僕たちは芝生の青さに気づけない

鴨志田千紘

前編


『もしも自分が金持ちの家に生まれてたら』


 遠坂永司はそんな『ないものねだり』をバイト帰りによく考えていた。

 見えてきたのは木造二階のボロアパート——我が家であった。その姿を見るだけで無性にむさなしさがこみ上げてくる。


「ボロはボロでも寒さを凌げる場所があるだけマシ……か」


 春が近づいているにもかかわらず身震いは止まらない。モッズコートだけでは耐えられなくなってきた。奮発して買った一張羅だが、金があったらもっといいものが買えたに違いない。


「ただいま」


 誰もいない暗闇に声をかけ、明かりをつける。出た時と同じように乱雑とした部屋が照らし出された。

 永司の日常は大学にいってバイトをし、家に帰るというルーティンの繰り返しだった。面白さの一つもない。そんな生活をしていれば必然的に部屋も汚くなる。

 上着をハンガーにかけ、寝床に寝転がる。所在なくスマートフォンを取り出し、SNSを眺めた。


「あっ、こいつ」


 スクロールしていくと一つの画像付きのニュースが目に飛びこんできた。『近藤舜一氏、退陣表明』というニュースだった。興味のない人間ならそのまま流してしまうようなニュースだが、永司は違った。


 


 近藤舜一は今を輝く敏腕起業家であった。メディア露出も多く、一般人でもその存在を知る者は多い。それゆえ学校の友人にはよくネタとしていじられた。『金持ちバージョンの永司』と。

 羨ましくないと言えば嘘になる。同じ顔なのにこんなに生き方に差が生まれるのか。妬ましいくらい青い芝生だった。


「人生なにが起こるかわかんねーなぁ。結局金持ちも金持ちじゃなくなる日がくるわけだし」


 永司は独り言ち、SNSを閉じた。

 自分の言葉が頭の中で反響する。「金持ちも金持ちじゃなくなる日がくる」。金が欲しければ稼ぐしかない。

 今のバイトは賃金の割に苦労が多かった。店のまかないが食べられるという点は貧乏な永司にとってはとても助かるものだったが、飲食店は接客業という性質上ストレスが溜まりやすい。クレーム対応には別途で賃金が欲しいくらいだ。


「なんか単発バイトでも探すか」


 おもむろにバイトサイトを検索し始める。しかし都合のいいバイトは見つからない。

 平日はほとんどバイトのシフトか大学があり、空いているのは土日のみ。条件に合うものはあるが、どれも大変そうだ。


「はぁ……働かざる者食うべからずってか?」


 社会のもどかしさに悲嘆する。できることなら金持ちの逆玉の輿になって養ってもらいたいとすら思った。けれども貧乏学生の永司にそんな出会いは存在しない。

 嘆息を漏らしたその時だった。目を疑うようなバイト募集があったのは。


「健康な二〇代男性……審査は顔写真のみ。一回あたり……えっと一、十、百、千、万……一〇万円。じゅ、一〇万!?」


 画面の丸を指でなぞって、桁を間違えていないか再度確認する。確かにゼロが五つ、一〇万円である。


「うわ、こんなんぜってー怪しいじゃん」


 と頭ではわかっているが永司の目は金額に釘づけとなっていた。目の笑いが止まらない。

 一回一〇万円。しかも場合によっては二回目以降も呼ばれる可能性があるらしい。審査もサイトに個人情報を登録し、顔写真を送るだけ。こんな虫のいいバイトがあってよいのかと疑問に思い始める。


「まあ、いっか。写真だけなら」


 SNSやネットに自分の写真がアップされる時代。今さら顔写真一つで臆することもない。

 なによりどうせ採用されるわけがないと永司は思った。顔に自信はないが、悪くもない。いわゆるフツメンにチャンスが回ってくるわけがないと達観していたのだ。


「はい、送信。ま、ものは試しってね」


 早速自撮りした写真をサイトに貼りつけ送信する。サイト自体は有名企業が運営しているものだ。個人情報を悪用するとは考えられなかった。


「さて。明日も大学だし、寝ますかね」


 永司はスマートフォンを充電器に挿し、そのまま寝入る。

 この時の彼は知らなかった。軽い気持ちで応募したバイトが今後の人生を大きく左右することになるとは。



 一週間後。永司は病院にきていた。なんと先日のバイトに採用されてしまったのだ。

 昨日バイト帰りにスマートフォンを開くと、一通のメールが届いていた。この前のバイトサイトからだ。そこには採用された旨が書かれていた。

 仕事場として指定されたのは大聖大学病院。彼の目の前にある病院だ。


「うわー……嫌な予感しかしねー」


 永司はたどり着いて少し後悔していた。選ばれたと知った時はそんなことを気にする状態ではなかった。ただただ一〇万円がもらえるチャンスがきたと喜んだ。

 だが目的地の近くにきて初めて冷静さが戻ってきた。病院の建物を見ると嫌でもバイト内容が気になってしまう。新薬の検体や怪しい実験などが想起されたからだ。やはり虫のいい話なんてない。自分は騙されているのだと。

 ここまできた手前、帰るのも躊躇われる。バイト情報を掲載していたのは名のある企業だ。法外な仕事を斡旋するとは思えなかった。


「ま、ヤバくなったら逃げよ」


 そう呟いて永司は病院へと足を踏み入れた。


「遠坂永司さんですか?」


 病院に入るや否や永司は女性に声をかけられた。振り向くとそこにはベストにスカートというオフィスレディのような佇まいの女性がいた。病院の事務仕事を担当している者だろう。


「そうですが……」

「お待ちしておりました。ご案内します」


 女性は返答を待たずに先を歩いていく。永司は仕方なく、彼女の後を追った。不安は山々だが、「ここまできたのだから」と自分に暗示をかける。

 事務員が案内したのは病院の最上階にある個室だった。入院患者用の病室である。

 永司は驚きのあまり目が点になる。薄暗い手術室のような場所で怪しい薬を飲まされるとばかり思っていた。


「依頼主はこの部屋におります。会って直接お話を伺ってください。では」


 女は元きた道を戻っていく。置いてけぼりにされた彼はしばし当惑していた。


「病室って……誰も見舞いにこないから見舞いにきて欲しいってか? 金持ちの考えることはわかんねーな」


 ぼやきながら緑のモッズコートを脱ぐ。

 そういうことなら一回一〇万円が支給されるのも納得がいく。高額を出してでも寂しさを紛らわしたいのだろう。人相がよくも悪くもない自分が選ばれたこともなんとなく納得できた。

 覚悟を決めて、ドアノブを握る。


「失礼します。仕事を受けにきた遠坂ですが——」


 丁寧な言葉尻で挨拶をしながら病室内に入る。だが、次の瞬間に言葉を失ってしまう。


 


 いや厳密に言えば違う。頰は痩せこけ、目は遠くを見つめるように生気がない。儚い印象を受けるせいか、かなり小柄な男性に見える。


「近藤舜一……さん?」


 永司は思わず口走っていた。心当たりがあるとしたら彼以外にいない。つい最近まで時の人だった自分と瓜二つの成功者。その彼が目の前にいる。


「僕のこと……知っているのか。それなら話が早い。君が選ばれた理由も、なんとなく察しがつくだろう?」


 男の言葉は歯切れが悪く、弱々しかった。しかしそれでもなにか強い意思が宿っている。永司と話すことに命を懸けているようだった。


「俺が……あなたに似ているから」

「そうだ。正直……君以外に適任はいなかった」


 舜一がゆっくりと手をかざす。その先を見ると椅子が置かれている。「座ってくれ」と言うだけの気力がないらしい。


「けど似ているだけで選ばれるって……俺になにさせようとしてるんだよ? まさか影武者とかか?」


 椅子に座りながら永司が問う。状況が状況だからか、言葉は自然と荒くなっていた。自分自身と相対してまで敬語を使うのはきまりが悪かった。


「鋭いね」

「マジかよ」


 口があんぐりと開く。


「いやいや! 俺しがない大学生だし! あんたのような経営者になんてなれねーから! 学部も経営とかじゃないし!」


 まくし立てるように言葉を続けた。その日暮らしが精一杯の永司にとって経営者は遠い存在だ。明確な将来の展望などなく、掲げるだけの理念もない。一日の収支を考えることしかわからない。


「そんな構えなくても大丈夫。君の仕事内容は……もっとシンプルだ」

「シンプルって言ったって俺にできることは限りがあるし」

「単刀直入に言おう。僕に……君の体を貸してくれないか?」

「へ?」


 素っ頓狂な声が漏れた。およそ人生で耳にすることはないであろう言葉。永司は一瞬、自分が夢にいるのか現実にいるのかわからなくなった。


「驚かせてすまない。けど君に害はない方法だから安心してくれ」

「いやいやいやいやいや! わけわかんねーって。どういうことだよ、体を貸すって。バカな俺にもわかるように説明してくれよ」

「簡単な話だよ。君の肉体に……僕の意識を移す。僕は君の体を借りて自由を得る。君は眠っているだけで報酬金が得られるってことだ」

「全然飲みこめないわ。そんなことできるのかよ」


 舜一の噛み砕いた説明を永司も理解することはできた。だがそれは『可能なら』という前提条件がつく。人間の意識を他者に移す……そんなSFじみた話を受け入れられなかった。


「できる。だから君を呼んだんだ」


 舜一は断定し、彼の目を見据えていた。


「ここ大聖大学では様々な研究がされている。その内の一つが人間の精神のデータ化だ」

「データ化?」

「そう。人間の脳はコンピュータみたいなものだ。だから意識をデータに変換してほかの人間に移し替えることができるかもしれないと思ったんだ。これが実用化すれば人間の精神は不滅となるだろう。なにより体が不自由な人間の救済手段になる」


 まるで自身がその研究を推進しているかのように舜一が語る。その研究には彼の積年の夢が詰まっているのだろうか。

 ようやく永司もことのあらましを理解した。


「だからそっくりな俺が選ばれた……体の不自由なあんたと入れ替わっても違和感がないから」


 舜一が深く首肯する。


「でも待ってくれよ。こんなの人体実験だろ? 意識を移すって問題とかないのかよ?」


 しかしただで頷くことはできない。なにせ前代未聞の実験に巻きこまれるのだ。自分の肉体に他人の精神を入れる。心配ごとがないわけがない。


「すでに行った実験では問題はなかった。遠坂永司としての自我の安全は保証する。意識を上書きするわけじゃないからね。近藤舜一という人格と記憶の一部を僕の体から抜き出し、君の脳内の使われていない領域に書きこむだけだ。そうすると君は僕と同じように動く。そして近藤舜一として動いた記憶は僕の中に戻すことで、経験にできる」


 置き去りにするように舜一の説明が続く。


「言うなれば二つの意識が一つの体に同居している状態だ。君は一時的に二重人格になるってこと」


 二重人格——その言葉でやっと腑に落ちた。永司という人格が寝ている間、舜一という人格が表立って活動することになるわけだ。


「けどやっぱ怖いっていうか……そんなことしていいのかなって……」


 それでも永司は了承できなかった。今日初めて会った人間を自分の体に同居させる——抵抗があるに決まっていた。

 二重人格と言えば聞こえはいい。だが舜一が体を使っている間は干渉することができない。なにをされるかわからないのだ。


「言い値で構わない」

「え?」

「言い値で構わない。一回あたりの報酬金は君が欲しい額でいいよ」


 ごねる彼に舜一がとどめを刺す。

 しばし永司は放心した。なにを言っているかわからなかった。自分が欲しい金額をもらえる……「それで納得してくれ。譲歩してくれ」と言われているような気がした。


「頼む! 君しかいないんだ!」


 瘦せぎすの男ははっきりと声を上げ、懇願した。

 その様子を見て永司も思うところがあった。彼も好きで不自由な体になったわけじゃないのだろう。

 そんな舜一に体を貸し与え、生きる喜びを味わわせる。それが悪いことなのか永司はわからなかった。

 むしろ善行にすら思える。いいことをして好きなだけお金をもらえるなら願ったり叶ったりじゃないか……と。


「じゃあ……一〇〇万で」

「ああ、構わないとも」


 舜一の返事は心底嬉しそうな声音だった。『体貸し』。二人の間に前代未聞の契約が結ばれた瞬間であった。



「早速仕事を頼みたい」


 永司は舜一の車椅子を押して病院の一室へと向かった。そこは手術室のような内装をしていたが、手術台らしきものはない。代わりに巨大な人工物が部屋を占拠していた。

 中には研究員が数人おり、彼らはみな舜一にお辞儀をしている。


「これが意識データ転送装置だ。僕たちがやることは単純だ。ただそこに座ればいい。あとは研究員が動かしてくれる」


 真ん中の機械を挟むように椅子が二つ離れて並んでいる。その上にはパーマをかけるためのヘアスチーマーような器具が備えつけられていた。そのうちの一つに舜一が腰掛ける。

 永司も心を決め、席に座る。研究員はその行為を了承と判断したのか、頭の上から覆いが降りてきた。


「それでは意識データ転送を開始します」


 最後に聞いたのは研究員の事務的な声だった。その後すぐに意識が遠退いた。

 意識が出ていく……というより沈んでいく感覚。まるで別のなにかに押しこめられたようだ。

 そのなにかは紛れもなく舜一の意識であった。

 永司が目を覚ますとそこは先ほどと寸分違わぬ光景だった。意識を押し沈められた場所——装置のある研究室だ。

 しかし体にはしっかり疲れが溜まっていた。意識を移されて疲れたというわけではない。

 隣を見ると舜一の姿がなかった。いるのは研究員たちだけだ。


「お目覚めになりましたか、遠坂さん」

「あ、はい」

「これは近藤様からお預かりしたものです。報酬の一〇〇万円が入っております」


 研究員から手渡されたのはブクブクに太った茶封筒だった。奪うように慌てて手に取る。パラパラとめくって中身を確認すると、厚さだけの偽物でないことがわかった。一万円が確かに一〇〇枚あったのだ。

 永司は呆然となってしまう。自分がなにかしたわけではない。ただ意識を眠らせていただけ。それだけで一〇〇万円がもらえるとは夢のようだった。


「こちらからは以上です。お帰りはあちらからどうぞ」


 研究員が扉を指し示すように手を向けた。


「ありがとうございました。近藤さんにも……そうお伝えください」

「いえいえ。こちらとしてもデータ取集は重要ですので、お互い様ですよ。近藤様にもお伝えしておきます」


 会釈をして永司はその場を後にした。

 帰り道、街中を歩いても夢見心地が抜けなかった。本当に現実なのだろうかと思い、顔をつねる。痛みを普通に感じたことでようやく実感した。

 スマホの待ち受け画面で時間を確認する。時刻は午後九時になるところだった。昼頃に病院を訪れたことを考えると丸々八時間は体を貸していたことになる。


「どうりで疲れるわけだ。しかも腹減ったしな」


 彼は懐にしまった茶封筒を取り出し、眺める。見ているだけでにやけが止まらなかった。

 舜一が痛々しい体を離れてまで仕事をする理由はわからない。だがそれはどうだっていい。永司にとっては都合のいい雇い主に違いないのだ。


「さて……記念すべき最初の出費はやっぱり飯かね」


 視線の先にあったのはステーキハウスだった。脂がこれでもかと乗った肉の写真が看板に描かれている。

 ふと最後に食べたステーキを思い出そうとしたが、記憶の奥底から引き出せなかった。それくらい長い間、ご馳走にありつけていなかったのだ。

 永司は掴んだ夢を片手にステーキ屋へと足を踏み入れる。これからなにに金を使おうかと浮き足立つのが止まらなかった。



 永司はそれから何度も体を貸した。その度に金は増え、窮屈だった生活が嘘だったかのように豊かになった。

 食事に不自由はないし、住む場所だって快適になった。思い返すとあんなボロアパートでよく我慢できたなと不思議に感じたくらいだ。

 加えて苦労して対価を得る必要もなくなった。バイトは二回目の体貸しをした後にすぐやめた。店長やバイト仲間には惜しまれ苦心したが、やはり重労働から解放されたいという思いの方が強かったのだ。

 大学もやめてやろうかと考えていたが、それは踏みとどまった。友達がいたからだ。彼が欲しかったのは友達と遊ぶための金であって、大学までやめてしまったら本末転倒になる。それに大学卒業の実績は持っておいて損はないはずだと思った。


 そうして一ヶ月が過ぎた。永司が体を貸すのは週に一、二回程度。だいたい決まった曜日、決まった時間だった。

 この日もいつも体を貸す曜日だった。だから呼ばれたわけでもないのに、彼の足は病院へと向かっていた。

 寒さは未だに衰えることなく体を襲う。寒いのが嫌なら上着を新調すればいいじゃないかと永司自身も思ったが、なぜかこの緑のモッズコートだけは未だに手放せなかった。


「おっす。今日も使うんだろ?」


 病室に入り、舜一に気さくに声をかける。だいぶ時間が経ったからか、出会った頃よりラフな話し方になっていた。


「ああ。連絡しなくてもきてくれて助かるよ」


 ベッドから起き上がった舜一が車椅子に乗り換える。

 それまでの間、永司は所在なさげに病室を見渡した。いくらかある私物といつの間に増えていた花瓶に生けた花が目に映る。


「じゃあ、いこうか」

「ああ」


 二人はいつものように装置のある部屋へと赴く。

 今日も眠っていれば金がもらえる。永司は軽い気持ちで足を運んでいた。


 意識が戻った時に彼が見た光景は病院の一室ではなかった。目の前に見えるのは色とりどりの花々。そして、店員と思しき一人の女性。

 周囲を見渡そうとしても体が自由に動かない。永司は音や感覚で状況を判断するしかなかった。

 雑踏が聞こえるあたり、オフィス街か繁華街に近いのだろう。暖かい日差しを感じるため、まだ夕方にはなっていないようだ。


「そうなんですか。また戻ってお仕事に?」

「ええ。昼休憩で外に出ただけですから」


 自分の意識とは別の意識が口を動かしていた。今、体の主導権を握っているのは舜一の方だった。


「今日も買っていかれますか?」


 店員が笑顔で尋ねてくる。線の整った綺麗な顔としな垂れて肩にかかる茶髪の三つ編み。清純な印象を受けたせいか、エプロンとロングスカートという佇まいが花屋の店員として様になって見えた。


「ええ、いつものを」

「かしこまりました」


 店員ははにかんで笑顔を見せると、すぐに作業へと移った。ほかになにか聞くこともなく、まるで全てわかっているようだ。


「お待たせしました。はい、これ」

「ありがとうございます」


 数分後、数本の白と黄色のチューリップの花束ができあがる。


「またいらしてくださいね、永司さん」


 会計を済ませ、店を出ようとしたその時……彼女は確かに『永司』と言った。


 ——どうして舜一は自分の名前ではなく、俺の名前を騙っているんだ?


 一抹の不信感が永司の心に巣食った。

 そこで意識がブラックアウトする。覗けたのはほんの一瞬の行動だけだった。

 体の主導権が戻ったのは装置で舜一の意識を吸い出した後だった。隣を見やると、彼も同時に起きたようだ。永司は車椅子に乗った舜一に近づく。


「俺が運びますよ」


 病室まで運ぼうとした研究員にそう伝え、代わってもらう。いつもならこのまま帰るところだが、今日はすぐに帰れなかった。どうしても彼に聞かなければいけないことがある。


「それにしても珍しいね。君がすぐに帰らず、病室まで送ってくれるなんて」


 ベッドに戻った舜一が朗らかな口調で問いかける。その様子を見て永司は「さぞ楽しかったんだろうな」と小声で独り言ちた。


「あんたに聞かなきゃいけないことがある。あんた……俺の体をなにに使ってるんだ?」


 不躾に問い詰める。自分の体を使って女を口説いていたなら、たまったもんじゃない。知らないうちに修羅場ができあがっていたなんてごめんだ。


「なにって……仕事の処理だよ。社長を退陣するにも色々やることがあってね。今後の研究への出資の根回しもしておかなきゃだし」

「とぼけんな。昼休憩の時、花屋にいってただろ? この花がその証拠だ。俺の名前を使って常連客にでもなったのか? 最期にやりたいことって女かよ!」

「なんだ。覚醒していたのか。想定外のケースだ……どうやらまだ改良の余地がありそうだな」

「お前……!! 俺の体をなんだと思ってんだよ!」


 永司は反射的に彼の胸ぐらを掴んでしまう。やはり実験体として自分を利用しようとしていたのかと憤りに駆られていた。


「じゃあ、やめるかい? 無理だろ。今さら君が元の生活に戻れるわけがない」


 しかし舜一は暴力に物怖じすることなく、まじまじと目を見つめ返す。


 ——「君の弱みは知っている」。


 舜一の声が脳裏を過る。掴んだ手を離さざるを得なかった。

 彼と手を切れば、自分は貧しい生活に逆戻り。遊ぶ自由もなく、なんの面白味もない。また毎週毎週ルーティンをこなすことになる。それだけは嫌だった。

 永司はそれ以上なにも言い返せず、病室を後にした。



 金か身の安全か。頭では危険だとわかっていながら、甘い蜜を求めて蜂の巣に手を突っこんでしまう。愚かしい自分自身に嫌気が差しそうだった。

 体を貸し続ける中で意識の覚醒は顕著になり、全ての行動を覗くことができるようになっていた。

 そんな折、永司はある夢を見た。花屋の女性と自分が仲睦まじく手を繋いで、並木道を歩く夢だ。

 雪を踏み締める音がサクサクと聞こえる。冷たい風が鼻腔をくすぐり、二人を包む。

 それでも彼女は気にもせず、こちらの顔を見てクスクスと笑う。なにもしていないのに楽しそうな、二人だけの世界。

 穏やかな雰囲気が胸を打ち、衝動のままに彼女の頬に触れたくなる。けれど……それは決して叶わない。手は虚空を引き裂くだけだった。


「舜一」


 その一言で目を覚ます。

 夢は永司の生きた現実ではない。どんなにリアルな夢でも、女が手を繋いでいたのは自分じゃない。彼なのだ。その事実が矢となり、胸を抉る。

 思えば舜一は花屋の女にしか会いにいっていない。生真面目なことに、それ以外の時間は仕事に回していた。


 ——舜一は俺の体を悪用しようとしていたんじゃないのか?


 疑問の答えはきっと夢に関係ある。永司は解消するためにある決心をした。「あの女性が何者なのか調べよう」と。

 向かった先は花屋だ。何度か舜一が訪れるうちに場所は把握していた。


「いらっしゃいませ。あ、永司さん」


 店内に入るとすぐに件の女性が気さくに話しかけてきた。駆け寄ってくる彼女に戸惑った永司は「ど、どうも」と歯切れ悪く返してしまう。

 女性の名前は来栖川朋未。舜一とのやり取りを聞いているうちに自然と覚えてしまっていた。


「今日は珍しい時間ですね。いつもは昼か六時頃なのに」

「今日はその……休みでして」

「あ、本当ですね! スーツじゃなくてモッズコートだ……最初に気づけばよかった」


 朋未は両手を合わせ、目をしばたたかせた。

 彼女の口調はふわふわと柔らかなもので、天然な性格なのだろう。一挙手一投足が妙に大袈裟で、慌ただしくもある。

 しかしそれでいていつもと違う時間に永司が訪れていることに気づいていた。


「お客さんのことよく把握してらっしゃるんですね」

「あ、いえ……その永司さんは特別と言いますか」

「特別?」


 朋未の言葉が急に尻ごみする。恥ずかしげに顔を逸らしていた。


「はい。似てるんです。私の元カレに」

「……元カレ」


 それが舜一であることをすぐに理解した。あの夢は永司に植えつけられた彼の記憶の残滓だったのだ。


「本当に顔が似てるだけで……背丈も声も違うし。けど、なぜか永司さんと話すと不思議と他人に思えなくて」


 その顔は心なしか寂しげなものだった。

 どうりで自分を舜一と認識しないわけだと永司は得心した。交際関係にあった彼女だからこそ些細な違いに気づき、別人だと認識できるのだ。彼がわざわざ永司の名前を騙ったのもそのためだろう。


「ごめんなさい。変なこと言っちゃいましたよね。今のなしで! 忘れてください」

「忘れたくても忘れられませんよ。そんな口説き文句初めて聞きました」

「口説き文句じゃありませんよ! もう、永司さんって本当は意地悪さんだったんですね。いつもは紳士的なのに」


 朋未が睨みながら膨れっ面を見せる。その行動は無邪気な子どもそのものだった。


「あ、いや。これはその……ごめんなさい、忘れてください。僕も忘れますから」


 楽しくなってしまった永司はつい素の姿を晒してしまう。

 慣れない丁寧語に僕という一人称が煩わしい。なんであんなやつのために取り繕わなきゃいけないのかと憤りたい気分だった。


「お花、買ってくれたら忘れます」

「参ったな……じゃあ、いつものお願いします」

「はい、ありがとうございます!」


 打って変わって天真爛漫な笑みを見せた。その表情があまりにも眩しく、たまらず陳列されている花の方へと目を向ける。

 その後すぐに朋未は白と黄色のチューリップの花束の準備にかかった。永司ははたからその様子を眺める。

 天然のように見えて強かで、ころころと多彩な表情を見せる彼女。なんとなくではあるが、舜一が惹かれる理由がわかった気がした。


 ——だけどなんであいつは朋未さんと別れることになったんだ? そのくせ正体を隠して会いにいってるのはなぜだ?


 二人の関係性が判明したと思った矢先、新たな疑問が生まれる。


「はい、お待たせしました」


 朋未が微笑みながら花束を手渡す。やはり彼女は眩しく、「あ、ありがとう」と素っ気なく言葉を返すことしかできなかった。

 永司は花屋を後にした。『元カレ』という重要な関係性を知れれば充分だった。


 ——それさえわかればいくらでも問い詰められる。


 心の内で静かに反旗の闘志を燃やしていた。

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