傷を喰らう

 破傷風の症状にはいくつかの段階がある。

 口を開けにくくなり、首が硬く張ったり、寝汗を掻いたりする第一期。口がますます固く締まり、引きつった笑いのような顔になり、四肢も痙攣と硬直で自由に動かなくなってくる第二期。

 そして第三期。

 全身痙攣、呼吸困難、死の危険すらある発作が頻発する、劇症の〝峠〟である。


 ナディは当初、を病気のもたらす症状とは認識できなかった。

 闇の中で悪霊の群れに襲われ、硬直した全身の筋肉がねじれて、ばらばらに引き千切られようとしている――そんな感覚で、眠りから蹴り出される。悪夢の延長に訪れた超自然的存在の、抗いがたい暴力としか思えなかった。指一本まで意思の制御を離れ、助けを求める言葉も発せられず、できることはただ軋る歯の隙間から唸り声を上げるのみ。それすら布を噛んでいたことが裏目に出て、押し包むような静寂を破る音にはならない。

 これまでの数日に味わった苦しみが、じつはすべて前兆に過ぎなかったのだと身体にわからせるような、凄まじい痛みと痙攣だった。腰は引き弓のごとく反り返り、背骨が折れるのではないかと恐怖しながらも、自分の意志では跳ね上がる腰を止められない。

 自分はに耐えられると思っていたのか?

 このまま死ぬのだ、と思うだけの苦痛が、どれほど続いたのか。我に返るとナディは寝台から転げ落ちていて、その音を聴きつけた母が、ようやく娘の部屋に飛び込んでくるところだった。

 母のかいなに抱かれ、圧倒的な恐怖の残響に震えながら、少女は泣きじゃくる。たった一度の短い発作が、未だ人間に負わされた傷も癒えぬ心を、完膚なきまでにへし折っていた。

 ナディは嗚咽の中でイオズフの名を呼び、それから別の名を繰り返し、呪文のように唱えた。

「ベルム、ベルム……お母さん、あの人を、ベルムを呼んできて。わたし、きっと蟲も我慢するから……」



 初日に続き、またも夜半にノジームを遣って連れて来させた蟲使いを、ジャクバはほとんど憎悪の籠った目つきで出迎えた。

「きさまの策の通りになったな? 嬉しいか、え? それとも昼のうちに自分で毒でも盛っておいたか?」

「興奮なされますな。嬉しい展開とは言えねども、制御下における事態ではあります」

だと?」

 呪術師が首肯し、波打つ玉簾が涼やかなを鳴らす。

「昼間に飲ませた薬湯は、効き目が強くない代わりに長く残るもの。あれが効いている限り、彼女の首から背にかけての筋肉はある程度弛緩し、窒息や脊椎損傷といった致死的な症状は免れるでしょう」

「……薬で抑えても、あれほど苦しむのか?」

「さらに強い薬も使えましたが、破傷風という病の危うさも、ご息女には知っていただきたく思いましたゆえ。

 すべては、正しき合意のため……蟲を受け入れるよりは死を選ぶというなら、それはそれで尊き意思の決断。どちらを選ぼうと、咎めはいたしませぬ」

「……やはり計算ずくも同然の備えではないか」

 もはや何を言われようと、ジャクバの中で蟲使いの評価が好転することはないように思われた。

 この胡乱な呪術師は、ナディから余裕を奪い去るために時間を稼いでいたのに違いない。無為な雑談で懐に入り込み、年頃の小娘を手もなく懐柔し、病状が悪化すればすぐにでも、ナディが自分を頼ってくるように仕向けたのだ。最初に蟲を見せたことすら、状況を誘導するための布石であったかもしれぬ。

 ――聞いて呆れる。選べないようにしているのはこの男ではないか。やはり〈玻璃の幻燈アズ・ランプ〉が目当て、あるいは若い娘の秘所に蟲をけしかけて興奮する変態の類か。ジャクバの猜疑は際限なく枝を広げる。

 自分に向けられる冷えた蔑視など知らぬげに、蟲使いは呪医らしく粛然と、ナディの部屋へ歩を進める。

「父君、母君にはお手伝いいただきます。兄君あにぎみは……外で待っておられた方がよいでしょう。施術の風景は少々、刺激が強い」


 汗みずくのナディは、蟲を使った治療を許すにあたり、ひとつの条件を願い出た。

「わたしに、が見えないようにしてください。見なければ……きっと、なんとか耐えてみせますから……」

 冷静に考えれば、これも蟲使いに対して無礼な物言いであったろうが、当人は気を悪くするふうでもなく頷いている。

「見えずとも意識があれば、痛みや痒み、音や臭気などに悩まされまする。いっそ、ここは麻酔で眠っていただくほうがよろしいかと。目が覚めれば傷は塞がり、病毒は浄化され、すべてが終わっておりますよ」

「……信じます。そうしてください、先生」

 ナディの態度が随分と軟化している。なるほど迂遠な説得にも効果はあったらしい――ジャクバは現状のましなところを探すことで、蟲使いへの苛立ちを抑えようとした。どうせ今回のことが終われば、二度と会うこともない相手だ。考えようによっては、父の威光で怒鳴りつけて未来の里長夫人に嫌われるより、穏便に説得が済んでよかったかもしれぬ。

 が、それもナディが死ななければの話。そして、傷ついた処女性を回復できればの話だ。

 蟲使いがナディの腕を取り、細い針のようなものをさっと走らせる。数秒と待たず、娘はとろりと眠そうな顔つきになり、やがて意識を失って、寝台に倒れた。

 恐ろしく効きの早い麻酔。だ、とジャクバは針を目に焼き付ける。

「さっそく始めましょう。ご両親、患者の身体をまっすぐに。そう……次に、寝衣を脱がせて、下体を裸に」

 娘を寝かせたハエルが、かすかに批難がましい眼で蟲使いを見る。頭で分かってはいても、医者らしい一言が欲しいのだろう。

 ジャクバにとっては女のくだらぬ感傷だったが、呪医はそうした機微を心得ているように頷き、宣言する。

「これより行うは、すべて治療に必要なこと。どうかご理解いただき、ご協力願います」

 かくて、世にもおぞましき蟲使いの秘儀が、帳を開く。


 明朝まで続いたその〝治療〟は、ジャクバの生涯で最も忍耐力を試された、地獄のような時間となった。

 いくつかの薬針を加えて打ち込み、術中の発作を予防する処置を済ませた蟲使いは、次なる指示を出した。ジャクバとハエルが一本ずつ娘の脚を抱え、大きく股を開かせる。

 むき出しになった女陰は赤黒く変色し、傷が塞がったいまも腫れ上がったまま、膿を滲ませていた。明らかに組織が壊死している。

 ジャクバの知る限り、汚染された傷が腐り、毒素を生み出し続けるのが破傷風という病である。素人目にも、このまま放置して恢復するとは思えず、まずはこの腐敗部分をどうにかせねばならぬ。

 蟲使いは壺籠の蓋を開けると、その口をナディの痛々しい股座へ向け、寝台に置いた。かさり、かさりと、中からの動きに揺れる壺籠。

 出てきたを見て、ジャクバは叫びそうになった。娘の腰を挟んだ向かいで、右脚を抱えているハエルは、実際に悲鳴を上げた。

 蛆である。

 人が両腕で抱えられるほどの、巨大な蛆。そうとしか形容のしようがなかった。

 丸く肥えた白い身体を蠕動させ、その生き物はゆっくりとナディに這い寄る。脚はなく、頭の輪郭すら判然としない。戦慄しつつ、この寝台は捨ててしまおうと密かに決意するジャクバ。見下ろす先で、くねる大蛆の前端が円く開く。

 口らしき穴から出てきたのは、得体の知れぬ粘液を滴らせた触手の束――それとも、舌であろうか? とかく二日前、ナディが一瞬だけ見た、あの器官だ。

 ハエルが首を絞められる鳥のような声で呻いている。娘の脚を投げ出し、呪術師を蹴倒すべきか。それとも娘を抱えて逃げ出すべきか。考えているのは、そんなところであろう。

「ハエル、落ち着かんか。これはだ。こいつは呪医の道具だ。――そうであろう、蟲使い?」

 つとめて冷静を装い、ジャクバは妻と自分のために念を押す。蟲使いは頷いた。

「さよう。お初にお目にかけまする。わが相棒たる頼もしき〈妖蛆オルミス〉、ラドウィクにございます」

 内心、ジャクバも総毛立つ思いではあったが、まだ踏みとどまることができている。もとより彼には、妻子を財産とみなす冷徹な家父の視座がある。こうなった以上、蟲使いに取り乱したところなど見せては、男の沽券に係わるではないか。

 そんな意地は、触手の一本がナディの膣の奥深くまでねじ込まれるに至って、あえなく揺らいだ。ハエルは娘のふくらはぎを固く抱いたまま、この蛮行に咽び泣いている。

「なんっ……きさま、これは何を……」

 自分を落ち着かせるために問いを発したのが、効を奏した。蟲使いの返答は、あくまで事務的な呪医としてのもの。

「念のため、をしております。ご息女が暴行されたのは九日前。着床の有無もわからぬ段階ですが……もし卵が精を受けておれば、そのまま妊娠が成立してしまうおそれも、なしとはできませぬ。

 あくまで処女のまま嫁ぐ――という話になさるのでしたら、〝不義の子〟を育てることなど、できぬ相談でしょうな?」

「当然だ。いちおう妻のぶんと偽って、里の薬師から卵流しを買い、飲ませはしたが……」

 卵流しとは、ある花の毒を薄めて作られる、経口避妊薬の一種である。効果が出るかどうかは五分程度の代物で、およそ確実とは言えぬ。

 蟲使いは首を振り、挿入された触手を指さす。

「あのような粗野な薬に頼るより、ラドウィクに方が早く、害もなく、確かです」

「喰わせ……!?」

 嫌悪の念も、度が過ぎれば恐怖に変わるのだということを、ジャクバは初めてわが身で思い知った。

 人間は卵子と精子の結合より生まれる、とは古来あるひとつの医学的観念である。あの触手は――舌か、口吻の一種かは知らぬが――ナディの卵子を喰らっているのだ。卵管と子宮を舐め回し、受精卵があればそれも吸い出す。〝事後避妊〟とはよく言ったもの。要は、であった。

 あの化物は、生まれる前の人間を喰うこともするのだ――。

 柄にもなく、ジャクバは祈った。どうか、モラハンの糞にも劣る精子よ、娘の卵子に辿り着いてなどいてくれるな。

 娘のためではなく、むろんモラハンのためでもなく、自分自身のためでさえなく。もし存在していれば、たったいま蟲に食われて消滅してしまったことになる赤子のために、そんな命が〝初めからなかった〟ことを、ジャクバは祈った。聖樹の信仰篤きこの里においても、史上もっとも奇妙な祈りであったと言えよう。

「――奥のが済みました。では、壊死した細胞の除去および解毒に掛かります」

 ハエルはもう固く目を閉じて、顔も背けている。母親のくせに、などと責める気にはなれず、むしろジャクバにも正しい判断と思えた。ナディを眠らせたのも正解であろう。意識のあるまま、蛆の怪物に性器を奥までしゃぶられて、正気でいられる女など、果たしてこの世にいるのか。

 せめて自分くらいは、この狂気の沙汰を最後まで監視せねばならぬ。そう決意を締め直すジャクバに、間を置かず次の試練が襲い掛かる。

 壊死した傷口に添えられた触手が、ぞぶるる、と汚い音を出して、何かを吐いた。吐瀉物か、さもなくば黄ばんだ精液を思わせるような、白濁した分泌物。

 ――否。

 白いのは液体ではない。米粒ほどの小さなものが、粘液の中に混じっている。数え切れぬほど多く――蠢いている。

 蛆である。

 小指の先に乗りそうな大きさの、大量の蛆虫が、ナディの膿んだ局部にぶちまけられて、のたうっている。

「きさま、何をやっとるかァーッ!」

 ついに、ジャクバの父性が理性を凌駕し、この冒涜的な所業への怒りを爆発させた。娘の左脚を投げ出し、蟲使いに掴みかかる。

「よくも――おれの娘に、里長の妻となるべき未婚の女に、よくもこのような真似を――」

「落ち着きなさい。これも治療の一環です」

「ふざけるな! どこが治療だ!」

「彼らは壊死した組織だけを食べてくれるのです。蟲使いでなくとも実践可能な、伝統ある療法のひとつですよ」

「なにを、馬鹿な……」

 視界の端で、ハエルが娘の右脚を手放し、倒れた。小蛆の群れを見てしまったのだろう。その様子が、またジャクバの家長的な責任意識を立ち直らせる。

 ――しっかりしろ。んだ。

 娘は眠り、妻はついに気を失い、蟲使いはもとより度し難い狂人。ここで正気を保っていられるのは、自分しかいない。

 己に言い聞かせ、ジャクバは振り上げた拳を下ろす。男の見栄ひとつで、仮初めにも精神の平衡を引き戻せるのは、凡庸な苔農夫がここへきて開花させた、稀有な才能と言えた。

「……蛆どもの、腐肉喰らいの習性を利用する。そういう理屈だな?」

「おおむね、その理解で宜しゅうございます。彼らはラドウィクの体内で培養された生体端末……傷を喰らい、毒を啜り、肉を崩して組み立て直す。あとは司令塔たるラドウィクに任せておくだけで、処女膜の補修も病毒の除去も、きれいに済ませてくれまする」

「二言はないな? で、確かに治るのだな? こいつらがナディの腹の中に潜り込んで、残るようなことはないのだな?」

 きりりん、かりりん――赤橙の玉簾が小刻みに揺れる。詰め寄るジャクバに、蟲使いが含み笑いを洩らしたものと思われた。

「ご心配ならば、術後に患部をその目でご覧ください。小粒の蛆たちは仕事を終えれば自壊し、己が身を薬液と化して溶け去るさだめ。医業のためだけに生まれ死ぬ、儚い命です……」

 開き直ったような太々しさを腹の底に据えて、ジャクバは〈妖蛆〉ラドウィクの脇に腰を降ろした。ここまでのことをやるからには、なんとしても治療を成功させてもらう。

 己を一個の監視装置に擬し、娘の膣口で蠢く小蛆たちを凝視する。命が産まれ来る神秘の狭間で、死せる肉を喰らう不浄の虫ども。しかし彼らはこの戦場で、ナディの命を蝕む病と闘う兵士でもある……。

 それからジャクバは、蛆たちが一匹残らず溶け去るまで、身じろぎひとつしなかった。

 生と死とが四つに組み、互いに喰らい睦みあう無形の巴を、虚ろな目でただじっと、眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る