第2話 そういうことって、あるものなんだよ

「あなた、唐木田恭介君?」


今日は暑いですね、とでも言うかのように気軽な口調で、彼女は尋ねた。唐突であったがために、その問いが唐木田に与えた驚きは大きかった。それは無糖のブラックコーヒーとなって喉で踊った。少しむせ返ってから、唐木田は彼女を見る。但し先までと違って、唐木田の視線は彼女を射抜くようであった。まるで購入した美術品が贋作であると気付いた時のように。あるいはその逆の場合のように。


染めた事のない肩までの黒髪はまだ色気を伴わない艶を放っている。僅かにくせのついた前髪は目にかからない程度に切り揃えられている。眉はなだらかな放物線を描き、厳しさよりは優しさを感じさせる。その下の、はっきりと開かれた目は丸く、長い睫毛がそれを印象付ける。口元に小さなほくろがある。鼻は小さく薄いが、却ってそれが彼女の容貌を整えている。何より、どれだけ微に入り細を穿って観察しようにも、彼女の顔は唐木田の知り合いのいずれとも一致しなかった。


「そうだけど」と答えた唐木田は、続けて問わずにはいられなかった。

「どこかで会った?」


今度は彼女が不思議そうに何度か瞬きをして、首を傾げた。


「え、会ったことなんてあった?」

「いや、残念ながら僕には覚えがないんだ」

「そうだね、私にもないよ。初対面だよね?」


唐木田は彼女に気付かれない程の、小さな溜め息をつく。もはや疑いようもなく、彼女は唐木田の苦手とする手合いだった。まあいいけど、と心中で呟く。


「どうして初対面であるはずの僕の名前を知ってるのさ」

「ああ、そういうこと」と彼女はようやく得心した。「お婆ちゃんから聞いたの」

「お婆さん?」

「私と、同い年くらいの、唐木田恭介君、という名前をした、男の子が、島に、来るって」


一語ずつ強調するように言いながら、彼女は唐木田を指差す。


「そのお婆さんの名前って?」


唐木田には心当たりがあった。一つしかなかった。唐木田恭介という名前を知っている老婆は世界中に一人しかいない。脳裏ではいつにも増して豪快な笑声が轟く。もしいま頭痛を伴う風邪を引いていたら致命傷だったかもしれない。

果たして彼女の返答は、唐木田の予測を一字一句裏切る事はなかった。


「間野(まの)キミ」


その名前を――それこそ結婚式場でたまたま言葉を交わした女性の名のように――忘れる瞬間を、唐木田はこれまでに何度か想像した事があった。もっとも、その行為が持つ意味を理解してからは、その無益を繰り返すことはなくなった。間野キミならば、暗闇に沈んでいく記憶の奔流さえ、平気な顔で泳ぎきるに違いないのだ。


唐木田は老婆の顔を思いながら、改めて彼女の顔を覗き込んだ。どこかしら相似する点があってもいいだろうに、少女と老婆との容貌には少しも共通するところがなかった。少なくとも外見は。


「成程ね。考えてみればそっくりだと思うよ」

「そう。どのへんが?」


唐木田はその問いには答えなかった。


「ところで、君の名前は?」

「お婆ちゃんから聞いてないんだ?」

「あの人からは、あの人自身の話しか聞いたことがないよ。こっちから訊いたって答えやしないんだ。だって、お孫さんがいる話だって初耳だ」


彼女は唐木田をじっと見つめていた。


「わかる気がする。お婆ちゃん、人が好きだから」

「だったらもう少し人の話を聞いてもいい気がするけど」

「そういうことって、あるものなんだよ」

「どういうこと?」


彼女は唐木田の問いには答えなかった。意趣返しのつもりか、あるいは彼女自身も明確な解答を持たなかったのかもしれない。論理よりも感情を優先する手合いとして。


「当ててみて」と彼女は言った。「つまり、私の名前を」

「わかるわけないじゃないか」


唐木田は考えるよりも早く、困惑を口に出していた。だが少女の口は決して冗談を放ったわけではなかった。彼女は身を乗り出して鼻先十センチにまで顔を寄せ、その視線は期待を伴って唐木田を見つめている。


「わかるはずだよ。他の誰でもない、唐木田恭介であるところの貴方になら」


船のエンジンの駆動音がやけに大きく聞こえた。床を伝わり椅子を伝わり、尻からその振動を感じ取る事が出来た。無数の気泡を吐き出しながらプロペラは旋回する。その推力を受けて船は前進し、風は客室の窓を叩く。それら外界の音を、唐木田は聞いていた。


「町田みい子」

「誰それ」

「僕の高校の担任」


彼女は諦念も露に、見せつけるように大きな溜め息をついて身を退いた。背もたれに体重を預け、まだ不足だと言わんばかりに嘆息を重ねる。露骨な失望に対して、唐木田は狼狽する。


「だって、わかるわけないじゃないか」

「城戸(きど)亜衣(あい)」と、彼女はぶっきらぼうに短く言った。

「それは予想外だった」


勿体をつけた割に、その名前からは何の衝撃も受けなかった。疑問を差し挟む余地もなく、咀嚼する暇もなく、すっかり城戸亜衣は唐木田の記憶に染み込んだ。

彼女――城戸亜衣は大きく缶を傾けて、残りのアイスココアを一気に飲み干した。


「さあ自己紹介も済ませたし、私そろそろ寝るね」


時計を見ると、ちょうど二本の針が重なって12を差していた。彼女は椅子から腰を上げて、両手を広げて伸びをした。浅葱色のワンピースが僅かにたなびく。立ち上がる際のぺたんというサンダルの音がなければ、色香も漂ってきたかもしれない。


「島に着いたら、私もお婆ちゃんのお世話になるの。だからよろしくね、唐木田恭介君」

「よろしく」


亜衣の笑顔に対して、唐木田は簡潔に答える。

彼女は何かを言いかねるように口を開きかけたが、やがて閉じた。背を向けて広場の方へと戻っていく。唐木田は残ったブラックコーヒーをすすりながら、何となく、ぱたぱたという足音を聞いていた。だからそれが思ったよりも早くやんだことにすぐに気付いた。亜衣の去っていった方向へ顔を向けると、彼女と目が合った。


「虫の観察」

「え?」

「したことある?」


やはりと言うべきか、彼女の問いは唐突だった。からかっている様子がないことも、問いの唐突さと同様に終始一貫していた。唐木田は一度天井を見上げた。そこに経験のビジョンが映し出されるのを期待するように。


「モンシロチョウの幼虫なら、ずっと前に」

「どんな観察をしたの?」


それこそが重要だと言うように、彼女は即座に言葉を放つ。それに呼応して、唐木田は幼い頃の記憶を手繰った。虫の観察を課題として出されたのは十年前の話だ。春の暖気に包まれながら小学校のキャベツ畑で幼虫を観察した。周期は三日に一度、二時間目と三時間目の間にある長めの休み時間に行った。


「身体の模様とか、動き方、食事や排泄の様子、もちろん、蛹から蝶へ変わる過程も観察した。幼いなりに細かい観察日記をつけていたから良く覚えている」


実際、唐木田は詳細に記憶していた。観察記録がノートの空白をどれだけ埋めたのかさえ答えることができた。但し何を感じたのかをまるで思い出す事ができなかった。


「私はやったことがないの。あくまでもあなたを基準にした、その相対としての意見だけれど」と言った彼女の言葉に、それを残念に思う様子はなかった。むしろ彼女は誇らしげに胸を張っているようにさえ見えた。

「だから今度、教えてね、やり方」


だから唐木田には、それが彼女の本心であるようにはどうしても思えなかった。言うなれば紅葉を待つ銀杏の木に、一枚だけ別の葉が紛れ込んでいるような、僅かな違和感。そうでなければ、キーボードでかな入力と英字入力を間違えてタイプして、それを英語で読んでしまったかのような――だから別の読み方があるはずなのだ、彼女の言葉には。だけれども目を凝らしても判然としない小さな違和を、唐木田は捉える事ができなかった。


「本当に言いたいことは別にあるんじゃない?」


その言葉は大気を震わせないまま霧散した。何しろその違和感は漠然としすぎていた。代わりに唐木田は、何かの呪文のように胸中で唱える。まあいいか、と。


再び歩き出した亜衣から、唐木田は手元の文庫本へと視線を転じた。いつのまにか缶から滴り落ちた水滴が、本のページを濡らしている。拾い上げてページをめくると、本は何十ページかに渡って水滴を吸収していた。インクの滲んだページをめくっていくと、遂に水の届かなかったページが現れる。ソーニャが葬儀への参列を求めていた。


ぱたぱたという足音がやむ。今度は十分に距離が離れていた。理由もわからないまま漏れた安堵の息が引き金になったようで、唐木田にも眠気が訪れる。着船時刻は午前六時前だったから、もう就寝してもいい時間だろう。


荷物をまとめて仮眠室へと向かう。亜衣に背を向ける格好で通路を進むと丸窓を備えた扉が現れる。派手なきしみをあげながら重々しく開く扉は、しかしベニヤ板を二枚重ねただけの安い代物だった。単純に立て付けが悪いのだ。うるさかっただろうかと懸念して後ろを振り向きかけたが、やめた。

ベニヤの扉と同様に、全部で十基ある仮眠室のベッドもまたひどい作りをしていた。浴槽のような形状をしたプラスチック製で、深さ三十センチという浅さによってどうにかベッドなのだと知れる。幅は一メートルもなく、横になると膝から先が収まらない。敷いた布団は海苔のように薄っぺらで、タオルケットが一枚おまけのように付いていた。

まるで出来損ないの棺桶だ、と唐木田は思った。どこからか「似合ってるよ」という城戸亜衣の声が聞こえた。もちろん錯覚だ。



唐木田は虫の観察についての夢を見た。但し彼は虫の視点を得ていた。モンシロチョウの幼虫として、キャベツの葉に乗りながら唐木田恭介という人間を見上げていた。しかしそれは虫の視点を得ていたのであって、唐木田自身が虫になったわけではなかった。その差異が重要であるとは唐木田には思えなかったが、とにかくそういうことだった。


唐木田は幼い唐木田ではなくあと三日で十八歳を迎える唐木田だった。唐木田恭介は無機的に紙上に鉛筆を走らせて観察日記をつけていく。十年というブランクを感じさせない手つきで、ただ様子を詳細に鮮明に書き記していった。きっとファーブルよりも優れた観察日記に違いない、と虫の視点で思った。ただその優れているという根拠が、優劣によるものなのか好き嫌いによるものなのか、幼虫には判断がつきかねた。

やがてチャイムが鳴り、三時間目が始まった。

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