期にそう気づいてしまったんだ。君がいてくれたおかげだ。僕には託せる友がいるって。ありがとう、永司」
舜一の手が強く、握り返してくる。
どんなに擬似的な技術が生み出せても、この世界で魂を永続させる方法はない。やがては死に、消えていく。
それでも残るものがある。死んでも『誰か』の心の中に想いは残る。舜一はその『誰か』に……永司を指名したのだ。
「やめろよ……感謝なんてすんなよ」
「いいだろ……? 最期に友達に感謝するくらい。それとも友達になったと思ったのは僕の一方的な……思いこみかい?」
「そんなことない! 俺も……俺も! 舜一のことダチだって思った! だから協力しようって思ったんだ!」
「じゃあ友達として一生に一度のお願いだ。朋未のことを……頼む。僕に似た誰かじゃない、ありのままの君自身……遠坂永司に頼みたいんだ」
「ズルいだろ……その頼み方。本当に一生に一度のお願いじゃんか」
命の灯火が消えるその間際まで彼の願いは変わらなかった。
心電図モニターがアラートを告げる。友の死という避けようのない現実が押し迫っていた。
「金も地位も名誉もいらない。想いだけ……あんたの想いだけは受け取るよ。上手くできるかわからないけど……朋未さんは任せろ。誰でもない俺自身、遠坂永司として彼女のことを想うから」
舜一の目をしっかり見据え、決意を告げる。
永司自身、自分の想いが届くかどうかわからずにいた。それでもそれが最期の頼みだと言うなら……叶えてやりたいと思ったのだ。友達として、遠坂永司として。
「ありがとう」
痩せこけたまなじりが確かに笑っていた。そして……静かにまぶたを閉じる。病室には甲高い機械音がこだましていた。
肉体という有限の檻から魂を解放しようとした近藤舜一。彼の最期は潔く、とても人間らしいものであった。
*
それから三日後。亡き舜一から手紙が届いた。永司が最期に立ち会えないことを見越して前々から準備していたものなのだろう。
そこに書かれていたことは最期に病室で話したことであった。しかし舜一が伝えられなかったことが一つだけ書かれていた。それは体を借りて朋未に会いにいっていたことについてだった。
『朋未に僕たちの関係について話すかは君に一任する。君たち二人が未来を向けるなら僕はどんな選択も受け入れる。死人に口はないからね』
「笑えねーよ、バカ。ジョーク下手クソかよ」
涙で袖を濡らしながら、悪態をつける。
舜一の生真面目さが文章から滲み出ていた。きっと冗談を言い慣れてなかったのだろうと天の彼に想いを馳せた。
永司は意を決した。椅子にかけてあったモッズコートを羽織り、街へと繰り出す。向かう先は……一つしかない。
「あ、永司さん。いらっしゃいませ」
昼時にもかかわらず、朋未は花屋でいそいそと働いていた。そんな彼女に永司は告げる。
「朋未さん……俺、あなたに話さなきゃいけないことがあるんです」
もう取り繕わない。誰でもない遠坂永司として話すことがあるのだと。
「話……ですか?」
「ええ。舜一……近藤舜一さんについてです」
その言葉を耳にした瞬間、彼女が目を見開いた。「ちょっと待ってください」と断りを入れて、花屋の奥へと駆けこんでいく。店主らしき人物となにやら話をつけているようだった。
数分して、エプロンを外した朋未が店の外に出てくる。
「すいません。昼休憩もらってきました。ここで立ち話するのもお客さんに迷惑ですし、私も聞きたいことが山ほどあるから……近くの喫茶店でお伺いしてもいいですか?」
「はい、もちろん」
二人は近くの喫茶店へと入り、窓際のボックス席へと座る。春の陽射しが照りつける、温かな場所だった。
「舜一のこと……知っていたんですね」
朋未は運ばれてきたカフェラテに手をつけず、俯きながら言葉を紡いだ。
「はい。知ってました。俺の……ダチでしたから」
それから永司はこれまであったことを全て、赤裸々に打ち明けた。舜一が別れた後も朋未を想っていたこと、体を借りて花屋にきていたこと……そして自分に想いを託して天に昇っていったこと。
「体を借りるって……すごいですね。そこまでして私に会いにきてたなんて」
「信じられない話だと思いますけど——」
「信じますよ。だって全然違ったもん。永司さんの時と舜一の時。そっかぁ……やっぱり舜一だったかぁ」
会いにきていた事実を知って喜んだのも束の間。彼女は再び憂い顔を見せる。ただ悲しさに支配された表情ではなく、故人に想いを馳せて懐かしんでいるようですらあった。
「じゃあやっぱりチューリップの花言葉も?」
「そうです。全然確証なんてなかったけどもしかしたら……って。なんか見透かされたようで恥ずかしいですね」
朋未は照れ臭そうに笑うと、それを隠すように冷めてしまったカフェラテを一口啜る。
「私と別れたのは病気だったことを隠すため……だったんですよね?」
「はい」
「バカだなぁ、舜一。そんなの関係なかったのに。最期まで一緒にいたかったのに。ううん、違うね。私がそう言うってわかってたから別れを切り出したんだよね」
舜一の選択は独りよがりだったのかもしれない。病気と知っても朋未の気持ちは変わらなかった。お互いがお互いを想うあまり道を違えてしまった……悲しい結末にも見える。
けれど、彼女はその結末を受け入れていた。舜一の選択を否定せず、想いを受け入れたのだ。思わず永司は「本当に敵わないな」と呟いてしまう。
「舜一は自分のことを忘れて、新しい人を見つけて欲しいって言ってました。君のような素敵な人がずっと自分に囚われているのは間違ってるって」
「それって、永司さんのこと?」
「あ、いや……はい。そうみたいっす。舜一は俺に託すって……朋未のことをそばで見守って欲しいって言ってました」
永司は言うつもりのなかった言葉をつらつらと述べてしまう。全てを打ち明けると決めて家を出た時からこうなる運命だったのだろう。
であれば……もう一つ大事なことを言わなければならない。
「俺はその……朋未さんのことが好きです。この想いは本心です! 舜一に託されたからとか、体を貸してたからとかじゃない。けど……今は俺の想いに応えて欲しいって言えません。ただ舜一との約束を破ることもできなくて……参ったな。なんて言えばいいんだ」
言葉が思うように纏まらず、途中で根を上げてしまう。永司は指で頬を掻きながら、必死に言葉を捻り出そうとした。
「舜一は前を向いて生きて欲しいって言ったんですよね」
「……はい」
「なら私も舜一の想いを引き継がなきゃかな。好きだった人の最後の願いですもんね」
それだけ言うと朋未は再び笑みを浮かべる。永司がいつも花屋で見ていたのと同じ天真爛漫な面差しだった。
「お友達から始めませんか。舜一の代理でも代わり身でもなく……ただの永司さん。私、ただの永司さんともっとお話してみたいです」
『ただの永司さん』。その言葉が胸を打った。
舜一はこうなることを最初から予見していたのだろう。朋未なら等身大の永司と向き合うことができると。
差し出された右手に自分の右手を合わせ、頭を下げる。
「はい……喜んで! よろしくお願いします!」
想いを引き継ぎ、生きていく。それが舜一が欲しても手に入らなかったものであり、永司が持っているものだった。
もう羨むだけの自分はやめた。彼の想いを胸に抱き、遠坂永司として生きればいい。誰でもない自分として繋いだこの手を離さなければいい。
——俺の芝生も青いんだよな。ありのままの俺を受け止めてくれる人だっているんだ。そうだろ、舜一?
永司は噛み締めるように彼の言葉を心の内で呟いた。自分が恵まれていることには気づけない——
誰かになれなくてもいい。だって自分は自分で、この上なく素晴らしい生き物なんだから。
END
僕たちは芝生の青さに気づけない 鴨志田千紘 @heero-pr0t0zer0
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます