第12話 私の名前を当てられなかったあなたは、だから、出来損ない

全身を水に包み込まれて思い知った事は、急流が見た目以上の力を有しているという事だった。前進しようにも、手足を満足に動かす事も出来ない。波に翻弄され、上下左右の方向感覚まで定まらなくなってくる。思わず目を閉じそうになるが、唐木田は堪えた。水中には流木や枯れ枝も多くあり、それらに対処するには目を閉じるわけにはいかなかった。激流は唐木田の肺から空気を逃がし、すぐに息が苦しくなる。唐木田は一握りの冷静さを足に集中し、上だと思う方向へ泳いでいった。流れに抗いながら少しずつ進んでいくと、水面が見えてきた。唐木田が更に近づいていくと、突如、待ち構えていたように水面上に影が差した。水面越しであるためにその影はひどく歪んで見えたが、彼が唐木田恭介と同じ顔をしていることはわかった。その眼は血走って、爛々と輝いている。げらげらげら、と唐木田の顔をした何かは下卑た笑い声をあげた。


「これから君は、ようやく一人前になる」と、そいつは言った。「但しそれには俺を受け入れる必要がある。それが条件だ。ところで君は、俺がいったいどういう存在であるのか理解しているんだろうか」

「多分」と、唐木田は答えた。

「それならば結構」そいつは粘着質の手で髪をかきあげた。粘液がへばりつき、頭髪はそのまま固まった。「さあ、俺を受け入れる事だ」

「君を受け入れなければ、対岸にはたどり着けないんだろうか」


「うん、そういう事だ。俺を受け入れなければ対岸にはたどり着けない。これはずっと昔から決められている事だし、誰もが当たり前に通過するポイントだ。そう、当たり前だ。こんな大袈裟な事をする必要性なんて皆無だよ。本当は。だけどこの舞台においては、わざわざ俺が登場する。だから余計に理解しづらくなる。ピースを全てひっくり返して挑戦するパズルみたいにね。不必要な手間をかけるからややこしくなる。さっき君も思ったように、物事は単純であればあるほどわかりやすく、正答を導きやすい」


「だけど正答を導けないわけじゃない」と、唐木田は言う。「ピースをひっくり返したパズルだって、完成させる事は出来る」

「もちろん」と、そいつは唐木田の顔でげらげらげらと笑む。「だけど問題になっているのは例えの話ではなくて君自身がいままさに直面している事だよ。どうだろう、君自身が俺の事をどう思っているのか、聞かせてはもらえないだろうか」


唐木田はそいつに対して自分が抱く感情を確認する。はじめは船内で、次に老婆の話の最中に、そして強引に亜衣を組み敷いた時に、いつも唐木田を苦しめ搾取してきたのが彼だった。そのたびに味わった事のない不快感に襲われてきた。


「正直、ひどく困惑したよ。僕ではない何かが僕の中にいるんだから」

「一つ訂正させてもらっていいだろうか」と、彼は粘着質の人差し指を立てる。

「構わない」と、唐木田は言った。

「君ではない何か、と君は言う。しかしそれは間違っている。俺が君の中にいた以上、俺という存在は君である何か、と表現するのが正確だ」

「成程」と、唐木田は頷く。

「物事の把握は正確であるほど誤解を招かない。特に俺と君との間に、これ以上の誤解を生じさせてはならない。致命的な問題になりかねないんだ。我々は完全にわかりあわなければならない。百年を共に過ごした夫婦よりも尚、完全に。その必要性は理解してもらえるだろうか?」


唐木田は頷く。


「理解できる。でも僕はまだ、君を受け入れるには抵抗があるんだ」

「まだ」と、そいつは必要以上に一文字ずつを強調して言った。まるで発音の仕方を教えているようだった。「わかるよ。君の気持ちはわかる。いつの時代も、誰だってそうだった。初めて直面するものに対しての判断は慎重になる。万事即決の人生を送ってきた人間なんて馬鹿か英雄のどちらかだ。だけれども我々に残された時間はそれほど多くはない。残念な事にね。否が応にも決断の時はすぐそこに迫っている。いままで何一つ自発的に行動してこなかった君の眼前にまでね」


そいつは嘆くように両手で顔を覆った。両手の平を顔面に擦りつけるその奥で、げらげらげらという笑い声が漏れてくる。手を放すと、へばりついた粘着質の液で彼の顔は光沢を放っていた。唐木田は思わず顔をしかめる。彼を受け入れるのか、と自問する。


「あるいは謝罪でもすれば、君は俺を受け入れてくれるのかもしれない。だけれども俺は謝る事が出来ない。なぜならば俺の本質は非常に純粋であるからだ。例えば、食べて・すみません。眠って・すみません。求めて・すみません。そういう事だ。それらはとても不自然な事で、だから俺は君に対して許しを請うわけにはいかない。謝るのは、むしろ、君の方さ。さあ本当に時間がない。受け入れる時だ。そう警戒する事はない、安心していい。一旦受け入れてしまえば、それほど悪くはないものだ」

「でも僕は、君の必要性を実感していない」


「実感」と、彼はまた一文字ずつを強調する。「そういう事なら話は簡単だ。さっきも言ったように、物事をシンプルに考える事だ。俺を受容する事で君の手は彼女に届く。言い換えれば、君の手が彼女に触れるには俺が必要だという事だ。いまの君にとって、これに優る実感はほかでは得られない。わかってもらえただろうか」


唐木田はそれでも数秒の間沈黙していたが、やがて小さな声で成程、と呟いた。そいつは大きな口を一層歪ませた。満足げな笑みに見えなくもなかった。


「さて、話が長くなって申し訳なかった。そろそろ息がつらいだろう。息継ぎは大事だ。吐き出した分だけ再び吸い込まなければならない。それはとても重要な事だ。それでは俺の存在の必要性を理解した君は、いったいどのような答えを導き出したんだろう」


そいつは水面をべたべたと数歩這って、顔をぐっと唐木田へと近づけた。ぎょろりとした目玉は実に様々な方向へ向いたが、不思議な事に唐木田は常に彼の視線を感じていた。

言葉の通り、彼は当たり前の存在なのだ、と唐木田は思う。その正体を把握するには経験が圧倒的に不足していて、はじめこそ戸惑った。しかしいま、十七年間という歳月の中でそいつの存在に気付きもしなかった事について、唐木田は頭を垂れた。


「いままで申し訳なかった」

「いいさ」

「君を受け入れるよ」

「ありがとう」


唐木田の顔をしたそいつは、水面上から粘着質の手を差し出した。唐木田は躊躇う事なくその手を握った。彼は相変わらずげらげらげらと下卑た笑みを浮かべながら、力強く唐木田の身を引き上げた。唐木田は海面下から顔を出す。大きく息を吸い込む。伸ばした手はもう誰の手も握ってはいなかった。代わりに、彼の手は岸に触れていた。眼前に、木の幹にもたれかかった城戸亜衣の姿がある。視線を合わせると、彼女は真っ青な顔で微笑みを浮かべた。唐木田は両腕に力を込めて岸に上がった。


「助けに来た」と、唐木田は穏やかな口調で言った。

「嬉しい」と、彼女は消え入りそうな声を、紫色の唇から漏らす。「とっても嬉しい」


唐木田は一歩一歩、ゆっくりと亜衣に近づいていった。海水をたっぷりと含んだ靴は一歩ごとにとても不器用な音を立てた。嵐は唐木田と亜衣からいろいろなものを奪っていったが、とうとう危機感をさえ奪った。全身の感覚は消失し、思考も磨耗している。心身がどのような状況にあるのかを、嵐は忘れさせていた。


唐木田は亜衣の前で膝をつき、目線の高さを合わせる。それから遅々とした動作で腕を上げ、彼女の震える肩を抱いた。だが手応えは返ってこなかった。それは寒さによる麻痺とも違っていた。唐木田の両手は全く抵抗を受ける事なく宙に静止していた。亜衣が苦笑する。喜ぶべき再会が実はひどく儚いものだと相手に告げるかのような、感謝と謝罪と諦念とが見事に混ざり合った笑みだった。唐木田は目を瞠り、愕然とする。彼女の身体は、唐木田が触れたところからじわじわと消えていった。


「何なんだ、これ」と、それだけを口にするので精一杯だった。

「ごめんね」と言って、亜衣はゆっくりと目を閉じる。「でも、嬉しかったのは本当だから」


唐木田は、失われつつある彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。その存在を可能な限り、出来るだけ多く確認したかった。だがそれは叶わない。亜衣の全身を抱きしめれば、その瞬間に彼女は完全に失われる。結局それは時間の問題だった。


「出来損ない」と、彼女は言った。それは随分昔に聞いた単語のように、唐木田には思えた。「私の名前を当てられなかったあなたは、だから、出来損ない」


彼女は屈託のない笑みを浮かべて、「またね」と言った。本当は手を振りたかったのかもしれないが、彼女に手は残されていなかった。そしてその言葉を最後に、城戸亜衣の姿はすっかり消え失せてしまった。しばらく待ってみたが、彼女が再び姿を現す気配はなかった。嵐による一切が意識の外にあった。三十分間、唐木田は亜衣の残滓を木の幹に探し求めていたが、三十分後、それは徒労という一言によって片付けられた。唐木田はかちかちと鳴る歯を擦り合わせ、震える手で拳を作る。その震えを抑えるように一方の手で拳を覆う。すると両手が震え出した。どこを向いていいかわからない眼は右往左往し、それに感化されるかのように眉も僅かに震えた。どういう表情を作っていいのかわからない、と唐木田の顔を形作る全ての要素が悲鳴をあげていた。唐木田恭介の全身を、激しい感情が包み込む。それは優しさの片鱗もない、荒々しい抱擁だった。


その感情の正体がわからないまま、唐木田は力無く立ち上がって、背後を振り返った。対岸では間野キミが紫煙を吐き出している。彼女は表情一つ変えてはいなかった。意思ってやつは伝わればいいのさ、と老婆は言った。彼女は言葉を発する事なく、態度のみで唐木田に十全に意思を伝えている。間野キミは動揺していない。間野キミはこの結末を承知していた。この結末は間野キミの意思に相違ない。恐らく好機は、彼女の予想通りに消化されたのだろう、と唐木田は判断する。


いつしか唐木田を襲う全身の震えは、先程までとは違う感情に起因していた。


「怒ってるのかい、唐木田」と、老婆は訊ねた。


対岸からの問い掛けにもかかわらず、その声ははっきりと唐木田に届いた。だが唐木田は答えなかった。それこそが何よりの答えであるかのように。


「――そうかい。そいつは良かった」と、間野キミは浅く頷いた。


唐木田の頬をいくつもの水滴が伝う。それらの中には、雨粒でも海水でも汗でもないものが確かに含まれていた。

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