妖蛆の秘密

 雲海から吹き上げられた霧がけぶる、小風のそよぐ早朝であった。

「……見送りは、ここらでよかろう」

 聖樹の里を出て南へ向かう、枝の片端。斜めに突き出た小枝の影で、ジャクバは人目を憚るように包みを解いた。

 現れたのは、一見ありふれた片手提げの星苔灯である。薄く成型した無色の龍珀ダハルコが中身を透かし、容器に納めた星苔の光を外界へ放射する。

 尋常ならぬのは、その光の明るさであり彩りであった。白色の輝きが三人の男たちをまばゆく照らし、いかなる反射と屈折の効果か、照らされたものの輪郭を縁取るような、多色の光芒が浮かび上がる。

 虹を生み出す白光に手をかざし、ほう、と蟲使いが嘆息したのも束の間。周囲を見回したジャクバが筒の覆いを閉じ、急いで布に包み直す。幻想的な灯光は隠れ、〈樹界エルシノア〉の朝の光が戻った。

 これこそ、ジャクバが蟲使いに約束した〝報酬〟。祖父の代にたった一株だけ、偶然から生み出すことに成功した星苔の変異種を、交雑させることもなく大事に育て継いできた、秘伝の逸品。

 ほんらい苔農家としては凡庸なジャクバ一家が、聖樹の森域しんいきに唯一誇れる、最高品質の星苔灯――名を、〈玻璃の幻燈アズ・ランプ〉という。

 明度の高さ、光彩の美しさのほか、適切な手入れを怠らなければ、照明としての寿命もきわめて長い。これを維持するためだけに専属の苔農家を雇う価値がある、とはジャクバの父の言である。一本売れればそれだけで、家族を半年養えるほどの収入となる、破格の高額商品だ。

 反面、成長は遅く、光源となる苔の収穫量は一年に一本分が限度。これ以外の商品は取り立てて売れているわけでもなく、あえて売らずに変異苔の生産効率を上げようという試みは、三代にわたって挫折してきた。

 いまジャクバが手にしているのは、ナディの持参金代わりに里長へ献上する予定で出荷せずにいた、今年の分の〈玻璃の幻燈アズ・ランプ〉である。

 ナディの縁談が破約になるくらいなら、流れの呪医を雇うための対価に差し出してしまってもよい。契約を結ぶ折、蟲使いにはそう説明していた。対価としては充分であると納得したからこそ、蟲使いもあのように変則的な仕事を請けた。

 とはいえ――。

「わざわざここまで、ありがとうございました。私はこのまま行きますゆえ、約束の品をこちらに」

 包みを受け取ろうと、両手を差し出す蟲使い。その背後に回ったノジームへと、ジャクバは目配せした。

 

 ――汚らわしい蟲使いなどに、手塩にかけた今年の一本をくれてやる気は、はなからない。

 ノジームが隠し持っていた木槌を振り上げる。息子の腕力なら、人の頭蓋骨ごときは一撃で砕けよう。

 すべての段取りは出来上がっている。

 蟲使いの死体を雲海へ投げ捨て、〈幻燈〉を隠して家に戻る。ナディには「やつは無事に南へ旅立った」とでも言っておけばよい。回収した〈幻燈〉は予定通り、里長への献上品として使う。ただし秘密裏に、ノジーム以外には知られぬように。モラハンの抹殺に始まり、ジャクバが張り巡らした此度の陰謀は、ここで蟲使いを消すことによって、損害なく完璧に締めくくられる。

 それに――と、ジャクバの浮かべた笑みが深まる。あくまで予定調和の使い捨てだが、いまとなっては蟲使いに対し、いささかの私怨もある。

 確かに娘の傷も、病も治った。だがそのために蟲使いがやったことといえば、処女を強姦するより何倍もおぞましい、倒錯し切った変態の所業だったではないか。

 ナディ本人の知らぬこととはいえ、婚前の娘を目の前で嬲り者にされた父親として、このベルムとかいう男を生かしておくことは、やはり断じて出来ぬ。

 今後に思いを馳せた長い一瞬が過ぎ、ジャクバは声を出さずに吼えた。

 ――死ね、蛆狂いの異常者め!

 木槌が頭巾に叩き付けられようという瞬間、ジャクバは耳を聾さんばかりの、奇妙なを聴いた。

「んッ……何だ!?」

 樹間を埋め尽くして、百億の蠅が羽ばたくような怪音。むろん、そんな蠅の群れが急に湧いて出るわけもない。ならばいったい、音源はどこに。

「っな、うわ、何だッこれ! いてェ、あっあやめ骨っこれ骨」

 木槌が落ちる音。ノジームの声。周囲に眼をやっていたジャクバは、蟲使いの背後に視線を戻し、凍りついた。

 巨躯のノジームが宙に浮いて、いる。

 四肢を奇怪な方向にへし曲げられ、骨の折れる音がしたかと思うと、折れた手足が先端から、骨をむき出しにした太い筋肉の束となる。いかなる意味でも理解不能の光景だった。あまりに現実感がなく、助けようという考えすら起こらない。

「ヒィッアァ痛ッ、嫌だ父ちゃんっぁ助けッたしゅ」

 父が身じろぎひとつできぬうちに、泣き叫ぶノジームの全身が裏返り、脳や血管や内臓を曝け出した肉塊となった。ジャクバを心底怯えさせたことに、その状態になってもなお息子は身をよじり、四肢をばたつかせていた。

 肉塊のいたるところから血が噴き出し、しかし大樹の枝を濡らすことなく、重力に逆らって浮き上がる。幾筋もの血が螺旋を描いて、ノジームのすぐ上の虚空へと吸い込まれてゆく。

 ――これは、なんだ。夢か?

 後ずさるジャクバの眼前で、悪夢を背にした蟲使いが、深いため息を吐いた。玉簾は常と変わらず赤くきらめき、しかしどこか不吉なを鳴らす。表情は読めぬ。

 読めぬまま、無貌の闇が告げる。

「……愚かな選択をされましたな」

 それだけで、ジャクバは悟る。ノジームをあのようにしているのは、蟲使いだ。夢ではない。これは現実で、何らかの手段で彼奴が反撃しているのだ――繋がる文脈がようやくの理解をもたらす。遅きに失した。

「あボァば」

 宙吊りになって震えていた肉塊が、巨大な見えざる力で引き裂かれるようにして、弾けた。

 飛び散る骨肉は血の螺旋に乗って吸い上げられ、瞬く間に消失する。気付けばそこに、ノジームがいたことを示すものは、もう投げ出された木槌しか残っていない。

「人けのないところへ連れて来られた時点で、正直これはと思いもいたしましたが……いちおう最後まで、契約が正しく履行される望みは、捨てずにおりましたものを。

 悲しいですな、ジャクバ殿。初めからこうされるおつもりだったのですか?」

 ジャクバは答えず、蟲使いに背を向け、逃げ出した。

 脚に力が入らない。耳の奥で、風とも血流ともつかぬ音が、轟々と響いている。片手に〈幻燈〉の包みを抱え、もう片方の手は懐に隠してあった短刀を無意識に抜いていた。何のために。無意味。やるべきことは、走るでも短刀を抜くでもなく――

「捕えよ、アルハザード」

 

 息子の惨死を目の当たりにしたジャクバは、もはや最前まで推し進めていた陰謀のことなど念頭にもなく、ただ叫ぼうとした。里の外ではあるが、朝の静かな森になら、大声はよく響くだろうと――だが声は出なかった。ノジームを引き裂いたものと同質の何か、形のない力が喉を締め付けている。ジャクバはそこで、自分が五歩も走らぬうちに宙吊りになっていたことを知った。ノジームと同じように。

 小枝の影から出てさえいない。誰の目も届かない。

 助けは来ない。

「き、さ……きさま、なにを……した」

 辛うじて、かすれた声だけが絞り出せた。見ればいつの間にか、〈玻璃の幻燈アズ・ランプ〉が蟲使いの手に収まっている。

「ナディ殿には申し訳なき仕儀となりましたが……これも因果。匪賊ひぞくには匪賊の末路というものがございまする。

 次なる里長の寵愛も篤いとのことなれば、父兄亡き後も、彼女が路頭に迷うことはありますまい」

「ばけ、ものめ……よくも、よくも息子を……」

「正当防衛を主張しとうございますぞ。アルハザードが守ってくれねば、私の頭が爆ぜておったところ」

 耳の奥で鳴っていたのがだと、ジャクバはいまさら気付いた。

 恐怖と怒りと悲しみと、そして後悔と――混じり合ってこらえ切れず、嗚咽するような笑い声が洩れてしまう。

 なにが間違っていたのだろう?

 完璧な計画だと思った。家族が失うものはなく、忌み嫌われる余所者ひとりの犠牲で、聖樹の里長の縁者となれるはずだった。神権の代行者、この〈樹界エルシノア〉でもっとも偉大な血族――

 なにが間違っていたのだろう?

 かわいそうなノジーム。愚かな子だった。それでも愛しい息子だ。やがては農場を継ぐはずの、世辞にも自慢とは言えなくとも、たくましく朴訥な、おれの血を分けた子……。

「おれは……家長、として……家族、家族のため、に」

 羽音が止み、すぐ頭上から、熱く腐臭のする息を感じた。この臭いには覚えがある。蟲使いを初めて見たとき感じた、死臭のようなあの気配。

 はずっと蟲使いの近くにいたのだ。

 目には見えぬ、何か尖った杭のようなものが、背に腹に、脚に腕に、ジャクバの全身に突き刺さる。痛みは鈍く、傷口が冷えてゆくような、奇妙な感覚があった。

 無数の傷から流れ出た血液は、やはり重力に抗して浮き上がり、螺旋となって頭上の虚空へ吸い上げられてゆく。

 そこに、が居る。

 顔を上向けても、やはり見えはしない。だが、居るのだ。そいつが血を啜っている。巨大な爪が五体に喰い込んで、ぎりぎりと締め上げている。

 急激な失血で朦朧とし始める意識の端に、ジャクバは蟲使いの声を聞いた。

「最後となりますが、礼儀としてご紹介をば。

 は、わが父ゴルディンと共に生きた〈妖蛆〉アルハザードが羽化を遂げ、高次の姿に至ったもの。われらは〈星霊蠅バルゼベル〉と呼びます――神に最も近き蟲とも」

「わ……る、かた。ゆる、て、たす……くれ」

 この期に及んでようやく発せられた、途切れ途切れの謝罪。それが月並みな命乞いと抱き合わせであるのを聞くと、蟲使いは失望もあらわに嘆息した。

 無用の苦痛を長引かせるべきではない、と観念するように、祈り、命じる。

「せめて、余さず生命いのちのめぐりへ。――アルハザード、喰らい尽くせ」

 苔農夫ジャクバはその瞬間、もう一度だけ上を向いた。

 命の最期のぬくもりを迎え入れるように、虚無が大きく口を開く。奥にはみち。その路の彼方、すべての死と蛆とが産まれ来る黒い故郷を、彼は見た。

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