報恩
翌日から、ナディの容体は快癒へ向かった。
痙攣や硬直が残ることもなく、本人が不満を述べたことと言えば、運動も食事もまともにできなかったことによる体力低下くらいのもの。ハエルがじっくり細部まで確認したところでは、処女膜の再建も完璧であった。
心の傷は、残る。おそらく何年も尾を引く。だが少なくとも、ナディが処女でないことを看破できる者はいない。差し迫ったイオズフとの結婚に、何ら障害はない。
さらに数日が過ぎ、ベルムが完治を告げる頃には、やせ細っていた身体も、いくらか健康的な丸みを取り戻していた。
別れの日の朝、ナディは蟲使いの両手を握り、一語一句に感謝の思いを込めて言う。
「ありがとう、先生。わたしの命を救ってくれて。お父さんが言うには、見なくてよかったらしいけど……」
「そうですな。母君などは卒倒されておりましたゆえ」
水を向けられ、ハエルが複雑な顔をする。実際に施術を見てしまった身としては、とてもではないがベルムに触れる気にはなれないらしい。
それでも、傷と病、ふたつの治療を完璧にやりとげたという実績は、蟲使いに対する母子の偏見を、大きく減じさせていた。
「もう、すぐにでも次の聖樹を目指すんでしょう? わたしのために引き留めて、ごめんなさい」
「急ぐ旅ではありませぬ。どうか、お気になさらず。父君から、素晴らしい御代もいただけることですので」
折しも、仏頂面のジャクバが居間へ入ってくる。手には、布で厚くくるまれた筒状の物体。大きさは片手に掴める程度、包みはつややかな黒紫の布。
ナディは〝素晴らしい御代〟の正体を察した。ハエルも同じらしく、驚きに開いた口を押さえている。
守秘契約をはじめ、あれだけの無理を通したのだから、相応に高い報酬を支払うのだろうとは思っていた。にしても、まさか今年の分の〈
もちろん、ナディは不当な対価などと思ってはいない。むしろ、あれならば相応しい謝礼となるだろう。
「……出立するのだろう? これは里を出たところで引き渡す。万一にもきさまがこれを、里の中で落としたり奪われたりすれば、勘ぐる連中も出て来ようからな。
来い、ノジーム。蟲使いを送るぞ」
当てつけるように、最後までベルムを信じぬ態度を家族の前で示し、ジャクバは一足先に家を出ていった。ノジームがのそのそと後を追う。
「それじゃあ、ベルム先生。お元気で」
「蟲使いの身で〝先生〟などと呼んでいただけるのは、なかなか新鮮と申しますか、面映ゆいですな」
ちらりと面簾を上げ、相変わらず年下の少女のような顔で微笑んでから、ベルムは玄関を閉じ、去っていった。あれでナディの倍以上も生きているというのだから、まこと呪術師という人種には謎が多い。
「さあ、ナディ。お父さんたちが戻ってきたら、イオズフさんとの婚礼の準備を始めますよ。もうずいぶん遅れてしまって、日にちが押してるんですからね……」
母に声をかけられ、ナディは静かに喜びを噛み締める。本来なら自分は、モラハンに襲われたあの日の時点で、そのまま破滅する運命にあったのだ。それを、偶然居合わせたベルムが救ってくれた。無礼なことを言った自分や、横柄な父にも嫌味ひとつ返さず、何日も里への滞在を伸ばしてまで……。
感謝しても仕切れぬ大恩。いつか産むであろうイオズフとの子供たちにも、あのやさしい蟲使いのことを語り継いでいこうと思った。それが、邪法の使い手などと蔑まれる彼への、せめてもの恩返しになればいい。
密やかな決意を宝物のように抱えて、ナディは笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます